高明寺レポート
業識について
業識について
「業識」は、阿頼耶識を呼ぶ名としては用いられないという。(宗正元先生による)。
親鸞聖人の両重因縁に語られる「業識」は、『大乗起信論」によるという。発動する識であるという。
『大乗起信論』
「一切の存在は心である。」
まず『起信論』の基本的主張、第一テーゼからはいりましょう。
「摩訶衍(まかえん)には、総じて説けば、二種有り。云何が二となすや。一には法、二には義なり。」
摩訶衍とはマハーヤーナの音訳で、「大乗」と意訳されます。
大乗仏教の大乗ですが、ここでは、「一切の存在の事実と、事実から真実への道」のふたつを摂めて「大乗」と言っています。
法と義の二種があるというのは、「法」は、一切のものごと、「もの」や「こと」であり、また「存在」と「現象」と言っていいでしょう。
「義」とは、一切のものごとの意味や関係、「存在の意味」や「現象の関係性」と言っていいのでしょう。
般若系経典、中観系論書にいう「空」は存在の意味を指す言葉であり、
阿含経典から大乗経論の全部を貫く「縁起」の思想は、現象の関係性を現す言葉ではないでしょうか。
即ち空とは、「現象しているあらゆるものごとには、永遠に固定されたすがたはなく、それらは実体ではない」という意味であり、
縁起とは、「現象しているあらゆるものごとは、おたがいに条件となりあいながら生起している」という関係性をあらわしています。
今『起信論』は、この「存在の意味」と「現象の関係性」を義におさめて、それをもって道を明らかにしようとしています。
しかしさらに、道が道となる前提、何処において道は開かれるのかという、求道の根拠をもたずねています。
『起信論』が連なる如来蔵系・唯識系の仏教は、さきの般若・中観系、阿含系の仏教に加えて、「求道の根拠」をたずねたのです。
その根拠は何処にあるか。
その根拠を、「迷いの現実を生みだすもの」と「真実のいのち」の二重性に見出して、それを法におさめた。
一切のものごとの事実。それを「迷える現実」という事実、「あるがままの真実」という事実の、二重の事実としてとらえた。
迷いの現実を見つめなければ、そもそも道を求める動機が生まれません。迷いを明らかにすることが、道が道となる前提を見出す。
道の基礎を明らかにする。迷いを迷いとして知るところから道が始まる。
ところで、今『起信論』が説かれるのは、ただに道を求める場処から説かれるのではない。
すでに求め、見出された「真実」から説かれている。真実にめざめ、真実に照らされた場処から説かれている。
より正確には、真実に照らされつつ、しかも道を求めつづける、その歩みの最中において説かれているのでしょう。
照らしてくださる真実を拠り所とし、また導きとする。道が迷い道でないという根拠はどこにあるか。
見出された真実にある。行くべき処、帰るべき場処にある。
帰るべき真実を拠り処とし、「来たれ!」「帰ってこい!」と呼び返す本来の声、あるがままなる如来の声を導きとして道は道となる。
動機は道の始まる根拠となり、呼び声は歩みの根拠となる。
(そうでしょう。まだ真実を見出さぬ者にとっては、呼び声をたよりとする他にない。呼び声の信頼によって歩む他に歩める道はない。)
「迷いの現実を生みだすもの」が「迷いの現実を知るもの」となる。そこに始めて道が求められる。道の動機となる。
動機は呼び声によっていのちを得る。機は発動しようとしている。しかし呼び声が聞こえなければ動くことができない、歩むことができない。
呼び声を聞く者は誰か。「迷いの現実を生みだすもの」であり、しかも「迷いの現実を知るもの」である。
それは「衆生」であり、しかも「如来」であると言ってよい。そこが求道の根拠となる。
ただし、求道においてはどこまでも衆生が場処となる。衆生において道は求められ、歩まれる。
「迷いの現実を生みだすもの」と「迷いの現実を知るもの」とは、衆生において一つの身となっている。
この身を「心」という言葉によって表す、これが如来蔵系・唯識系仏教の特色であり、発見でしょう。
