高明寺レポート
宗教的次元と道徳的次元
宗教的次元と道徳的次元
人間の「罪」について考えるときには、「あなたと私」という宗教的次元と、「あなたと彼」という道徳的次元のちがいがあるのであって、
それを混同してはいけないと、井上洋治氏は言われます。(注1)
(注1)井上洋治『余白の旅』日本基督教団出版 から
「『沈黙』には、ポルトガルからはるばる海を渡って日本に宣教に来たセバスチャン・ロドリゴ神父が、
幕府のキリシタン禁制令によって捕らえられ、遂に踏み絵を踏んで背教していく過程がまことにひきこまれるような
迫力をもってえがかれていた。秀れた文学作品であるだけ、『沈黙』が投げかけた問題は大きかった。
教会が現在までは教会史上の汚点として扱ってきた背教者を大きくとりあげ、ましてその背教の姿勢を肯定しているかにみえる
この作品に、憤懣やるかたなし、といった聖職者や信者もかなり多くいたようであった。
ロドリゴ神父が踏み絵に足をかける場面はこの『沈黙』のクライマックスであるが、キリスト教の信者たちが、
あるいは問題にし、あるいは憤慨しているところは、明らかにこのクライマックスの場面で、ロドリゴ神父に語りかけてくる
キリストのことばにあるのに違いなかった。」
「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、
自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖(きよ)らかと信じた者、もっとも人間の理想と夢にみたされたものを踏む。
この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあのひとは司祭にむかって言った。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前に踏まれるため、この世に生まれ、
お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
(中略)
「ルカによる福音書」には、ペテロが三度イエスを否んだとき鶏がなき、イエスが振り向いてペテロをじっと見つめたと記してある。
遠藤氏には、このペテロをみつめたイエスのまなざしと、踏み絵を踏もうとしたときのロドリゴ神父を見つめたイエスのまなざしとが
完全に二重写しになって感じられていたに違いない。そのときのイエスのまなざしは、確かに哀しみにみちたものであったろう。
しかし決してそれは怨みや審きのまなざしではなく、そのペテロの弱さを受入れ、ゆるすまなざしであったことは間違いない。
更に「マルコによる福音書」一四章には、最後の晩餐のとき、すでにイエスはペテロたちの裏切りを予見していたと記されている。」
(中略)
「イエスはペテロの裏切りを激怒することもできたし、また怨むこともできた。しかし「ヨハネによる福音書」が記しているように、
イエスは、この自分を弱さのために裏切っていくペテロたちを最後の晩餐の席上でもこの上なく愛されたのである。
「ペテロ、お前は私を裏切って逃げるだろう。私にはそれがわかっている。裏切るがよい。だが私を裏切り、
私を見捨てるそのお前の弱さを背負うために私は来たのだ。そのお前の罪と哀しさ背負って、明日私は十字架にのぼる。」
イエスはペテロにそう心の中でいっておられたのに違いない。
いつも人々から侮蔑のまなざしをうけながら、もっとも重い人生をとぼとぼ歩んでいた売春婦や癩病人に向けられている
イエスのまなざしこそ、イエスの生涯を貫いている姿勢のあらわれであると思い、
以前からそのイエスのまなざしに完全に魅せられ始めていた私には、
遠藤氏がこのイエスのまなざしの中に読みとろうとしていたものが何であるかは痛いほどよくわかった。
そしてそのイエスのまなざしの立場に立つかぎり、遠藤氏のいわんとしていることは正しいはずだという確信もあった。
しかし反面、イエスが背教というような悪いことをしてもよいなどというはずはない、
という一部のキリスト者の批判もまたもっともなようにおもえたのである。」
「もちろん私自身、ユダにしろ転んだ司祭たちにしろ、彼らがそのために救われないだろうなどということは考えたことはなかった。
何らかの形で裏切らざるをえなかった人間の哀しみや自己嫌悪さえも、イエス自身共に背負って歩かれたに違いないからである。
しかし一部のキリスト者たちがいっているように、踏み絵を踏んだ後のロドリゴに対して、
イエスがそれでいい、お前の気持ちはよくわかるというのならうなづけるが、
踏む前のロドリゴに対して踏むがよいというのはおかしいという考え方に対しては、それも何かもっともなように思えたのである。
たとえ事情にはどのように同情すべきものがあるにせよ、これを自分のもんだいとして考えてみたとき、とにかく司祭として、
私には、姦通するがよいとか、赤ん坊を殺してよいなどということは決して口にすることはできないことだと思えたのである。」
「 イエスのまなざしは、自分を裏切るとわかっている人間をも決して見棄てず、
これを自らの哀しみと痛みとにおいてゆるし受け入れるまなざしである、
ということも真実であれば、また同時に、姦通者も泥棒もゆるすイエスであり、裏切ろうとする弟子たちに「お前の気持ちは分かる、
私を裏切るがよい」といったイエスではあっても、弟子たちに対して「姦通をしてもよい、
泥棒をしてもよい」などとは決していいはしなかったであろうイエスであるということもまた真実なのである。
この二つの真実が決して矛盾するものではなく、二つの違う次元において、少し大ざっぱで乱暴ないい方をすれば、
「あなたと私」という宗教的次元と、「あなたと彼」という道徳的次元において共に真実であるということが私にわかってきたのは
ずっと後になってある一人の女子学生のことばをきいてからのことであった。」
「矢代静一さんの戯曲『妖かし』を見てから、私はやっとミサの聖祭のときのイエスの御聖体の意味がわかってきたように思えて、
とても嬉しい気がしています。
実は私は以前からずっと、ある一人の男性を『妖かし』の中の女性のように、
鬼になって本当にたべてしまってやりたいと思っていました。
それが先日の日曜日、御聖体を拝領しようとしたとき、ふっとイエスが私にこういっておられるように思えたんです。
『そんなにあの人をたべてしまいたいのなら、あの人の代わりに私をたべなさい』」。
「他の人を傷つけてはいけない、そんなに他の人を傷つけたいのなら、代わりに私を傷つけなさい。
そのために私はこの世に生まれてきたのだし、どんなに傷ついても私の傷の痛みの中に私はあなたを受け入れてあげる」。
これこそがまさにイエスの十字架の死の意味ではないか。
パウロが「贖罪」ということばで表現しようとした十字架の死の意味ではないだろうか。」
(井上洋治『余白の旅』日本基督教団出版 一七三頁~一七八頁)
「裏切るがよい。だが私はそれでもあなたを愛し、受け入れてあげる。私はそのために来たのだ。
私の生命をあなたのためにあげる」といわれたイエスのことばは、
「あなたと私」という人格的な悲愛(アガペー)の次元に属する言葉であって、
決して「あなたと彼」、「あなたと彼ら」という一般的な、道徳的な次元と混同してはならないものであることをさとったのである。」
(井上洋治『余白の旅』日本基督教団出版局 一八〇頁)