高明寺レポート
三性に関するノ-ト
三性に関するノート
諸法を諸法たらしめている性質、すなわち自性を、唯識は「三性」として分析する。
遍計所執性。依他起性。円成実性。
最初に依他起性をもって説く論もある。『摂大乗論』
依他起性。遍計所執性。円成実性の次第である。
「性」はすべて<場>の性質といっていいが、存在の場である。
諸法は場を必要とする。諸法が諸法として成り立つ場、依止である。諸法には諸法の性質がある。場が場として住持される限り、諸法は自らの性質、自性を保つ。独立にして不変の性質ではない。関係性にして可変の性質である。それが諸法の自性である。唯識が見出した「自性」は、そのような自性である。そのような自性が見出されなければ、諸法は諸法として成り立たない。現象は現象として顕現し得ない。言語もまた言語として、自らの役割を果たし得ない。現象が現象として生起消滅している事実をとらえ得ない。
固定した実体がないにもかかわらず、固定した実体があるかのように錯覚されている世間の性質を、唯識は「遍計所執性」と言う。これは錯覚であり、執着であり、妄想である。
しかしこれが世間の現実の性質だということは、龍樹では前提となっている。ただ破るべき前提として龍樹自身の中でのみ自覚されているのであり、論としては表現されていない。
龍樹の意図は、空という本来性を示せば、世間の現実の性質(空という本来性についての無知)はおのずから破れる、というものであろう。
「それは枯尾花だ」と示せば、幽霊はおのずから消える、ということである。
しかし唯識は、現実を見よ、と言う。
真実を見よという龍樹にたいして、「枯尾花を幽霊と錯覚しているのが世間の現実の性質なのだ」ということの自覚を迫る。
なぜかといえば、「それは枯尾花」だと示しても、「固定した実体(幽霊や事物や自我)」を見る世間の性質はなかなか破れるものではないからである。幽霊ならばまだ「そんなものはない」と思える。しかし現実の事物世界や我の存在は、空の立場から言えば幽霊と同じものなのに、なかなか「そんなものはない」とは思えない。なぜそう思えないのか。なぜわれわれは「そういうものが有る」という迷いに執着するのか。そこを尋ねたものが唯識である。唯識は現実を徹底的に自覚する、という場所から出発する。それが修道の始めである。「遍計所執」の自性の自覚が、修道の出発となる。
如来の自性ということは、円成実性である。それがそのまま諸法の自性であるというのも、円成実性を言っている。「自性」がここでは、諸法の本来性という意味である。円成実性がそのまま、現象している諸法の本来性だという意味である。。
『弁中辺論』の文
「論に曰く、補特伽羅と及び法との実性は倶に有に非ず。故に無性空と名づく。この無性空は自性無きには非ず。空は無性をもって自性と為せばなり。故に無性自性空と名づく。」(玄奘訳『国訳』瑜伽部十二〔巻の上・弁相品〕宇井伯寿和訳一三三頁)
無性をもって自性とする、という表現がなされている。
自性が無いのが自性だという、これは『中論』「観如来品」的な言い方である。だがさらに、この無性空は自性無きには非ずといって、自性という言葉が積極的に用いられているのが分かる。
月称の表現と比較してより積極的だが、しかし基本的には異なる表現ではないのだろう。
「哲学は一般にすべて右の「自性」を自明なものとして肯定し前提している。龍樹の与えた定義によれば、自性とは「自己に固有の性質」スヴア・バーヴァハ であり、それは(一)変化しないもの(かって無なるものがのちに生成して有となるようなことのないもの)、(二)他に依存しないもの(相対的ならざるもの)であって、要するに絶対存在である。しかしこのような自性は、われわれの世界のどこにも認められず、すべては他との関係において存在し、変化するものである。たとえば燃える火は、マッチをすることに依存し、生じてはやがて消える。人びとは言葉の意味するものがすべてそのまま実在するかのごとくに考え、そこにみだりに自性を想定するが、それは真に実在するものではない。それゆえに「無自性のゆえに空」である。しかしわれわれの認識の最も深い根源として、法性とか法界とかが要請されるのであり、それこそ自性の名に値するとも考えられよう。しかしそれら法性などは、われわれのあらゆる認識をこえたものであり、それゆえに「認識をこえて空(不可得空)」なのである。」(長尾雅人『中観と唯識』岩波書店二九六~二九七頁)
長尾氏は、我々の認識のもっとも深い根源として要請されるのが法性や法界であり、それこそは「自性」の名に値するのではないかという。
法性は空であるが、自性なきにはあらず。ただわれわれには認識しえないものとして、空なのだという。ここには「空」についての二様の理解が示されている。「無自性のゆえに空」であることと、「不可得のゆえに空」であること、の二つである。前者は、龍樹における世俗諦の理解であり、後者は龍樹における勝義諦の理解であるという。
法性は空であるが、自性なきにはあらず。ただわれわれには認識しえないものとして、空なのだという。ここには「空」についての二様の理解が示されている。「無自性のゆえに空」であることと、「不可得のゆえに空」であること、の二つである。前者は、龍樹における世俗諦の理解であり、後者は龍樹における勝義諦の理解であるという。