身と心とが別のものではない。心が身となっている。身となっているような心、それを「心」という言葉で表す。
「言う所の法とは、衆生心を謂う。是の心、則ち一切の世間法と出世間法とを摂すれば、此の心に依りて、摩訶衍の義を顕示するなり。」
「世間法」とは、現実のものやこと、現象的存在をいい、「出世間法」とは、真実にめざめた者の眼に見えるいのちのすがたでしょう。
「現実のもの・ごと」と「真実のいのち」とを摂めて、しかも、求道の場処となる。それが衆生心である、というのです。
この衆生心を誤解してならないのは、衆生の心、という意味ではないということです。それは衆生の心ではない。
衆生になっている心です。衆生の身となっている心。単に迷っている心ではない。「衆生の心」といえば迷っている心でしょう。
今「衆生心」と『起信論』がいうのは、迷いもし、目覚めもする心。今は迷っているけれども、目覚めることもできる心です。
迷いも目覚めもそこにおいて成り立つ、そういう場処、身でしょう。主体といってもよい。
依り所、乗物です。大乗(摩訶衍)の依り所。それを「衆生心」といっているのです。
如来蔵
「心生滅とは、如来蔵に依るが故に生滅心有り。いわゆる不生不滅と生滅と和合して、
一にも非ず、異にも非ず。名づけて阿梨耶識となすなり。」(九五頁)
「一心は一面では不生不滅(無時間的)であるが、現実に凡夫の心は生滅心(時間的)となっている。
この心の生滅すなわち時間の世界はどうして起こるかというに、如来蔵によるが故に生滅心があるのである。
すなわち心の本性は真如であるが、しかし現実にはその真如は煩悩に覆われている。
この煩悩に覆われている真心を「如来蔵」と名づける。如来蔵は真如と別のものではないが、しかし法身・仏智の光が現れていない。
これが凡夫における自性清浄心の現実の相である。真如といえば「非人格的」な在り方であた、宇宙に遍満する実在である。
しかし如来蔵といえば「人格的」である。真如の人格化であり、しかもそれは煩悩と相対関係で見られているのである。
故に如来蔵は輪廻している衆生の根本である。如来蔵がなければ輪廻している衆生は存在しない。
故に『勝鬘経』には「如来蔵有るが故に生死有りと説く」と述べ、『起信論』にも「如来蔵に依るが故に生滅心有り」と説くのである。
しかしこのことは如来蔵が輪廻の原因であるという意味ではない。衆生が迷っている原因は無明にある。」
(平川彰『大乗起信論』九六頁・仏典講座22/大蔵出版)
衆生心の根本は「如来蔵」といわれ、また「阿梨耶識」とも呼ばれています。
この阿梨耶識は、唯識にいう「阿頼耶識」と同じで、原語はどちらも「アーラヤ・ヴィジュニャ~ナ(アーラヤ識)」です。
中国に唯識を持ちかえった玄奘はこの「アーラヤ・ヴィジュニャ~ナ(アーラヤ識)」を「阿頼耶識」と訳しました。
そこで玄奘訳の唯識説を示す場合には「阿頼耶識」の訳語を用い、
『起信論』のアーラヤ識を示す場合には「阿梨耶識(阿黎耶識)」の訳語を用いるのが通例です。
(注・平川彰『大乗起信論』九六頁・仏典講座22/大蔵出版)
慧遠説
「慧遠は、この識は輪廻に流転して没することがないので「無没識(無失没識)」と解釈している。」
『起信論』説と唯識説
「『起信論』では阿梨耶識の意味は「真妄和合識」であるが、玄奘の唯識説では「妄識」である。
両者は同一の用語を用いながら、教理の立て方が異なる。」(同上九六頁)
五識の転起
「復次に、生滅の因縁とは、謂う所は衆生なり。心に依りて意と意識と転ずるが故なり。此の義云何。
阿梨耶識に依りて無明有りと説くを以てなり。
不覚にして起こると、能見と、能現と、能く境界を取ると、念を起こして相続するとの故に説いて意となす。
此の意に五種の名有り。一には名づけて業識となす。謂く、無明の力にて不覚の心が動ずるが故なり。
二には名づけてて転識となす。動心に依りて能見あるが故なり。三には名づけて現識となす。
謂う所は、能く一切の境界を現ずればなり。
