ア-ラヤ識

 
アーラヤ識
 
 アーラヤ識の本有説と新熏説

  「ことに『成唯識論』では、熏習の起源の問題が出ている。本有・新熏が出ているが、新熏説は『摂大乗論』を教証とする。
種子の起源は熏習にありとする。因であることによって果であるといわずに、果であることによって因であるという。
阿頼耶識が諸法の因になるのは独断的に決まっているのでなく、諸法によって与えられた結果である。
諸法の熏習で阿頼耶識が転変された。無内容な阿頼耶識が、一切諸法の因になるように転変された。超越的に経験があるのではない。
私というものは一切の経験を離れてあるのでなく、私は私になったのである。なったことがあること、私になった他に私は無い。
Werden (成ること)の他にSein (在ること)はない。これが『摂大乗論』の主張である。」
          『唯識三十頌聴記』 安田理深選集第二巻 134頁

 『成唯識論』巻第二・(一、本識三相)  (太田久紀編註 31頁~36頁)
  「護月本有義」

  「難陀新熏義」

  「護法合生義」
 

 もし護法説を受け入れるならば、第八識であるアーラヤ識は、それ自体を重層的なものとして考えなければならないでしょう。
第八識自体がさらに重層的構造をもっている。
 そこから、第八識の内にさらに第九識をたてる見解が出てくるのは自然です。
 しかし護法が第八識アーラヤ識を八識と九識とに区別せずに一つにおさめているのは、
本有も新熏もともに自己としておさえるからでしょう。
自我ではない、自己です。主体といってもよい、個的生命の自体、それ自身です。
自己が、本有なる自己と、新熏する自己という重層性をもっているのです。
 
     業識善導『観経疏(序文義)』

  「「良(マコ)トニ知リヌ、徳号ノ慈父無シマサズバ」の下、序文義の文勢を模したまう。
彼の孝養父母の釈に云わく、「但是相因ッテ而生ズレバ、即チ父母有リ。既ニ父母有レバ、即チ大恩有リ。
若シ父者無クンバ、能生ノ因即チ闕ケナン。若シ母者無クンバ、所生ノ縁即チ乖キナン。
若シ二人惧ニ無クンバ、即チ託生之地ヲ失ワン。要ズ須ラク父母ノ縁具シテ方ニ受身之処有ルベシ。
既ニ身ヲ受ケント欲スルニ、自ノ業識ヲ以テ内因ト為シ、父母ノ精血ヲ以テ外縁ト為ス。
因縁和合スルガ故ニ此ノ身有リ。斯ノ義ヲ以テノ故ニ、父母ノ恩重シ」。  

    (『真宗 相傳義書』〔深解別伝〕四七頁)

 
   ここで業識といわれているのは、唯識にいうアーラヤ識のことです。
人が生まれるのは、自らのアーラヤ識(業識)を内なる因とし、父母の精血を外なる縁とする。
この因と縁が結び合うからわたしたちのこの身があるのだ、というのです。
 流転するものは業識、すなわちアーラヤ識です。
 真実信の業識と親鸞聖人がいわれるものは、すでに流転を離れて光明土に到る。
かならず「報土の真身」として成就する真実の自己です。
仏の智慧である光明を母とし、仏の誓いであるみ名を父として、この誓いと智慧に育まれて誕生する仏のおさな児、
それが真実の自己だといわれるのです。
「誓い(み名)」と「智慧」との能所の因縁和合して、真実の自己(信心の業識)が生まれる。
さらに、「真実の自己」を内因とし、「誓い」と「智慧」を外縁として、内外の因縁和合する時に、
「報土の真身」が得られ証しされる、というのです。
 
 「報土の真身」とは、もはや自己を超えた自己、仏のいのちと一つであるいのちでしょう。
それはもう単なる自己ではない。あらゆるいのちと一如のいのち。流転を離れ、輪廻を超えたまことの生命でしょう。
しかも「報土」といわれるのは、ただ輪廻を超えてそこにとどまるのではない、そこからさらに大慈大悲心をもって、流転の現実に還る、
一切の苦悩の衆生の身となって如来するいのちです。
 