「ここに龍樹の重要な教説として、勝義諦(最高の真理、般若の直観の対象)と世俗諦(世間的な真理)の二諦説がある。勝義諦は常に世俗諦を超越し、思惟や言葉の及びえない「言語道断」のものであり、いわゆる「高貴なる黙」によって示されるものである。(……)しかし多面、勝義諦は世俗諦によらなくては、みずからを明らかにしえない。人々を目ざめさせるものとしての釈尊の説法も龍樹の弁証論も、この意味において世俗諦である。空はこの二諦のいずれにおいても妥当する。すなわち世俗的には、縁起せる世界が無自性として空であるから、また勝義的には、絶対の知においてあらゆる二元的対立は否定されて空であるからである。」(前掲書二九七頁)
ところで、すくなくともこの「観如来品」の記述に関するかぎり、月称釈『プラサンナパダー』中のサンスクリット偈頌によっても、青目釈・羅什訳『中論』によっても、品の全体を逐語的に理解するのは困難である。論の未整理、あるいは散逸、誤記等があるのではないかとすら思われる。寺本婉雅氏によれば、漢訳『中論』青目釈は、チベット訳の原本を底本として重釈したもののみならず、青目自身の多量の意見が加入されていて、龍樹「中論」本頌の真義を率直に伝えてはいないという。寺本氏のいうチベット訳本とは、邦訳して『根本中(論)無畏疏』(「中論無畏疏」)と呼ばれるものであるが、寺本氏はこの書について、「しかし蔵訳の本論は頌疏ともに龍樹の自著にかかり、これによって龍樹の造論の本義を窺知せらるるであろう」(梵漢独対校西蔵文和訳『龍樹造・中論無畏疏』寺本婉雅訳註/国書刊行会・解題三頁)としている。
『中論無畏疏』が龍樹の自著であるか否かについては現在は疑問とされているらしいが、寺本氏によって梵漢蔵独の対校が懇切になされているので、青目釈の問題はしばらく置くとしても、『無畏疏』をも参照して補強すべきを補強しておきたい。
まず必要とおもわれる青目釈『中論』の文をあげ、次いで『無畏疏』の文をあげることにする。
「問うて曰く、一切世の中の尊は、唯だ如来正遍知有るのみ。号して法王・一切智人と為す。是れ則ち応に有るべし。
答えて曰く、今諦らかに思惟するに、もし有ならば応に取るべく、もし無ならば何の取る所あらん。何となれば、如来は、
陰(おん)に非ず陰を離れず 此彼に相在せず
如来は陰を有せず 何れの処にか如来有らん 」
(青目釈『中論』三枝和訳・レグルス文庫版(下)五七二頁)
答えて曰く、今諦らかに思惟するに、もし有ならば応に取るべく、もし無ならば何の取る所あらん。何となれば、如来は、
陰(おん)に非ず陰を離れず 此彼に相在せず
如来は陰を有せず 何れの処にか如来有らん 」
(青目釈『中論』三枝和訳・レグルス文庫版(下)五七二頁)
「此れに問うて言く、諸法は自性あるのみなり。如来応供正等覚者、一切世間の主、一切世間の遍照者、教師、教住者の在すが如し。
此に釈して曰く、
蘊に非ず 蘊より異に非ず そこに蘊なく そこに彼なし
如来は蘊を有するにあらず 如何なる如来あらんや 」
(『中論無畏疏』寺本婉雅訳註/国書刊行会・三九〇頁)
此に釈して曰く、
蘊に非ず 蘊より異に非ず そこに蘊なく そこに彼なし
如来は蘊を有するにあらず 如何なる如来あらんや 」
(『中論無畏疏』寺本婉雅訳註/国書刊行会・三九〇頁)
「諸法は自性あるのみなり」という『無畏疏』の言は対論者の主張であり、今「中論」は論敵の「自性」の主張を破らんとするのである。
青目釈では「是れ則ち応に有るべし」となっていて、これは「有無」の対論である。「有無」と「自性」の問題は離れないが、『無畏疏』では「自性」の問題がより意識的であることが見える。
青目釈の偈頌では「此彼に相在せず」が分かりにくいが、これは「如来の中に陰なく、陰の中に如来なし」である。
青目釈では「是れ則ち応に有るべし」となっていて、これは「有無」の対論である。「有無」と「自性」の問題は離れないが、『無畏疏』では「自性」の問題がより意識的であることが見える。
青目釈の偈頌では「此彼に相在せず」が分かりにくいが、これは「如来の中に陰なく、陰の中に如来なし」である。
この節では、「如来は五陰(蘊)でもなく、五陰と異なるのでもない。如来の中に五陰 があるのでもなく、五陰の中に如来があるのでもない。如来は五陰を所有するわけでもない。」ということが言われている。
もし如来が五陰ならば、如来に生滅があることになり、如来が無常・断滅であるという誤りが生ずる。
細かな問題ははぶく。ここで注意しておくべきことは、「如来は五陰と離れているのでもない」と言われていることだろう。『無畏疏』では、「蘊と異なっているのでもない」と言って青目釈と同じ意味だが、ここの解釈は青目釈の方が分かりやすくまた正確と思われる。
「如来はまた諸蘊より異なるに非ず。もし如来は諸蘊に異なるに非ざれば、生と滅との法を具するに非ざるが故に常等の過失に堕すべし。異なれば眼等の諸根に由って執せらること有るべし」と『無畏疏』にあるが、この文は分かりにくく、最終行は意味がとおらない。
「五陰を離るるも亦た如来無し。もし五陰を離れて如来有らば、応に生滅の相有るべからず。もし爾(しか)らば、如来に常等の過有らん。又た眼等の諸根は見知することあたわず。」の青目釈に依るべきであろう。
「如来に常等の過有らん」といって、如来は常ではないということが示されている。
「如来に常等の過有らん」といって、如来は常ではないということが示されている。
「是くの如く五種に求むるに不可得なり。何等か是れ如来なる。
問うて曰く、是くの如き義に如来を求むるに不可得なり。而も五陰和合して如来有り。 答えて曰く、
陰合して如来有らば 則ち自性有ることなし
もし自性有ること無くんば 云何んが他に因りて有らん 」
(青目釈『中論』三枝和訳・レグルス文庫版(下)五七四頁)