なお、明鏡の色像を減ずるが如く、現識もまたしかり。随って其の五塵に対至すれば、即ち現じて前後有ること無し。
一切時に任運にして起こって、常に前に在るを以ての故なり。四には名づけて智識となす。
謂く、染浄の法を分別するが故なり。五には名づけて相続識となす。念が相応して断ぜざるを以ての故に。
(および)過去の無量世等の善悪の業を住持して失せざらしむるが故なり。
(更に)能く現在と未来との苦楽等の報を成熟して、差違すること無きが故なり。
(更に)能く現在已経の事をして忽然と念じ、未来の事をして不覚に妄慮せしむればなり。」
(解釈分・生滅因縁 テキスト一六三~一六四頁)
不生不滅の汚れのない真如が、無明に覆われて、真妄和合といわれるように、真実と妄念の合体した(表裏になった)阿梨耶識になります。
この状態が如来蔵とよばれる状態で、現実には汚れた迷いの心ですが、潜在的には清らかな真実の心(如来)をとりもどす可能性をもっています。
迷いの世界を流転するものは、この阿梨耶識なのですが、
「阿梨耶識」という場合には、すでに述べたように真妄和合ですから、これは単に「流転するもの」の意味だけではなく、
「真実にたちもどるもの」という意味も合わせもっています。
そこで、真実に気づかずに迷いつづけている時のわたしたちの心をとくに取り出して表す言葉として、
『起信論』は業識という名を用いています。
この状態が如来蔵とよばれる状態で、現実には汚れた迷いの心ですが、潜在的には清らかな真実の心(如来)をとりもどす可能性をもっています。
迷いの世界を流転するものは、この阿梨耶識なのですが、
「阿梨耶識」という場合には、すでに述べたように真妄和合ですから、これは単に「流転するもの」の意味だけではなく、
「真実にたちもどるもの」という意味も合わせもっています。
そこで、真実に気づかずに迷いつづけている時のわたしたちの心をとくに取り出して表す言葉として、
『起信論』は業識という名を用いています。
『起信論』では他にも、転識、現識、智識、相続識という、業識と合わせて五つの名を用いていますが、
これらはみな阿梨耶識を指す言葉で、別のもののことを言っているのではありません。
ただそのはたらきのさまざまな現れを、それぞれに名づけて区別しているだけですから、五識は一体です。
さらに意識という名も用いられていますが、これも一体であることに変わりはありません。
ただ前の五識についてはそれをひとまとめにして「意」と呼び、「意識」と区別しています。
阿梨耶識を「意」と「意識」とに大きく区別しています。
これは、「意」というのは現代の心理学のことばでいえば、潜在意識とか深層意識とかに当たる内容を表そうとしているのです。
心の表面に現れるのは「意識」です。
しかしそのはたらきは、潜在している心、深層の「意」を基盤として生起しているのだ、ということを言わんとしているのです。(注・1)
その「意」のはたらきを表す言葉として、名が五つあげられました。
輪廻するはたらきを表しているのは、直接には「相続識」ですが、
これらのはたらきを総合して代表しているのが、「業識」なのです。
染浄四法
「復次に、四種の法を熏習する義有るが故に、染法と浄法とが起こって断絶せざるなり。云何が四となす。
一には浄法なり、名づけて真如となす。二には一切の染因なり、名づけて無明となす。
三には妄心なり、名づけて業識となす。四には妄境界にして謂う所は六塵なり。」(テキスト二〇八頁)
「妄心という場合には識をいうのである。故にこれは業識・転識・現識から意識までを含むわけであるが、
ここにはその根本を取って業識を挙げるのである。」(二〇九頁)
「境界と認識の対象のことであるから、智識・相続識・意識(分別事識)に、それぞれ妄境界があるわけであるが、
ここにはその根本を取って境界相を出すのである。ただし境界相は外界が心に現れたものであるから「五塵」である。
その外に法境(法塵)があるから、それをも含めて六塵となす。
