「歎異抄」の救い

 
『歎異抄』の救い
 

 井上洋治さんというキリスト教の方(カトリックの司祭)が、日本仏教の法然上人の本を書いておられます。
 井上さんは、法然上人を、キリストの面影をしのばせる人といわれるのですが、その本の中で、『ルカによる福音書』の
次のようなエピソードを紹介してくださっています。
 
二人の罪人『ルカによる福音書』

 「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、
そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架をつけた。……(中略)……
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々をを救ってみろ」
すると、もう一人の方がたしなめた。
『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに、我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない』そして『イエスよ、あなたの御園においでになるときには、私を思い出してください』と言った。
するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。(二三章三二~四三節)」
             (井上洋治『法然イエスの面影をしのばせる人』筑摩書房〔二〇〇一年〕六六頁)
 井上さんは、それを法然上人と熊谷次郎直実のエピソードに重ねています。

 「この熊谷次郎直美に注がれている法然の眼差しは、私に、十字架上でのイエスの、横に磔になっていた盗賊へのまなざしを想起させる。」
(井上洋治『法然イエスの面影をしのばせる人』筑摩書房〔二〇〇一年〕六六頁)
 
 井上さんは、その法然上人のこころを、
 
 「無智の罪人が念仏をとなえて往生することこそ、まさに阿弥陀仏の本願が目ざしておられることである」と受けとめておられます。
            (井上洋治『法然イエスの面影をしのばせる人』筑摩書房〔二〇〇一年〕六六頁)
 
 この『ルカによる福音書』の記述は、
『歎異抄』第一章で語られる
「念仏もうさんと思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」
という親鸞聖人のおことばとよく重なります。

 〔第一章〕「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんと思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」
 
 たんに死後ではなく、現在、信心をいただいたときに「救われる」という考えです。

  「『イエスよ、あなたの御園においでになるときには、私を思い出してください』と言った。
するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」
 
 「『あなたの国に生まれたい』と心から願った時、すでにその国に摂め取られている」「すでに生まれている」といってもいいのですが、
そのときに、忘れてはならないことがあります。

 
 『ルカ』の罪人

「あなたはもう楽園にいる」とイエスによって証明されたその罪人は、
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と語った、一人の罪人です。
 もう一人のほうは、そうではありませんでした。
 再掲しましょう。
 
 
 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」

 そう言ったのです。

 「すると、もう一人の方がたしなめた。
『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに、我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない』そして『イエスよ、あなたの御園においでになるときには、私を思い出してください』と言った。」

 その一人が、「あなたはもう天国(楽園)にいる」とイエスによって言われたのです。
 そこには懺悔と信順があるのです。
 イエスは、死刑を執行する人たちに向かって、

 「われわれを殺してはならない」と叫んだのではありませんでした。
 「いかなる極悪人でも、生きる権利がある。その権利を奪ってはならない」と諭したのでもありませんでした。

 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と言った人。
 「あなたの御園においでになるときには、私を思い出してください」と言った人。
 その人に向かってイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのてす。
 

懺悔する悪人

 つまり懺悔がある。まず、それが重要なのです。

 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」というその罪人のことばは、
親鸞聖人の有名なことば、「たとえ地獄に堕ちたりとも、後悔すべからずそうろう」(『歎異抄』第二章)というお言葉に通じています。 

 「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」(『歎異抄』第二章) 

 『歎異抄』において、弥陀の誓願不思議にたすけられる人は、
 「他力をたのみたてまつる悪人」
 「念仏もうす悪人」
であることに注意しなければなりません。

 親鸞聖人はいわれます。

 「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第二章)
 (ただ念仏して、阿弥陀さまに救われなさい、というよき人(法然聖人)のおことばを信じて、その教えに従うだけです)

 「ただ念仏して」は信順。(真宗教学のことばでは「法の深信(ほうの・じんしん)」といいます。)
 
 「悪人」は懺悔です。(真宗教学のことばでは「機の深信(きの・じんしん)」といいます。)

 真実の信心においては、信順と懺悔は一つのもので、別々のものではありません。
しかしその歩みにおいては、必ずしも初めから一つというわけではありません。
 信順と懺悔がばらばらになっていることもあります。
 信順が懺悔を見出し、懺悔が信順を見出した。それが真実信心です。
 信順と懺悔のどちらが先かというのは、人によって、場合によって違います。
 信順から懺悔に出遇う方もおられるでしょう。また時には、何よりもまず、懺悔に出遇わなければならない、ということもあるのです。

「悪人」のはきちがえ

 安田先生はこう言われています。

 単なる悪人成仏          安田理深『純粋未来』

 「例えば、煩悩成就の凡夫が仏になるのだというが、南無阿弥陀仏を離れれば単なる悪人成仏ということになる。
悪人というもわれわれの反省に過ぎない。結局悪人への固執であり、自己の卑下に止まることである。
しかもそれを人に勧めれば、いたずらに人間の機いじめとなる。人間を圧迫して機いじめをするに過ぎない。
それでは煩悩そのものが機にならない。悪人が真の正機にならない。
念仏を離れれば、本願をたのむ悪人になれない。
これは実体的な悪感情であって、これで人間を圧迫し脅かす、万年かかっていても駄目である。
南無阿弥陀仏ではじめて無限に深い煩悩を知らされ、またそれに固執しないですむのである。
念仏がないと悪があっても機に転成しない。悪人が成立しないと成仏の場所がなくなる道理である。
南無阿弥陀仏のところに我々の問題が我々に先立って答えられている、ということである。南無阿弥陀仏のところに教行証が一体である。
 このことに疑い晴れたのが信である。  」
         (『純粋未来』1954(昭和29年)三重金蔵寺夏期講習会講義/  文栄堂1994年刊 11頁~12頁)


 「悪人正機」の教えを、「単なる悪人成仏」の教えと誤解してはいけません。
 『歎異抄』が見出す救いは、「単なる悪人成仏」ではなく、「他力をたのみたてまつる悪人」「念仏もうす悪人」です。

 つまり、『ルカによる福音書』の「二人の罪人の話」が教えているのと同様、
「信順と懺悔」において、この世の生死を超える「救い」を見出しているのです。