五陰が和合して如来が有るとあんたは言うが、五陰和合なら「自性」がないじゃないか。「自性」がなければ「他性」もない。なぜって、「他性」というのは他の「自性」のことだけど、他にも「自性」なんか見つからないじゃないか。他というのは自に因って「他」というんだろう。だったら、自がないのに他があるわけもないじゃないか。だから、如来は自性によっても他性によっても有るとはいえないんだぜ。
とでもいえようか。
袴谷氏は『唯識の解釈学』の中で、「自性」について次のように説明している。
「「自性」対応サンスクリットはスヴァバァーヴァ。一般的には「本質」を意味するが、次の「差別」と対に用いられるときは「固有性」や「本性」を表す。例えば、五蘊でなる諸法に対して、それらの「固有性」や「本性」が色(ルーパ)であり、受(ヴェーダナー)であり、想(サムジュニャー)であり、行(サムスカーラ)であり、識(ヴィジュニャーナ)であると捉えられたものが「自性」である。「自性」は、ものごとの性質について「xである」と判断する方向において用いられると、性質の「本質」を指す意味で機能するが、ものごとが実体的に捉えられて「Xがある」と実在を指示する方向に向かうと、「本体」的な意味に変質する。変質してしまった「自性」は特質を保持するものとなり、「固有の特質を保持するから法である」と定義される場合の「法」と互いに重なり合っていく。説一切有部を経由し、実修行派に定着した「自性」や「法」の意味は後者である」(袴谷『唯識の解釈学』語釈/春秋社八二頁)
この「自性」と訳される「スヴァバァーヴァ」の意味に、しばらくこだわってみなければならない。
前述の『漢訳対照梵和大辞典』は「スヴァバァーヴァ」について、
「固有のあり方、生まれつきの性質または素質、本性」といい、対概念としては「後天的性質」をあげている。
袴谷氏は『解深密教』のチベット訳テキストを和訳する際に、玄奘訳では「自性」とされ還元サンスクリットでは「スヴァバァーヴァ」と想定されている部分を、「ほかならない」という明らかに非本体的な意味に解しているが、この解釈は、唯識派に定着した「自性」=「スヴァバァーヴァ」の意味はものごとが実体的に捉えられて「本体」的な意味に変質してしまったものだという、氏自身の解釈と矛盾する。
ダルマターについて問題がある。「法」という言表の解釈である。
「自性とは諸法の自性ということ、つまり法性である。諸法の自性について三性を立てる。(……)羅什の旧訳には諸法実相というが、ああいう問題である。原語はダルマターというが、ターという語尾は抽象名詞をつくる用きをする。それを玄奘では「性」の一字で訳する。法性と。」(安田理深選集・第四巻・三〇〇~三〇一頁)
だがここにも問題が潜んでいる。現象している諸法とは、依他起性として現象している諸法なのか、遍計所執性として現象している諸法なのか。
分別の存在性
『弁中辺論』の文
「虚妄分別は有なり。此れに於いては二は都(すべ)て無し。此れの中には唯空のみあり。彼に於いてもまた此れのみ有り。」
論に曰く、虚妄分別は有なりとは、いわく、所取と能取との分別有るなり。此れに於いては二は都(すべ)て無しとは、いわく即ち此の虚妄分別に於いては、永く所取と能取との二性無きなり。此れの中には唯空のみ有りとは、いわく虚妄分別の中にはただ(但)所取と及び能取とを離れたる空性のみ有るなり。彼に於いてもまた此れのみ有りとは、いわく即ち彼の二が空なるの性の中に於いてもまたただ(但)此の虚妄分別のみ有るなり。もし此れに於いて有にあらずんば、彼に由りて観じて空と為す、所余は無にあらざるが故に如実に知りて有と為す、もし是の如くなるときは、則ち能く無倒にして空相を顕示す。」(『弁中辺論』玄奘訳『国訳』瑜伽部十二〔巻の上・弁相品〕宇井伯寿和訳一二五頁)
「三界の心心所は是れ虚妄分別なり。」(『弁中辺論』玄奘訳『国訳』瑜伽部十二〔巻の上・弁相品〕宇井伯寿和訳一二八頁)
「唯境を了するのみなるを心と名づけ、また別なるを心所と名づく。」((『弁中辺論』玄奘訳『国訳』瑜伽部十二〔巻の上・弁相品〕宇井伯寿和訳一二八頁)
「縁から生じたものは縁によって起こったことが自性である。縁から生じたというのは、計度したということと区別する。」」(安田/第四巻四一六頁)
「依他というものは有るものをあらわす。ただ無条件的にあるのでなく、他なる縁によって起こったものである。(……)すべての存在における存在性の条件を縁という。存在理由である。」(安田/第四巻四二一頁)
認識論的にいえば、計度(構想すること)もまた縁によるものであろう。妄想もまた縁によって生じる。しかしここで計度(構想すること)と縁生を区別するのは、存在論的な観点があるからであろう。存在論的にいえば、妄想は存在しないものである。構想(想像)の産物虚構にすぎない。しかし構想する識は有る。識は分別作用であるが、分別作用は有る。分別作用は縁生だという。分別作用を存在論的概念として考えるのであろう。ところで、存在論というものがどこで成り立つのか。唯識は、ただ識において存在論の根拠を見出すのだから、唯識における存在論とは、厳密な意味での認識論というものが……… 存在感覚に根拠を持つ。「われ在り体験」
認識(智慧・自覚)が、確固たる存在の根拠を見出す。実在、実相を見出す。実在は「自我」でも「構想された世界」でもない。「自我」(我)と「構想された世界」(法)とが二つながら空ぜられたところに顕現する、不可称不可説なる「それ」である。
二分は「依他起性」か、それとも「遍計所執性」か?