しかしこの場合には、心外の六塵をいうのではなく、心に現し出され、認識の対象となっている六塵をいうのである。」
(注1)平川彰さんは「『起信論』のこの流転門の説明は、細から麁へと一方的な展開を説くのみであり、
そこには唯識説の「転変」の思想が見られない。」
そこには唯識説の「転変」の思想が見られない。」
「唯識の阿頼耶識のように、「潜在心」という意味はない。」(前掲書 一四六~一四七頁)
といわれていますが、私の場合は、ここにははっきりとは語られていないが、
「潜在心」や「転変」の思想をやがて導き出す萌芽があると見ました。
「意」と「意識」とに分けるのは、そういう構造が想定されているからではないでしょうか。
生滅因縁
「生滅心がどのような因縁で起こり、どのような構造で活動するかを、次に明らかにする。
生滅の縁起的構造の問題は、衆生の問題、凡夫としての自己の心の問題である。
生滅の因縁とは、一言にいえば心によりて意と意識とが働くことである。
ここにいう心とは「如来蔵」に依りて生滅心有り」というた場合の如来蔵をいうのである。」(一六五頁)
「阿梨耶識における無明の活動を示すと、不生不滅の真心が、その真心すなわち一心であることを悟らないので、一心に主客の分裂が起こる。
一心たることを悟らないのが無明の働きである。一心が主客に分裂して、主観的な能見と、客観的な能現とが成立する。
能現とは、心が客観の態として現れるという意味である。この不覚にして起こると、能見と、能現とまでで阿梨耶識が成立するのである。」
「このように阿梨耶識において、能現すなわち境界相が現れているために、次にそれを外界であると妄想する識作用が現れる、
すなわち「能く境界を取る」ところの智識が起こり、次に智識の心作用を相続していく識が「念を起こして相続する」相続識である。
以上の五段階を主体的に表現すると「意」と呼ばれる。意には、認識の意味の他に、思惟することや意志する意味が含まれている。」
「「此の意に復五種の名有り」というように、意は異なった側面から五つの名で呼ばれるという意味である。
意が五識に分化するという意味ではない。
すなわち『起信論』は、意すなわち五識の作用は合して一つであると見ているのであって、
この点は法相宗が阿頼耶識などの八識が体が別であると見るのと立場が異なる。」(平川 一六六~一六七頁)
業識
「第一には意を名づけて業識という。その理由は、無明の力によって、不覚の心が動じて生滅心となるからである。
一心は不生不滅であり「法」である。「業」ではない。
業は因果の関係をもつものであり、無明によって生滅心が起こる点が業のはじまりである。
この点を業識と呼ぶのである。業識とは「不覚にして起こる」ことである。
転識
「第二には意を名づけて転識という。先の動心には能見の相があるからである。
心が動ずるとはすなわち分別をなすことであり、主観の作用がそこに現れることである。その作用をここでは転識と呼んでいるのである。
この転識には二つの意味がある。第一は無明に動かされて転識となる意味で、この転識は阿梨耶識の中にある。
第二は対象(能現相)に動かされて転識となる意味で、この転識は心の表面にある認識主観すなわち知識である。
今いう識は、第一の場合の転識である。
現識
「第三に意は現識と呼ばれる。「現」とは現すという意味で、先の転識に対応して阿梨耶識の中に客観としての世界が現れることをいう。
客観ではあるがこれも識の作用である。識でないものは、識によって知られることはできないのである。
本論には現識を次のように説明している。
現識とは一切の境界を現ずるものである。それはちょうど明るい鏡が色像を現ずる如くである。
これと同様に現識が外界の「五塵」に対応すると、ものが鏡に映ずる如くに、努力を用いず自然に、時間的前後なしに、
ただちに外界が現識に映り、あたかも目の前にある如くである。
「五塵」とは色・声・香・味・触の五者のことである。」
「眼識から意識までの六識は、つねに生じているのではない。例えば眼識が休止する時は、見る作用はない。