 蓮如上人のご了解
  「「良知、無徳号」の下、光明名号、父母因縁、業識の喩、これ他力をあらわすきびしき御釈なれども、
面々常に此の文を申しながら心に会得せぬゆえ、宗意に違うなり。本願無自性と覚悟すべし、とはここなり。
通途(つうず)六識八識の談云々。然れば通途所談の第八の業識にあらず、真実信の業識といえり。何ぞ凡夫の業識ならんや。
通途、光・名の父母の因縁にて、自己の信心の業識生ずと誤るなり。これを誤らせまじき為に、「真実信業識」と云々。
「真実信業識」とは弥陀廻向の大信なり。これを我人往生の業識と定む。これ本願の前に自性なき事しるべし。」
              (『真宗 相傳義書』〔深解別伝〕四七頁)
 
 「「往相廻向」の中に「大行」あり「大信」ありと、
大行には必ず信ありと示したまうゆえに、行のうえに真実信の業識と転ず、しるべし。」 (同上)
  *さらに小文字で付記されている部分がある。原文の注 
  「「真実信ノ業識」(他力)とあり、業識の信心(自力)とはのたまわず。例せば、大信心は仏性なりと、仏性は大信心とはのたまわず。」
 
    三木 注・どこまでも信心によって仏性がめざめるのであって、その逆ではないということを言わんとしているのでしょう。
他力の宗旨においては、自ら仏性を覚るのではなく、目覚しめられることが大事です。
その目覚めさせてくださる仏のお心が大信心でしょう。
目覚めさせる心は、また目覚めさせられる心がなければ成りたちません。その目覚めさせられる方を信心というのでしょう。

 信心の業識といって、「業識」という言葉がわざわざつけられているのは、主体をあらわすのでしょう。
目覚しめんという仏の誓いがあっても、目覚めさせられる主体がなければ、誓いは成就しない、
受け取る者がいなければ与えることもできない。
回向といい、回施といっても同様でしょう。
 しかもその主体は、自分の信心ではない。わたしたちはここのところがわからないのです。どうしても信心を自分の心としてしまう。
「私が信じる」と考えてしまう。そうではないのだ、というのがここで言われているお心でしょう。
自分の心で信じる主体ではなくて、仏から差し向けられた、如来の回施したまわれた信心をいただく主体です。
主体がないのではない、受け取る者が存在しなくてもいいのではない。いただくのは自分がいただく。
しかしその自分は、あらかじめ自分で「自分」と思っていた自分ではない。
仏力によって生まれた自分、如来の大信心によって生ましめられた自分。
本願力に乗じてたえず新しく生まれ出ていく自分でしょう。
その自分は固定された自分ではない。自分を「自分」としてそこに固執していくような自分ではない。
 
  それで蓮如上人は、「本願無自性と覚悟すべし」と仰せられているのでしょう。本願には「我」として執せられる自性がない。
本願によって生まれた自分にもまた、「我」として執すべき自性はない。こういうお心ではないでしょうか。
そのお心、親鸞聖人がわざわざ「真実信業識」と言われているそのお心を明らかにして、
「通途(通常の意味でしょう)、光・名の父母の因縁にて、自己の信心の業識生ずと誤るなり。
これを誤らせまじき為に、「真実信業識」と云々。「真実信業識」とは弥陀廻向の大信なり。
これを我人往生の業識と定む。これ本願の前に自性なき事しるべし。」
と、ていねいに注意してくださっているのだと思います。

 本来でありつつたえず新しく生まれる。本有でありつつ新熏。
 アーラヤ識は、業識として絶えず三障、二障を新熏します。三障とは、煩悩と業と報の三つ(『倶舎論』によるという。今井先生講義)。
また二障とは、煩悩と所知障の二つをいいます(『成唯識論』によるという。今井先生講義)。(注・『相傳義書』第五巻三二頁)
「漏」という言葉をつかえば「有漏」。たえず垢にまといつかれる、これが「有漏」の新熏。