〔安慧の立場〕
「識自体が生ずる時に二分に似て現ずるという場合に、そういうことの上に依他起を明らかにする。識自体は依他起性。二分は遍計所執である。識が生ずるのは因縁によって生ずるから、識自体は依他起である。しかし、二分が顕現したものは遍計所執、識自体が識自体を失ったものだという。これが安慧の解釈である。」(第四巻四一〇頁)
「二分は徹頭徹尾妄情であるというのが、安慧の立場である。識自身は因縁から生じたものだが、二分の形をとれば、もう遍計所執であるという。安慧が一分であるといわれるのは、そういう点である。」
〔護法の立場〕
「それに対して護法の考えは、二分といったらみな遍計であるというのは行き過ぎであって、二分も依他起であるという。そういう点から護法が三分といわれる。陳那が三分で、護法は四分といわれるが、同じ立場である。護法教学には陳那という人の伝統がまとめられている。護法は陳那の伝統を受けている。」(第四巻四一〇頁)
「安慧では二分を否定するために自体分をいう。二分は、識が識でないものとしてあらわれたものである。真にあるものは識のみである。自体分のみが真にあるものということで、自体分を立てるのは、二分を否定する根拠になる。」(第四巻四一〇頁)
「護法が自体分を立てるのは、これとちがう。(……)護法は二分を成就するために、自体分を立てる。」(第四巻四一〇頁)
陳那の量論
「中国の註釈書(『述記』)に譬喩をもうけてある。見相二分以外に自体分を立てるのは、陳那の量論であるといわれる。そこでは、能量・所量・量果という。その量の三分を根拠として識に三分を立てる。能量は見分。所量は相分。量果は自証分である。能量は尺(ものさし)。所量は反物。量果は智である。判断である。果という意味は、反物というものをはかるから尺である。量らねば竹である。物差しと反物とをおいて、百年たっても量られぬ。反物は反物、尺は尺である。はかられるところに尺と反物とを成り立たせる。果として成立するものこそ、かえって尺を能量として、反物を所量としているものである。果は因の果であるばかりでなく、因を成就するものが果である。因果成就して果なら、果は因に加わったものである。因を因たらしめているものが果なら、果から始まる。果というのは因が成就満足する意味がある。果が無ければ、因も因にならぬ。因果を一方的だけでなく、交互的に考えなければならぬ。こういうものを因がであらわすのは本来無理である。果といわれているものこそ、かえって因を成就するもの。自体分がなければ、見相二分は別々のものになり、別々のものなら外境になる。」(第四巻四一一頁)
「護法では、自体のみが依他でなく、二分も自己の種子から生じたものであるとする。だから三分ともに依他であるというのが、護法の主張である。三分ともに依他起というのは、見相二分は依他起であるけれども、顕現した二分を顕現したごとくあるといった場合は、遍計所執である。顕現している事実は依他だが計度された二分は遍計所執である。この場合外境としての二分である。相分といっても意識内容だから外境でないが、それを計度して二分の相があらわれたのを、あらわれたごとく有ると計度した場合は、遍計所執である。計度によって計度されるのは執着である。遍計されたものというのは、執着されたものということである。」(第四巻四一二頁)
「自性分別は、およそ識の自性をあらわす。要するに、智でない限り分別という。(……)識は、存在論的概念である。智とは認識である。識は意識である。意識の問題と認識の問題とはちがう。認識の問題は、意識の問題を事実上の根拠としてもっているが、意識に与えられた事実である。認識は努力によって克ちとったものである。智は課せられたものである。人間の努力によって克ちとるべく課せられたものである。智は修道概念である。智と区別される限りの識を分別という。こういう場合に虚妄分別という。」(安田/第四巻四一七~八頁)
遍計所執
「条件関係というものの他に存在は無い。それを、条件を無視して抽象化する。関係から存在を引き離して存在自体を抽象化するのが、遍計所執である。」(第四巻四一二頁)
「相分も相対化されれば物である。見分も対象化される。それは主観である。実の能取所取。主観と客観。(……)人間は事実に居りつつ、事実を抽象化する。実体化、対象化、抽象化は同義語である。主観というも客観というも、静止したものである。そこに実の我法が成り立つのである。」(安田/第四巻四一二頁)
「二分は遍計の地盤である。依他の二分を所依として、二分を実体化する。有るとか無いとか、具とか不具とか、生とか滅とか、すべて、あらゆる客体世界の範疇である。無限に決められていく。身動きもできぬ世界が現出する。」(安田/第四巻四一三頁)
「計度分別が煩悩のおきる地盤である。」(安田/第四巻四一三頁)
「計度(けたく)。これが遍計と訳される。厳密な意味での分別である。Denken(思惟)という意味を持った分別である。分別はすべて計度するのではないが、計度的に分別する。過去も未来も現在もみな計度する。記憶と記憶を考えることとはちがう。水にステッキを入れた時に曲がってみえることと、かくのごとく曲がっているというのとはちがう。記憶は誤りではないが、それを更に計度することができる。三つの分別を完全に具しているのは、第六意識である。」(安田/第四巻四一八頁)
「阿頼耶識は自性分別はあるが、随念・計度はもたぬ。前五も同じである。知覚に過去は無い。この三つを完全にもつのは意識だけである。護法は意識の中に第七も含める。八識の体系の中で、第六・第七は意という名をもった識である。第六は意に依る識、第七は意なる識である。意をあらわすのが計度である。自性分別が随念分別を媒介して、計度が規定されてきた。」(安田/第四巻四一九頁)
「安慧は全八識が執をおこすといったが、護法は厳密に第六・第七識だけという。安慧には安慧の理由があって、阿頼耶識にも法執があると考えるが、そうすると無覆無記というわけにゆかぬ。」