しかし現識は中断することがなく、つねに外界を映し出している。
そのために眼などの六識がいつ活動しても、それより先に現識の現している外界像がある。
そのために眼などの六識は、現識の現しているものが、外界そのものであると誤って理解するのである。」
智識
「以上の業・転・現の三識は阿梨耶識の中での作用であるが、
この現識の現しだしているものを、心外の実在であると考え、そこに個物を妄分別するのが、第四の智識である。
これは三細・六麁でいえば智相と呼ばれたものである。
智相は「愛と不愛とを分別する」と説明されたが、智識は「染浄の法を分別す」と説明される。
ようするに外界に「もの」が実在すると判断し、それに対して、好悪を感じ、あるいは善・悪の判断をなすことをいう。
これは「事識の中の細分別」といわれ、個物を認識する中の微細な分別である。」
相続識
「これは六麁では相続相といわれ、智識に基づいて苦楽の覚を生じ、念を起こして断ぜずと説明された。
ここでは「相続」の意味がさらに詳しく説かれている。まず「念が相応して断じない」から相続識と呼ばれる。
念とは妄念であり、絶えず妄分別を起こして、識が持続していく点をいう。
識が持続することによって、無限の過去からの善悪の業を維持しているのである。
業とは、行為が後に残す見えない力をいう。それが心理的な形で残り、相続識に保存されている。
例えば、人を殺したり、ものを盗んだりすれば、それが心の傷となり、心の無意識の領域に保存されている。
しかもその業を成熟せしめて、苦楽の報いを得せしめるものも相続識であるという。
(中略)次に過去の経験を記憶し、それを思い起こすのも相続識の作用であるという。
さらに未来にかくかくのことをなそうと、突然、思いつくこともこの識の作用であるという。
この中、善悪の業を保持することと、業の果報を受けしめることとは、阿梨耶識に属し事識の細分別であるという。
事識は分別事識とも呼ばれ、いわゆる外界の事物を分別する識である。」
「相続識は日常の経験と、その結果を保持する作用をなすのであるが、しかし自我に対する執着は含まれない。
この我執も相続識の作用であるが、この場合には、相続識をとくに意識と呼ぶのである。
したがって我執を除いた法執をなすのが、智識と相続識とである。」
(平川彰 『大乗起信論』大蔵出版 仏典講座22/一六七~一七〇頁)
「阿梨耶識」の三識
「阿梨耶識は業識・転識・現識の三識から成立している」(平川 三二九頁)
「意」は五識
「意は業識・転識・現識・智識・相続識の五識よりなるが、ここではその根本をとって業識を指す。」(二二二頁)
「妄心業識などの三細と智識・相続識などの意と意識をいう。」(二一四頁)
*いずれも平川彰さんの解説による。〔業識などの三細と智識・相続識などの〕意と意識をいう。」と読めばそれなりに分かる。
起動の識
「業識は無明によって一心が動いたところの最も微細な識である。そこにはまだ転識・現識という主客の分極化は起こっていない。
そういう分化の奥の純粋経験の識である。しかしなおかつ業識と呼ばれ、過去の業によって色づけられた認識である。」(平川 二六四頁)
三細・六麁
業識は、五意の第一、三細・六麁の第一。業識によって、他の転識・現識・智識・その他の妄心を代表する。
業識の生滅相
「復、何れの義を以てか差別ありと説くを得るや。業識の生滅相に依りて示すを以てなり。此れを云何が示すや。
一切の法は、本より来(このかた)、唯心のみにして実には念無きも、しかも妄心有り。」(体大・相大 テキスト二五〇頁)
無明熏習迷いの染み付
「無明には根本無明と枝末無明とがあるために、熏習が二種になる。根本無明が真如に熏習するのが根本熏習であり、これによって業識が成立する。これによって細中の細の心生滅の起こる原因を示すのである。」(二一七頁)
枝末無明の熏習
「所起見愛熏習は、枝末無明である見愛などの煩悩によって意識が成立することを示す熏習である。