 三障、二障の汚れをはなれた「無漏」の種子は、本来そのようにあるもの、即ち本有。
アーラヤ識に生じる「真実信心」は無漏の種子で、無漏であることは即ち本有。本有が新熏する。
業識たるアーラヤ識に、無漏の真実信心が新熏して、「真実信の業識」が生じる。たえず新熏するアーラヤ識に本有が新熏する。
新熏してみれば、それは自己と別のものではない、本有こそが真実の自己であるとうなづかれる。
本有の光に照らされてはじめて、本有が自己である、本来の自己であると目覚める。

 アーラヤ識は、三障・二障の有漏を新熏して、それを「我」とするマナ識が生じる。それを「我」とし、「我」として執着するのがマナ識。
アーラヤ識が「自我意識」であるマナ識に転じる。これが有漏転変です。

 それに対して、アーラヤ識に生じた無漏の本有、本有の光に照らされてまことの自己に気づく。
自己の本来、父母未生以前本来の面目に目覚める。目覚めてみれば、自己とは本有でありつつ、新熏である。

 本来の自己だけが自己ではない。迷うのも自己であると気づく。迷っているあいだは、迷いを迷いとして知らない。
本来に目覚めれば、迷いが迷いとして見える。迷いを迷いとして確かに知る。その迷っているものは、では自己ではないのか。

 迷っているのは、自己が「自我」と執して迷っている。自己は「自我」ではない。それなのにアーラヤ識が自らを「自我」と固執する。
「自我」というものは有るものでも無いものでもない。それは固執することによって生じるものです。
固執という煩悩が生じる。固執によって有る。「無我」の教えは、この固執を破るものです。
「自我」が無いのではない。「自我」は固執されることによって既に生じている。固執されて「自我」は有る。
 この固執を破る。それが仏教の「無我」説であって、ただの理屈で「自我」というようなものは無いと言っているのではありません。
「自我」が無ければ「無我」説の教えも要らぬ。固執されて「自我」が有るから「無我」が説かれるのでしょう。
「無我」が説かれるのは、固執を破らんとして説かれる。はじめから「無我」なわけではありません。

 はじめから無我なのは本有です。本有こそが自己であると目覚める。
「無我」が自己と気づく。目覚める主体が無ければ、「無我」説が説かれる意味もないでしょう。
「無我」と気づく自己が無ければ、「無我」も無意味です。自己とは、本来無我である。これは本有であるということです。
本有であるから無我が成り立つ。無我が成り立つのは、ただ本有に於いてのみです。現象においては、無我は成り立ちません。
現象は、本有に照らされなければ必ず有漏です。
自我に迷いながら迷う我を知らず、「無我」を口にしながら自我に迷うのがわたしたちでしょう。
これが現象の事実、我々の現実です。現象とは、自我に迷い、対象に迷う我々がつくりだす妄想に他ならないからです。
 
 「無我」といくら説教をしてみても、本有にふれていなければ「自我」の固執は破れません。
本有にふれてはじめて迷う我を知る。迷う我を知れば、それもまた自己である。本有が迷う我を自己として見出す。
自己が本有に帰って、しかも迷う我に還る。
浄土に生まれてしかも迷いの穢土に生きる。

 護法の合生義といわれるのは、この消息を語るものではないでしょうか。

 それは本有なる自己と、新熏なる自己という重層性をもっています。        

 
第九識の問題
 『摂大乗論』では、第八アーラヤ識の奥に、さらに第九識をたてるという。
 本有なる自己と、新熏なる自己との重層性に気づけば、これは当然生まれてくる観察でしょう。                                    

『大乗起信論』

業識について

  「業識」は、アーラヤ識を呼ぶ名としては用いられないという。(宗正元先生による)。
親鸞聖人の両重因縁に語られる「業識」は、『大乗起信論」によるという。発動する識であるという。