「無始以来の虚妄分別の影響を受ける。だから阿頼耶識すら執着に色づけられているという考えである。今日、信仰という問題についても、理性と理性の固執とは区別できないようである。護法は人間が理知を持っているのは罪ではないが、理知をたのむことが罪であるという。」(安田/第四巻四一九頁)
円成実
「事実の実相は一でもなければ多でもない。有でも無でもない。それが主体の世界である。円成実性はそれである。」(安田/第四巻四一三頁)
阿頼耶縁起
阿頼耶縁起からは、無数のアーラヤ識、個々のアーラヤ識の存在は導き出されない。どこまでも唯一の識主体、唯一のアーラヤ識における諸識の転変にとどまってしまうのである。したがって無数の阿頼耶識が成り立つためには、阿頼耶縁起をつつむより高次な概念、メタ論理としての縁起概念が必要なのである。
「識の根元もまた識である。そういう識を阿頼耶識に求めた。阿頼耶識における自己の種子から生じた。種子なくして起こったのなら幻影である。(……)現象の世界に現象を超越したものを原因として持ってこない。世界をして世界を語らしめる。現象をして現象を語らしめたのである。」(安田/第四巻四二一頁)
「種々な思いの識がおこるのは私。私がおもう。(……)原因は思っている私より外にない。私があって意識があるのではなく、私を成り立たせるような識がある。私の識から種々なる識が縁起した。そういう意味で「因縁に繋属する」という。
繋属因縁。 (真諦訳『摂論』)
これが依他起。いかなるものも因縁に繋属したものである。諸法は自己自身の意思から生じたものでなく、他に依る。」(安田/第四巻四二一~四二二頁)
「依他というが、自の種子から生じたものである。他といっても自が無いわけではない。有無と自他が総合されている。種子(*三木注・因)以外のものがすべて縁となる。現行も縁となる。そのものを除けば、他の一切が縁になる(*三木注・という縁のあり方)のは増上縁である。そのものは因縁(因という縁)である。すべて縁というのは存在の条件であるが、種子は条件の中の根本条件である。自己は自己の存在のためには根本条件である。『二十唯識』の中に、
識従自種生、 似境相而転 (*三木注・識は自種より生じ、境相に似てしかも転ず)
という。「自種」は依他、外境は遍計である。」(安田/第四巻四二二頁)
「三性説は唯識哲学の要ともいうべき重要な思想であり、すでに世親以後の頃から、異なる学説が主張されていた。近来の研究においても、たとえば宇井伯壽は弥勒・無著・世親らの三性説とは著しく異なるとし、また真諦訳を重視する上田義文と玄奘訳やチベット語訳をも尊重する長尾雅人との間には論争がなされたりした。」
(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「三性説の起源では、(……)、(『解深密教』の)『菩薩地』「真実義品」を扱い、そこに説かれる、仮説-事-離言法性の説に三性説の萌芽を見出している。」
「三性説の基本構造は、まず、唯識文献として最も初期のものと考えられる『解深密教』、『瑜伽師地論』(「摂決択分」)の三性説を認識した。それは、ほぼ、言語(名言所計)-事(因縁所生)-実性(真如)において語られる三性説であり、未だ、識との関係が詳しく論じられていないものである。(……無著の)『摂大乗論』の三性説は、虚妄分別・識と結合したものだが、基本的には『瑜伽論』等の三性説をふまえたものである」 (竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「三種の自性をあらゆる点より吟味するのは、『摂大乗論』である。(……)『摂大乗論』では、阿頼耶識の問題を依止として説く。「応知の依止」という。応知とは三種の自性を表す。三種の自性をもって在る所の諸法、その三種の自性の依止を阿頼耶識という。依止とは詳しくは、因縁の問題である。阿頼耶縁起ということになる。依止の問題ということが、存在論の問題である。それを仏教では因縁として明らかにする。阿頼耶を因縁とするとは、諸法をして諸法たらしめる根拠の問題である。だから真の因縁を求めるものである。阿頼耶識がないと、因縁といっても、厳密な意味の真の因縁にならない。」
(安田/選集第四巻「唯識による三性の成立」三〇二頁)
「それに対して、応知は諸法の問題である。阿頼耶縁起としての諸法、阿頼耶を因縁として生起せられたところの諸法の問題である。諸法を生ずる因縁を、阿頼耶において明らかにし、その阿頼耶より生じた諸法を三性をもって明らかにする。因縁は仏教の根本命題である。それを瑜伽の大乗では阿頼耶縁起として説く。」(安田/選集第四巻・三〇二頁)
「因縁法に対して『摂大乗論』に使われるのは、「縁已生法」である。縁によって已に生ぜられた法。依止と応知は、縁と縁已生法である。因縁とか縁已生法は大乗では広く説かれるが、それを阿頼耶縁起と三性をもって説くのは、瑜伽独特である。その瑜伽の独自性は唯識ということからくる。諸法唯識という立場に立ってみると、如何なるものも識を離れては無い。諸法が有るのではなく、諸識が有るのだ。その識は識から生ずる。識の根元も識に求める。」(安田/選集第四巻・三〇二~三〇三頁)
「『大乗荘厳経論』の三性説も、遍計所執性は言語にかかわる領域として、依他起性は虚妄分別に具わるいわば十八界として説かれており、一方、『弁中辺論』においても、やはり虚妄分別において顕現する十八界は依他起性、その実体視されたものは遍計所執性であって、弥勒論書といえども、決して『瑜伽論』等の三性説と論理構造が異なるわけではない。」 (竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「『唯識三十頌』は、表面的には、能分別=依他起性、所分別=遍計所執性といった三性説を説いているかのようである。しかし、仮設や転変等の概念の正確な理解の元に、子細に検討するとき、護法の解釈(『瑜伽論』等と通底する解釈)は極めて妥当である」 (竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「『三十頌』は『解深密教』や『摂大乗論』の教学的遺産を継承する。」(安田/選集第四巻三〇二頁)