先に意識は見愛煩悩によって増長すと説かれたが、増長をここでは「熏習」と表現したのである。
『義記』にはこれを、「枝末の不覚、心体に熏習して分別事識を成ず」と説明している。分別事識とは意識のことである。」(二一七頁)
業識の熏習
妄心熏習に二種がある。第一は業識根本熏習。第二は、増長分別事識熏習。
「第一は、業識が無明に熏習して、転識と現識が成立することをいうが、これは阿梨耶識が成立することを意味する。
そして阿梨耶識がある限り、その人の生存が続くのである。
阿羅漢や辟支仏は我執を断じ、一切の煩悩を断じているので、輪廻に生死流転することはない。
生死流転を分段生死というが、阿羅漢・辟支仏、さらに地上の菩薩は輪廻の三界から脱しているから、分段生死の苦を受けることはないが、
まだ阿梨耶識があるために、三界の外において不思議変易生死の苦を受けるという。
これは微細な苦であるが、しかし生滅が存在する。」(平川 二一五~二一六頁)
生死の苦を生ぜしめる熏習
「第二の増長分別事識熏習は輪廻の苦を生ぜしめる熏習である。
妄心が枝末無明に熏習して、分別事識の力を強めるのである。
すなわち凡夫は、業・転・現の三細のみでなく、六麁を展開し、我執・法執に基づく分別事識が働くが、
その結果、起業相や業繋苦相があり、生死の苦を受けることになる。」(二一七頁)
妄境界熏習
二種に分けられる。第一は増長念熏習。第二は増長取熏習
「境界が主観の煩悩をかきたてることであり、逆に主観の煩悩が強まれば、それに応じて対象の力も強められる関係にあること示すものである。」
第一の「念」は智識・相続識のの認識作用をいい、法を執する妄念(分別)をいう。
第二の「取」は、我執や見愛の煩悩を指すという。あるいは欲取・見取・戒取・我語取・の四取であるともいう。
「ともかく認識の対象が、日常的な認識主観の欲望を強める作用を熏習と呼んでいるのである。」(二一六頁)
染法熏習
「妄心熏習(染法熏習といったほうがよい。三木注)には心体(真如)に熏習して、染浄となるのと、
現に現れている妄心や心の対象などに熏習し、あるいは煩悩が互いに助け合うことなどとの二種がある。
この二種の熏習によって、心の染法が起こって断じないのである。」
無明は真如に依存する。
「無明は能熏の法であるが、しかし独存することはできず、真如に依存して存在し得る。」
「無明が真如を熏習する結果」〔無明熏習〕、
「妄心が起こる。すなわち業識から意と意識までの妄心が成立する。しかしてこの妄心はかえって無明に熏習し、無明の力を強める。」
「その結果、真如の法一なりと達しないことから、不覚の念が起こって転識となり、現識が成立して妄境界が現ずる。
すなわち結果は転識(不覚念起)と現識(妄境界)とである。」〔妄心熏習〕のうち〔業識根本熏習〕。
「この妄境界が現出しているから、これが縁(認識の対象)となって妄心が働き、力を強める。
この点を、妄境界という染法(妄心)の縁があるために、この妄境界が妄心に熏習して、妄心をして、
念(智相と相続相の作用)と著(執取相と計名字相の作用)とを起こさしめ、種々の業(起業相)をなさしめ、
その結果一切の身体的精神的な苦(業繋苦相)を受けさけめることになる。
これは好ましい色や快い香りなどがあるから、主観がそれに執著し、業を積み、苦報を受けることを指すのであり、
妄境界に、縁として作用する力があると見るのである。
先の念とは法執、著とは我執を指すと見てよい。」〔妄境界熏習〕。
(二一五~二一六頁)
法力熏習まこと(真実)による垢落とし
「凡夫の本性である如来蔵は、それ自身の本具の力によって覚の作用を起こすものである。」(一二三頁)
「人間には本性として「向上したい」という願いがある。これはうちなる本覚の作用であり、これを真如の内熏という。」(平川 一二三頁)
(三木注・たんなる「向上心」を本覚の作用とすることはできないだろう。)
「さらに外からは仏菩薩などが善知識となって、衆生を教え導き、外部より覚の作用を誘発する。これが真如の外熏の力である。