「一切の存在は心である。」

 まず『起信論』の基本的主張、第一テーゼからはいりましょう。

「摩訶衍(まかえん)には、総じて説けば、二種有り。云何が二となすや。一には法、二には義なり。」

 摩訶衍とはマハーヤーナの音訳で、「大乗」と意訳されます。
大乗仏教の大乗ですが、ここでは、「一切の存在の事実と、事実から真実への道」のふたつを摂めて「大乗」と言っています。
 法と義の二種があるというのは、「法」は、一切のものごと、「もの」や「こと」であり、また「存在」と「現象」と言っていいでしょう。
 「義」とは、一切のものごとの意味や関係、「存在の意味」や「現象の関係性」と言っていいのでしょう。
般若系経典、中観系論書にいう「空」は存在の意味を指す言葉であり、
阿含経典から大乗経論の全部を貫く「縁起」の思想は、現象の関係性を現す言葉ではないでしょうか。

 今『起信論』は、この「存在の意味」と「現象の関係性」を義におさめて、それをもって道を明らかにしようとしています。
しかしさらに、道が道となる前提、何処において道は開かれるのかという、求道の根拠をもたずねています。
『起信論』が連なる如来蔵系・唯識系の仏教は、さきの般若・中観系、阿含系の仏教に加えて、「求道の根拠」をたずねたのです。
その根拠は何処にあるか。

 その根拠を、「迷いの現実を生みだすもの」と「真実のいのち」の二重性に見出して、それを法におさめた。
一切のものごとの事実。それを「迷える現実」という事実、「あるがままの真実」という事実の、二重の事実としてとらえた。
迷いの現実を見つめなければ、そもそも道を求める動機が生まれません。
 迷いを明らかにすることが、道が道となる前提を見出す。道の基礎を明らかにする。迷いを迷いとして知るところから道が始まる。
ところで、今『起信論』が説かれるのは、ただに道を求める場処から説かれるのではない。
すでに求め、見出された「真実」から説かれている。真実にめざめ、真実に照らされた場処から説かれている。
より正確には、真実に照らされつつ、しかも道を求めつづける、その歩みの最中において説かれているのでしょう。
 照らしてくださる真実を拠り所とし、また導きとする。道が迷い道でないという根拠はどこにあるか。
見出された真実にある。行くべき処、帰るべき場処にある。
帰るべき真実を拠り処とし、「来たれ!」「帰ってこい!」と呼び返す本来の声、あるがままなる如来の声を導きとして道は道となる。
動機は道の始まる根拠となり、呼び声は歩みの根拠となる。そうでしょう。
まだ真実を見出さぬ者にとっては、呼び声をたよりとする他にない。
呼び声の信頼によって歩む他に歩める道はない。
 
 「迷いの現実を生みだすもの」が「迷いの現実を知るもの」となる。そこに始めて道が求められる。道の動機となる。
動機は呼び声によっていのちを得る。機は発動しようとしている。
しかし呼び声が聞こえなければ動くことができない、歩むことができない。
 呼び声を聞く者は誰か。「迷いの現実を生みだすもの」であり、しかも「迷いの現実を知るもの」である。
それは「衆生」であり、しかも「如来」であると言ってよい。そこが求道の根拠となる。
ただし、求道においてはどこまでも衆生が場処となる。衆生において道は求められ、歩まれる。
「迷いの現実を生みだすもの」と「迷いの現実を知るもの」とは、衆生において一つの身となっている。
この身を「心」という言葉によって表す、これが如来蔵系・唯識系仏教の特色であり、発見でしょう。
身と心とが別のものではない。心が身となっている。身となっているような心、それを「心」という言葉で表す。

 「言う所の法とは、衆生心を謂う。
是の心、則ち一切の世間法と出世間法とを摂すれば、此の心に依りて、摩訶衍の義を顕示するなり。」

 「世間法」とは、現実のものやこと、現象的存在をいい、「出世間法」とは、真実にめざめた者の眼に見えるいのちのすがたでしょう。
「現実のもの・ごと」と「真実のいのち」とを摂めて、しかも、求道の場処となる。それが衆生心である、というのです。
 この衆生心を誤解してならないのは、衆生の心、という意味ではないということです。
それは衆生の心ではない。衆生になっている心です。衆生の身となっている心。単に迷っている心ではない。
「衆生の心」といえば迷っている心でしょう。今「衆生心」と『起信論』がいうのは、迷いもし、目覚めもする心。
今は迷っているけれども、目覚めることもできる心です。迷いも目覚めもそこにおいて成り立つ、そういう場処、身でしょう。
主体といってもよい。依り所、乗物です。大乗(摩訶衍)の依り所。それを「衆生心」といっているのです。
 
