高明寺レポート
存在の責任
存在の責任
「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」
という言葉が『歎異抄』にあります(第十三章)。
仏教が宿業というのは、存在の責任としての宿業です。ですから、本来の仏教の思想において理解するならば、
「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみ」というのは、存在の責任としての「宿業」なのです。
存在の責任というのは、もちろん自己の存在の責任です。だれか他の人の責任ではありません。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉も、『歎異抄』の同じ章の中にあってよく引用されるのですが、
その意味も本来からいえば「さるべき業縁」を、自己の存在の責任として自覚することです。
だからこそ「いかなるふるまい」にも責任をとる。それが仏教です。
問題は、「どう責任をとるか」です。
浄土仏教におけるその答えは、「念仏すること」です。「念仏すること」とは、「自己の全存在をもって真実のいのちに帰る」ということです。
「仏」とは「真実のいのち」であり、「仏を念ずる」とは、「真実のいのち」に帰ろうと発起すること、思い立ち、立ち上がることです。
自らの全心全霊をもって、「仏のいのち」の中に、「如来の本願」の中に、身を投げ出すことです。
安田理深という先生にこういうお言葉があります。
「我々の考えが外で決められているという意味の宿命や運命は外道の考えであろう。(中略)人間は自然の運命に決まっているのではない。
人間は人間以外のもので決めたものではない。人間の運命を決めるものは人間自身である。」
「自己が自己の運命をつくるものだ。これは運命を自覚のなかに取り込んだ。他人に責任をもっていくわけにはいかない。責任感としての運命である。
偶然感としての運命は外道である。存在の責任感としての運命を考えなければならない。今日の言葉では、実存という言葉であらわすのではないか。」
(「浄土の拡大」〔一九八一年の講義〕/安田理深講義集4『存在の故郷浄土』〔二〇〇〇年〕彌生書房所収 一二八~一二九頁)
存在への勇気
この「存在の責任感」を、ティリッヒ(ドイツのプロステスタント神学者)という人は、「存在への勇気」と呼んでいます。
ティリッヒは言います。〔以下、「存在への勇気」〕