「我法の相に似る能変の識を三類の識とする。唯識といっても、決して一識ではない。三類の識が我法に似て転変するのである。」(安田/選集第四巻三〇四頁)
「遍計所執性は依他起性によって成り立つのである。そうであるのに遍計所執性と依他起性との関係が不明瞭になったのは、「遍計」と「分別」とが同義語であることを見失って来たからである。」(安田/選集第四巻三〇八頁)
「識転変とはどういうことかというと、識が分別、所分別という形をもつことであるというのである。それで、識が起こっている時は、必ず能分別・所分別という形をもつことであるというのである。(……)識が能分別・所分別といわれるのは、何もない識ということがないということである。転変ということは、識にも転変があるのでない。識それ自体が現れているということは無いのであって、識は何かとして表れているのである。」(安田/選集第四巻三〇九頁)
「『弁中辺論』では、虚妄分別は依他起性であるという。そこで虚妄分別とは、三界(欲界・色界・無色界)の心・心所(心そのものとそれに付随して起こる個別の心作用)をいう。すなわち、迷いの世界における心作用の総体が、虚妄分別である。識に直して表現すれば、我々の八識の活動の総体が、虚妄分別である。したがって、虚妄分別が依他起性だということは、八識そのものが依他起性だということである。」(竹村/『唯識の構造』五二~五三頁)
「この虚妄分別において、能取-所取の二取が、遍計所執性であるという。そしてその二取が、依他起性に無いことが円成実性だという。」(竹村/『唯識の構造』五三頁)
「ヴィカルパを「分別」とも「遍計」とも訳すのである。第十七・十八頌ではヴィカルパを「分別」と訳し、そしてまた第二十一頌にも「分別」と訳すのである。ただ第二十頌にヴィカルパを「遍計」と訳するのである。この点を宇井氏は非難するが、このように訳すのは、梵語の力によるのではない。学問的良心ということがちがうのである。世親が何をいったかを問題にするのが仏教ではない。世親という人によって解明された法を明らかにしようとするのである。そうであるから、言葉の上には犠牲を払っても、法を明らかにしようとする。」(安田/選集第四巻三〇九~三一〇頁)
「このように分別と遍計が出ているために、関連が不明瞭になって来たのである。分別は広く、遍計は分別より狭い」(安田/選集第四巻三一〇頁)
「識といえばかならず虚妄なのである。真実の識ということはないのである。虚妄であることを徹底的に明らかにしようとするのが唯識の立場である。真実であるのは智のみである。我々は真実もあり虚妄もあると思うからいけないのである。虚妄以外の何物もない、ということを語るのが唯識の立場である。」(安田/選集第四巻三一〇頁)
「我々の存在はすべて観念論的であるという。たまたま観念があるのではなく、すべて観念論であるということを徹底的に明らかにするのが、唯識論の立場である。」(安田/選集第四巻三一〇頁)
「依他起には分別と縁生の二義がある。依他起ということで何を表すのかというと、分別ということを表すのである。つまり、依他起といわれるものの体は虚妄分別であるというのである。そうであるなら分別性といえば良いのに何故に依他起というのであるか。それは縁生であるからである。」(安田/選集第四巻三〇七頁)
「縁生も依他も同義語である。しかし観点が違うのである。縁生の方は阿頼耶ということを表す。依他の方は縁起された法の方を表す。縁起と依他は同義語であるが視点が違うのである。縁起したものは縁起したものであるが故に、縁起されてあるということがその法の自性である。その自性というところから、依他というのである。」(安田/選集第四巻三〇七頁)
「分別ということに、自性分別と随念分別(過去世の追想)と計度分別(推理構想)の三種があり、前五識は自性分別のみ、意識は三分別すべてを具える、自性分別とは、青を青と見るだけのようなもので、実は無分別である(ただし煩悩に染まってはいる)、ということは、部派仏教でもすでに自明のことであった。」(竹村牧夫『唯識の構造』春秋社二〇頁)
「仮設の主体は意識(と末那識)なのである。意識こそ、迷いの根本に他ならない。眼識が白という色、四角という形を見ていても、眼識がそれを本と認識するわけではない。その眼識の感覚内容を基として、本というものを設定するのは意識なのである。」(竹村牧夫『唯識の構造』春秋社二〇頁)
ここには問題がある。感覚内容もまた、感覚機能の条件に左右される。それもまた迷いでないということをどう証明できるか、という問題。感覚も分別である。感覚もふくめた識作用のすべてが虚妄分別であることは論(『弁中辺論』など)に明らかである。
従って、認識作用だけが迷いではない。感覚作用も迷いである。虚妄なる分別であることにおいて、認識も感覚も迷いであることには変わりがない。
より正確にいえば、その認識なり感覚なりの相対性をわすれて、絶対化することが誤りであり、迷いなのである。
その相対であることを見失わない認識によって把握されたものを、「依他起」というのではないか。
また、その相対であることを忘れて絶対化することを「遍計所執」という。
それが「実体化」ということではないか。
言葉のないときには存在は現象しないか?精神病理学の記録から。
「仮設には、およそ言語が伴うと唯識は説くのである。名言によって、感覚現象の世界に“もの”を型どる。そこに実体があるとの錯覚に陥る。」(竹村牧夫『唯識の構造』春秋社二〇頁)
「最近の哲学にいう、主観はおよそ間主観であるということすらも、仏教はつとに明らかにしていた」(竹村牧夫『唯識の構造』春秋社二〇頁)
