いのちより大切なもの


いのちより大切なもの


 古来より、人間は「いのちより大切なもの」を見出してきました。
 
 親が子を慈しむ心。老人が孫を「目の中に入れても痛くない」と表すような心。

 恋人が相手を思う心。夫婦がお互いを思う心。
 それらはときとして、「自分のいのちより大切なもの」として、人間の心に懐かれることがあります。
 なかでも宗教は、そういう人間の心の営みを、もっともよく表現してきました。

 「雪山童子(せっせんどうじ)」や「捨身飼虎(しゃしんしこ)」に示される仏教の物語りは、
「他者のいのち」を「自分のいのち」よりも大切にする、菩薩の心をあらわしています。
 これらはいずれも、強制されたものではなく、狂信によるものでもありません。
 人はときに、強制されて、あるいは狂信によって、自らのいのちを投げ出すことがあります。
 しかしそうではなく、強制されたのでもなく、狂信によるのでもなしに、人はときに、何ものかに命を投げ出します。
 

死の意味を見出すのが宗教


 
 「宗教を説明する、仏法を説明するというようなことはいらんことじゃないかと。
暇があったらやってもいいけど、まず第一自分がそこで自分になるということが大事なんじゃないかと、
死んでもいい自分になるということが大事なんじゃないかと。」
 (安田理深『十地経論講義第七地・巻三』〔昭和四六(一九七一)年の講義/
                                                   十地経の会〔平成四(一九九二)年〕二〇頁)

 「まことに死は、私たちをして永遠の生へと更生せしめるものなのです。
こういうことを、私は高光大船(たかみつ・だいせん)先生から教えられているのです。
死の意味を発見せしめるものが真宗であると思います。」
  (水島見一『大谷派なる宗教的精神』〔二〇〇七年〕東本願寺 九三頁)

 上にあげたことばはいずれも、日本仏教の、中でも「真宗大谷派」という宗派に属する人たちによって語られたことばです。
しかしこれは何も「真宗大谷派」の人たちだけがこのように考えるというのではなくて、
宗教というものに属する本質的な心ではないでしょうか。

 水島さんはさらにつづけて、次のような話を紹介しておられます。

 「高光先生に次のようなエピソードがあります。三十八歳になるガンを患っている人がいました。
その方の奥さんが高光先生に「ぜひ夫に話してやってくれ」と頼みにやってきたのです。
(中略)高光先生は、ガンでもう明日、明後日の命という容態の人のところ行きました。
(中略)明日もある、努力すれば願いがかなうというような人間的希望が、今ガンによって絶望のどん底に落とされているではないか。
そういう事実について、高光先生は、(中略)「その絶望には、如来から賜ったという意味があるであろう」と言うわけです。
その絶望の意味を見出せ、ということであります。
 すると奥さんが、「ご住職、そんな難しいこと言わないで、夫は死ぬのだから、
ナンマンダブツ一つで極楽に生まれるということさえ言ってくれたらそれでいい」と言うのです。
すると高光先生は男性に向かって、
「あなたの最愛の妻ですら、ナンマンダブツというような、どこかで小耳に挟んだ念仏をもって、
あなたの今まさに永遠のいのちへの更生の絶好の機会をごまかそうということしか言えないのだ。
どうせ奥さんは、あなたが死んだ後の生活が成り立つかどうかということを気にしているのだ。」
(中略)人間的希望が絶望するということは、もう手も足も出ない状況になる。手も足も出ない絶望。
ところが、この絶望においてはじめて如来招喚の声を聞くことができる。絶望こそ福音なのだ、ということです。(中略)
 すると、その方が「わかった、わかった」と言って、涙を流して喜んだのです。
私のガンには実は大きな意味があったのだ、ということでしょう。」
  (水島見一『大谷派なる宗教的精神』〔二〇〇七年〕東本願寺 四三~四五頁)

 奥さんのいわれることも分かります。私なら多分、奥さんの願い通り、「ナンマンダブツ一つで極楽に生まれる」と言うでしょう。
お西(西本願寺)系のお坊さんたちも、おそらくは多くの方が確信をもって、そう言われるでしょう。
それは決して、「今まさに永遠のいのちへの更生の絶好の機会をごまかそうと」することではない、と私は思います。
しかし高光さんの言われることも分かります。


 「真宗は決して心の持ち方の次第を教えるのではありません。
心を持ち替えるのではなく、私に死というものが与えられてある、その死の意味を知るところに真宗の真義があります。
如来より賜りたる「死」。このような強い確信こそ、真宗によって付与されるのではないでしょうか。」
                                           (水島見一『大谷派なる宗教的精神』〔二〇〇七年〕東本願寺 四五頁)

 と水島さんは言っておられますが、その通りだと思います。

 宗教によってであれ、親が子を思うような心であれ
(仏教はそれを「小悲(しょうひ)」といって、いささか軽く考える傾向があります。
 如来の大悲のまえでは、確かに小さな悲しみかもしれませんが、
私たち人間にとっては、やはり大事な心なのだということを、現代ではとくに見直す必要があるのではないかと思います。)
 同じように、人間が「いのちより大切なもの」に出遇った事例を、わたしたちはたくさん知っています。

 わたしの気がついた範囲で、それらの事例をとりあげたいと思います。
 
                      〔以下、それらの事例〕