この内熏力と外熏力とを法力熏習という。」
「この「法力熏習」は、本覚の力がまだ充分でない内凡三賢位などの地前の段階の本覚の活動をいう。」
如実修行まこと(真実)によるこころ磨き
「それよりさらに進んで、初地以上の本覚を「如実修行」という。これは真理にかなった修行をなすことであり、十地の満位までをいう。」
方便満足
「十地の満心において、あらゆる方便はすべて満たされる。これを「方便満足」という。
この満心の金剛喩定にいて最後の煩悩を断ずるから、この時、妄念の根源(心源)を達観して、阿梨耶識という和合識の相を破し、
不生不滅が生滅と和合している在り方がなくなり、不生不滅の相を現す。これによって根本無明が断ぜられるのである。
それ故、根本無明から転じて、業識・転識・現識などと迷いの生活を展開する「相続心」の相が滅する。」 (一二三頁)
「無明が滅すれば、業識などの相続が滅して、智性がひとり輝くということになる。」(一二六頁)
サーンキャ説との異同
「しかしここに疑問が起こる。先に覚と不覚とは阿梨耶識の二義として示された。
阿梨耶識に覚と不覚との二義があると説かれたのであるから、本覚は阿梨耶識の属性である。
その本覚がどうして母なる阿梨耶識(和合識)を否定することができるのかという疑問である。
そこで「此の義は云何」と問うたのである。」(一二三頁)
こういう疑問は、サーンキャ説の「プルシャがプラクリティを否定する」という説が前提になって出てきているのではないか。
真如の内熏
本覚の本性は清浄であり、鏡にたとえられます。
またその衆生にたいするはたらきも鏡にたとえられて、因熏習鏡と縁熏習鏡の二種でいわれています。
ここで因熏習といわれるのは、本覚すなわち真如が、目覚めの因となって衆生の内部からはたらきかけることを意味しています。
「衆生をして仏道を求めしめ、始覚の智を完成させることをいう。
この点は、本覚が煩悩の中にありながらも、それに染せられず、無量の性功徳を具えていることを示すものであり、この点を如実不空という。
如実とは真如のことであり、真如に無量の性功徳を具えることを指すのである。
真如は万法現出の因であるが、しかし真如は法界一相であり、一心無念であるから、真如のみでは万法は現れない
。これに無明の妄法熏習が働くことによって、依他起の世界、縁起の万法は唯心の世界に現れる。
この点を「一切世間の境界、悉く中に於いて現ず」と表現している。
しかしこの依他起の諸法は、無明の熏習を待って生じたものであるから、真如から直接生じたものでない点で「出でず」と説かれ、
しかし無明は唯心の外にあるものではないから、万法も外部から来たものでないので「入らず」と説く。
これらの諸法は縁起において成立している範囲内では実在であるので「失せず」と示される。
しかも縁生の諸法は真如の変現したものであるから、その点では真如と異ならないので「壊せず」と説かれる。
本覚真如の中に顕現する諸法は、本覚を離れて存在するのではないので、真如と別に体性があるのではない。
体性がないから本来平等であり、諸法は諸法として成立しつつも、本性は一つであり、常住の一心に外ならない。
一切の法はそのまま真如と同じく真実である。」
「このように本覚は一切諸法を顕現するが、しかし本覚は顕現した諸法によって汚されることはない。
あたかも清浄な鏡が穢れたものを映し出しても、鏡が汚されないのと同様である。
なぜ染法に汚されないのかといえば、本覚の智体は不動であり、性は常に清浄だからである。
そして清浄なる性質を具え、衆生の内より常に衆生に熏習して、菩提心を起こさしめる。」(平川 一三一~一三二頁)
外縁による熏習
一方、縁熏習のほうは、「本覚としての仏陀が、衆生のために縁となって始覚の智を起こさしめる。
そのために外から衆生に働きかける点を熏習といったのである。
本覚がこのような外縁の力となる点を縁熏習鏡と呼んだのである。」(一三二頁)
「第二の因熏習鏡は真如の内熏を示し、第四の縁熏習鏡は真如の外熏を示したものである。」