高明寺レポート
カリヤ-エフの倫理
カリヤーエフの倫理
権力のもつ犯罪性を、透徹した眼で洞察した作家であった埴谷雄高は、同時につぎのような大事な視点を、私たちに遺してくれています。
「フランス革命のなかで、サン・ジュストが「人間の心は自然から暴力へ、暴力からモラルへ進む」と言ったのは、
自らも断頭台へのぼらねばならなかった恐怖政治のなかで未来へ投げる幽かな微光として発したひとつの予感であった。
疑問と反省は、革命家のなか自体に生まれてきたが、
そのひとつの輝かしい部面が二十世紀初頭のテロリストの心情のなかにあると見たのは、アルベール・カミュである。
カミュは、セルゲイ大公の暗殺に際して馬車のなかに子供がいたという理由で爆弾を投げなかったカリヤーエフとその仲間を扱って
『正義の人々』を書いているが、
この時代のテロリスト達は目標とする人物以外の他の人間を殺傷することを堅く拒否したばかりでなく、
目標とする人物の死に対しては自らの死をもって贖った。
ひとりの人間を殺すことは許され得るやという質問を自らに発した果ての苦悩を踏み越えた直截な回答がそれなのであった。
人生には、二点間を結ぶ最短距離は直線であるといった数学的な明確さをもった明晰な手段はほとんどないが、
相手の死に対する自らの死というこのテロリスト達のぎりぎりの公式はややそれに近いといえるかもしれない。
ひとつの思想をひとつの生命の上に置くことによって相手のみを殺して自らは生きのびるという通常の理由づけと正当化を受けいれることを、
彼らは拒否したのであった。」
(埴谷雄高「目的は手段を浄化しうるか」〔一九五八年・筑摩書房『講座現代倫理』〕
/『幻視のなかの政治』〔一九六〇年・中央公論社/一九六三年・未来社〕所収 五五~五六頁)
人のいのちをまもるということ
「私たちが共に生きる世界」において、人のいのちを守るということが、私たちにとって極めて大事な「約束ごと」であるためには、
私たちはいのちをかけて、互いにそれを誓い合わなければならないのではないでしょうか。
私においての倫理は、また仏法にふれたものとしての誓約は、カミュが紹介するロシアのテロリストたちの倫理をふくんでいます。
彼らは、「目標とする人物以外の他の人間を殺傷することを堅く拒否したばかりでなく、目標とする人物の死に対しては自らの死をもって贖った。
ひとりの人間を殺すことは許され得るやという質問を自らに発した果ての苦悩を踏み越えた直截な回答がそれなのであった。」
ひとりの人間を殺すことは許され得るやという質問を自らに発した果ての苦悩を踏み越えた直截な回答がそれなのであった。」
「ひとつの思想をひとつの生命の上に置くことによって相手のみを殺して自らは生きのびるという通常の理由づけと正当化を受けいれることを、
彼らは拒否したのであった。」
「ひとつの生存を他の人間の死の上に置くことによって、相手は殺しても自らは生きのびたい」という、
私たち人間の中に容易に生まれてくる自分勝手な理由づけを、
私たちは「私たちが共に生きる世界」における正当な思想として、承認すべきでしょうか。
それとも、「君が私たちの誓約を、君自身の誓約とする事ができたとき、
君はまちがいなく私たちの仲間であり、友人である」と語れることを、望むべきでしょうか。