業異熟としてのアーラヤ識

 業異熟としての個体生命をアーラヤ識という。

 異熟するのは身であるから、それは体をもっている。身体である。しかし身体はただ身体によって身なのではない。
身は境遇をもっており、しかも身の体は心です。
 肉体は目に見える姿ですが、それはルーパです。「色」と訳されるのですが、意味は「眼に見える現れ」です。
「眼に見える現れ」は、現象のさまざまな関係によってたまたまそのように見えているにすぎません。
「眼に見える現れ」がそれ自体として不変に存在しているのではなく、それはさまざまな関係によってうつろいゆくものです。
 即ち「空」です。「色は即ち是れ空なり」。空であるということは、何もないということではありません。
すべては関係に依って成り立ち(縁起)、それ故に、それ自体に依って成り立っているのではない(空)ということです。
 即ち「縁起則空」(縁起の法則なるが故に空といえるのだ)です。一切の現実存在は、即ち縁起している現象に他なりません。
故に則ち空といわれるのです。「諸法即縁起則空」でしょう。中心は「縁起」にあります。
縁起の気づきによって、諸法(一切の現象)が空として知られる。関係によってうつろうものと知られる。
また関係によってうつろうものこそが「眼に見える現れ」であり(「空即是色」)、一切の現象なのだと知られるのです。

 この縁起が縁起として成り立つ場処が心です。識といってもよいのですが、縁起は何処において成り立つか。
縁起は心において成り立つ。識において成り立つ。
縁起を縁起として知る心がなければ縁起もなく、空を空として知る識がなければ空もないのです。
「諸法即縁起」も心において知られ、「空即是法」も識において悟られるのです。 
 この識、この心は、たった一つ有るのではなく、さまざまな境遇をもって在る。存在している。
個々に在るもの、個的存在です。個々なるが故に関係が生じます。
関係を可能にするもの、関係可能性の依り所が「個」です。                   
 
アダナ識

 「最初に心には潜在的なはたらきがあるという考えが述べられたのは、『解深密教』という経典です。
その中にはアダナ(阿陀那)識というものがあると書かれています。アダナ識は、人間の自律的な生理機能のようなものです。
たとえば、人間はとくに自分の意志を使わなくても、生きている以上は自然に呼吸したり、
血液が循環して、勝手に心臓が鼓動を打ちます。
仏教ではまず第一に、このような自律的な身体の機能をつかさどるものは何かと考えたのです。
そこからアダナ識という考えが生まれました。」
              (秋山さと子『悟りの分析』PHP文庫 八二頁)
 

cittaとアーラヤ識

 人間という生命のしくみを、ヨーガの実践をとおして明らかにしようとした仏教の一流を瑜伽行唯識派と呼びます。
この唯識派は、諸法の依止(一切の現象モノやコトの拠所)となっているものを「識」と名づけ、
さらにその識の根本をアーラヤ識と名づけています。一切の現象は唯「識」を拠所としており、その「識」はアーラヤ識を根本としている。
これが唯識派の基本的主張であり、「諸法唯識」とか「一切唯識」とかいわれ、『唯識派』たる名の由来になっています。

 これからたずねようとすることは、この唯識派にいう「アーラヤ識」と、
現代におけるインドのヨーガ行者スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師の語る「citta(チッタ)」との間の照応関係です。
どちらもヨーガ行を通じた観察という共通の方法をもつのですが、
一方は仏教思想を背景にして紀元後三・四世紀ごろに成立した体系であり、
また一方は、仏教とは異なる伝統として発展してきた実践ヨーガの現代における見解です。
 どちらもインドに発生しつつ、唯識の方は、四世紀にほぼ大成されて以後中国・日本において学問的に考究されてきました。
ここでわたしたちは唯識派の見解を、世親の『唯識三十頌』(四世紀)
およびその注釈書である『成唯識論』(七世紀)を中心としてとりあげることにします。
 唯識の伝統においても、アーラヤ識はまたcittaと呼ばれることがあります。
 そのことを安田理深師が説明している言葉がありますので、引用してみましょう。
 