「『成唯識論』の伝える安慧の三性説では、スティラマティの『唯識三十頌釈』のそれとも異なる安慧の三性説が、弥勒・無著・世親の三性説ともいかに異なるかを、護法の批判なども参照しつつ明らかにしたものである。特に唯識のアビダルマ(とりわけ心所論)等に照らしても、その論理的妥当性に欠ける」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「以上において、従来の三性説の一般的理解に相違し、弥勒等から護法に至るまで、瑜伽行派では一貫して同一の論理構造が継承されていたことを実証した」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「唯識では、言語を実在とは見ない。しかし不相応法として独自の法とたてる(色法に還元しない)点で、むしろ経量部とは異なり、説一切有部とも親しいものがある」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「言語の表示対象は何であるか(……)それは共相(一般者・普遍)なのであり、しかも、他の否定(アニヤアポーハ)に帰着する」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「前五識は、現量にて自相のみしか認識しないのであり、遍計所執性が言語(共相)と不可分のものであるなら、それら五感の地平にはそれはありえないことが明瞭となろう。」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「意識の遍計のはたらきが、後の依他起性を産出すること、いわば言語が存在を形成することが唯識の中で考えられている」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「幻の譬喩によって語られる依他起性の、行相(形象)としては有るが存在としてはないという規定の、その存在論的意味を検証する中で、中観派が論難する有の立場の意旨を究明した」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「唯識ということが、実は唯心王(=識)・心所という多元的なダルマの縁起・相続によって世界を説明する、いわば要素還元主義的理論の側面もあることを明らかにし、また心所の実有如何に関し唯識と華厳とが『大乗荘厳経論』の一句を教証として共有する、その分岐点について考察した。」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「唯識教学の中に、十八界に対する理解を基本とする界善巧の系譜があることを指摘し、それこそ、自在神等を否定する縁起の世界観の根幹をなすものであることを明かした」
また「阿頼耶識の教証としての「界」が、実は多元的な種子ことに他ならないと解釈されていることも指摘した。」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「依他起」と「依他起の自性」が同一視されるということは、「依他起の自性」のほかに「依他起」(縁起)はない、ということであろう。アーラヤ識縁起というものだが、そこに「唯識無境」説というものが伴っている。
「依他は、事実というものであろう。縁起は、事実を表した言葉である。理というものではない。事実というものであろう。」(安田/選集第四巻・三一四頁)
中観派からなされる唯識批判のもう一つの論点は、この「唯識無境」説である。
アーラヤ識の存在、その縁起としての性格、そして唯識無境説、この三点が中観からの論難の対象となる。この三者は互いに結びついており、特にアーラヤの縁起的性格は、唯識無境説によってアーラヤ識縁起を見出す。
「唯識無境」説を同伴した「阿頼耶縁起」である。
「唯識無境」とは、「唯、識のみが有る。外境は無い」とする説である。
「『唯識二十頌』の冠頭には、「三界唯識無外境」と述べている。」(安田/選集第四巻三〇四頁)
衆生縁起
阿頼耶縁起は、衆生の縁起である。衆生存在において成り立つ縁起を、アーラヤ識の転変相続に見る。衆生存在を成り立たしめる縁起といったほうが論理的には正しいが、より正確に言えば、衆生存在を成り立たしめる縁起において現象したその「衆生存在」における縁起である。どこまでも衆生存在の範疇に限定された縁起である。ここで衆生というのは、たとえ円成実を覚って仏となったとしても、識を持つ存在、有識であることには変わりがないという意味である。衆生は新訳では有情というが、今いうのは有識としての存在である。有識という意味では、仏も凡夫も等しく衆生である。
そもそも『阿含』に説かれる十二縁起というものが、衆生の縁起である。十二縁起は衆生を離れて説かれたものではない。生老病死し、苦悩する、衆生存在の因縁を明らかにしたものである。
阿毘達磨において、衆生存在に限定された十二縁起から、衆生存在をつつむ一切世界の縁起というものが問題になった。衆生の外にある諸法の縁起が探究されるようになった。それは衆生の縁起ではなく、世界の縁起である。
阿毘達磨は諸法を実有とみなした。実有なる諸法の縁起によって、衆生存在は仮に現象している(仮和合)のだ。したがって衆生存在は実体がない(人無我である)が、諸法は実在しているのだ。これが阿毘達磨の立論である。
龍樹は阿毘達磨を批判して、諸法もまた実在ではないのだと言う。一切法無自性の「空」の教説であるが、この場合、龍樹が「空」の根拠とした縁起は、阿毘達磨と同じく世界の縁起であったのではないか。どこまでも衆生に限定された縁起というよりも、衆生を現象させている諸法の縁起である。龍樹において諸法の縁起は、諸法が実有であっては成り立たない。いや、諸法が実有ではないということを証明する事実こそが、一切法の縁生の事実なのであった。一切法は縁起であり、縁起なるが故に空なのであった。
唯識は、そこに新たに衆生存在の縁起を復興する。龍樹の空観では、衆生存在の縁起は諸法の縁起のなかに包まれている。
「阿頼耶縁起は諸法縁起である」と安田先生はいわれる。「諸法縁起」であるが、それは所知障の縁起としておさえられるのではないか。分別の縁起である。『摂大乗論』では「分別自性縁起」という。自性を分別する衆生心の縁起である。
「分別を自性とする縁起」と安田先生はいう。