 「心というもの、特に瑜伽の大乗において定義された心である。心というのは何か。
質多という音訳が与えられているが、cittaである。(中略)
これは詳しくは積集集起(しゃくじゅうじっき)といわれるが、一切の経験がそこに起こってくる。
一切の諸法がそこに集まりそこから起こる。そこをcittaという。
今の言葉でいうと場所、一切のものがそれに於いてある所である。
古典の言葉では所依止という。文法的には、於いて、という形であらわす。
一切は心においてある。いかなるものも心においてある。こういうのが心の定義である。
(中略)今、三能変八識を建てる唯識論の立場に立ってこの概念を規定すると、
心は第八識、意は末那識、識は前六識を代表する概念となる。」
            『安田理深選集第二巻唯識三十頌聴記』文栄堂(366頁)

 ここで第八識といわれているのはアーラヤ識のことであり、要するにcittaはアーラヤ識に相応するということが言われています。
 また「一切の経験がそこに起こってくる。一切の諸法がそこに集まりそこから起こる」場所がcittaであるとも言われています。
 ではこの点について、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師の『魂の科学』
(ヒンディー語による初版1959年。日本語版1984年。木村慧心訳/たま出版)に説かれているcittaを参照してみましょう。
 日本語訳では「心素」とされていますが、ここでは対照のために原語の「citta」を用いることにします。

 「cittaは心理作用に同化する(Vritti Sarupya)という性質を 持っていますので、
この世のすべての事物から生じてくるであろう印象のすべてを受け取る能力を持っています。
このように、cittaは過去、現在、未来にわたって受け取るあらゆる事物からの印象に影響されますので、
その形態も無限であると言えます。」
                               (454頁)

 また安田理深師の言葉を引きます。
 
 「心は集起であるが、唯識論の立場で心というのを使用するから、種子というのがつく。
集起なら大小乗に通じる義である。それで、心というのも唯識の教学で規定された心である。
経に、種子が集起するものを心というとあるのを引いて、もしこの識がなければ、持種の心が成り立たぬという。
諸法が集起するといわずに、諸法の種子が集起するという。種子は諸法の種子である。
これは言葉としては種であるが、述語になったときは諸法の因をあらわす。可能性である。
諸法がそれにおいてある、その場合に現行(現象したもの三木注)としてあるのでなく、可能性としてある。
一切の経験が可能性としてある場である。」 
                             (前掲書・366頁)
 
 再びヨーゲシヴァラナンダ師の説を引きます。

 「聖典によっては、cittaを業の貯蔵庫、あるいは業遺存(Karmashaya)とよんでいるものもあります。
というのはcitta球内部に業(Karma)の種子が貯えられているからです。」
                             (前掲書・467頁)

 以上の引用から、cittaという言葉のあらわす内容が、唯識論の立場で用いる場合と、
ヨーゲシヴァラナンダ師がもちいる場合とできわめて類似している、
少なくとも今挙げたいくつかの点においてはほぼ共通の概念として用いられている、ということができると思います。

 そこで、わたしたちは双方に共通概念としての重なりをもつこの「citta」という言葉をてがかりとして、
「citta」をめぐる双方の異同差異と共通性をたずねる、という方法をとることにします。
 いまとりあえずその共通概念としての「citta」をかんたんに表してみれば、次のようにもなりますでしょうか。
 
 「cittaとは、過去・現在・未来にわたる一切の経験や現象が可能性(種子)としてある場所である。」
 

          *以下は.今後の考察課題です。
 

 唯識論におけるcittaの考察
 
業輪廻
 業異熟としての個体生命をアーラヤ識という。
アーラヤ識の内容は、『唯識三十頌』では「異熟」と「一切種」の二つであらわされています。
このうち「一切種」については、いま「citta」の考察において見たとおりです。
ではもうひとつの「異熟」について考えてみましょう。異熟とは、いったい何を意味しているのでしょうか。       
 
身体
 異熟するのは身ですから、それは体をもっています。身体です。          
 
身体性の問題
 プドガラ
 アハンカーラ
 

執着するもの