「阿頼耶縁起は諸法縁起、十二縁起は苦の縁起である。(……)阿頼耶縁起のことを分別自性縁起という。阿頼耶で縁起が完成したのは、これは真の因を見つけたからである。熏習の成り立つのは阿頼耶識、そこに諸法が成り立つ。諸法それ自体、十八界はそれぞれ自性がちがう。それで界、その界は分別されてある。それで分別自性縁起という。十二縁起は分別愛非愛縁起である。これは経典としては、二種をあげたのは『十地経』である。論として立てたのは『摂大乗論』である。これは十二縁起をやめて阿頼耶縁起というのではなく、十二縁起の成り立つのは阿頼耶をまって成り立つということである。十二縁起も惑・業・苦の習気である。これは、阿頼耶がなければ成り立たぬ。十二縁起のかわりに阿頼耶縁起を立てるのではなく、十二縁起を基礎づける。十二縁起を因縁というが、阿頼耶から見れば増上縁である。無明をいくら積んでも行にはならぬ。増上縁である。」(選集第四巻「三、生死は如何にして可能か」二四五頁)
「諸法は分別を離れては無い。分別は識の自性である。虚妄分別をはなれて諸法はない。これが諸法の縁起となる。」(安田理深選集第四巻「三、生死は如何にして可能か」二四六頁)
その通りだが、厳密にはやはり、「諸法の認識は分別を離れては無い」ということだろう。「虚妄分別をはなれて諸法の現象化は無い」と言ってもよい。
虚妄分別の主体、分別する衆生の存在は無数に有る。無数にある衆生存在の数だけ、その虚妄分別における諸法の現象化も無数にある。つまり、識の数だけ世界も数々にある。識はそれぞれの世界をもつ(意識する)。人人唯識ということである。
この人人唯識ということが何処で成り立つか。一個の主体の内的縁起だけでは、「人人」ということは出てこない。個々の主体というものが成り立つ<場>は、一個の主体(アーラヤ識)にとっては外的である。その<場>もまた、常に一個の主体によって想定されるものではあるが、しかし一個の主体にとって、それは必ず他の主体を成立せしめる脱自的な<場>外部世界へと開き出ていく可能性の<場>として認識されるのでなければならないはずである。
「中観哲学においては縁起は一方において「此縁性」(イダム・プラト(ティ)ヤヤター)と呼ばれ、他方縁起せる法を「施設有」(因施設 ウパーダーヤ・プラジュニャープティ)の語をもって表す。この「施設」は更に瑜伽行唯識学派において「識」(ヴィジュニャープティ)として考えられた。」(長尾雅人『中観と唯識』岩波書店七頁)
「法の縁起的なあり方施設的にして実有ならざるものそれが、識としての表現・識の構成によってのみ三界が具体的に有るという思想に繋がっている。」(長尾同上七頁)
「こうはいっても、縁起が必ず何らか有なるものの系列であることに変わりはない。従って作られたもの(有為)として、同時に自ら作り行くものとして、表現的施設的に有的である。それ故に縁起はまた輪廻的ということができる。賢明にも漢訳者は、輪廻(サムサーラ/サンサーラ)の語を、また「生死」の訳語をもってしている。縁起は有為の因縁であることからして、何らか作られ作るという生死の働きに外ならない。」(長尾同上八頁)
「しかし中観が主題とする縁起は、単にかかる輪廻的な意味の縁起のみではない。縁起には輪廻的な面とその反面にそれを超えた縁起有とがある。かかる区別がなくては、実は仏というものも考えられない。仏にも生死があり、菩薩もまた敢えて涅槃を捨てて生死に住するのである。正覚の生死界における働き、いわゆる随縁真如的なるもの、即ち仏の縁起・生起ということがなくてはならない。かかる縁起は我々の普通の生死、自我や自性の居住する生死とは決して等しいものではない。」(長尾同上八頁)
「縁起はもともと因より果へということであって、その限りにおいて何らか作り作られる有為の意味をもつ。しかし因より果へということは、自性的に主体的なるものが、同じく自性的に客体的なものにはたらくことではない。何者かそこに存在がまず把握せられ固定せられ、即ち有自性的であるようなものが、同じく有自性的なものを作るという、かかる自性の因果の関係は、縁起とは称せられない。縁起の真の意味は、かかる有自性なもの、主体的な我が、すべて否定せられる所にある。「此縁性」といい、「此あれば彼あり」ということは、此の自性の存する時、彼の自性が他に別に存す、との意味ではない」(長尾同上八頁)
中観の根本的立場
「然しかかるあらゆる意味の相対性、絶対的に相対の世界であることは、それ自らが私・自性に対する絶対他者として絶対的である。絶対者は私を離れて別な世界にあるのではなく、私の相対的な行作が絶対的な意味を荷なって絶対者となる。縁起相対そのものの中に絶対と称せらるべき意味がある。念々に非存在へと逸脱し生即死なる存在が、そのままに絶対的な存在である。空性の光が透過することによって、縁起し流転する世界がそのまま絶対存在に転化するといってもよいであろう。然しそれにもかかわらずなおそれは、生死流転する歴史的世界であり、因より果へという大道である限り、有為的であり有的であるといわねばならぬ。
中観哲学がその主題とせんとする縁起はかくの如き意味を有するものでなくてはならない。然しそれ故に縁起を説くことは空性や遮遣を些かも第二次的なものとすることではない。右に述べたところに既に明らかな如く、有的な系列としての縁起が、そのまま直ちに空性であるとの意味が中観にはある。無即有、即ち空性即縁起ということが中観哲学の根本的立場であるといわねばならない。」(長尾雅人『中観と唯識』岩波書店一〇頁)
「否定的な無と縁起的な有とが、ここでは不可思議的に即一なのである。」(同上一〇頁)
「また絶対的に矛盾的な無と有との即一ということも、それは直観的神秘的に合一するのみではない。かかる直観的な即一のみをもって満足するならば、世俗言説の建立の面において十分ではないという、同様の欠陥があるであろう。直観のみが「即」の世界なるが如くに誤解せられ易いのは、直観がややもすれば神秘的・隠遁的・超世俗的なものに堕し易いからである。無が直ちに有であり、有もまた直ちに無に移り行くことが、無と有の両者の中に必然的に包含せられ、かかる移り行きを明らかにし発展せしむる所に、中観的な論理がある。中観哲学はかかる論理学として世俗有を可能ならしめ建立するものでなくてはならぬ。」(長尾雅人『中観と唯識』岩波書店一〇~一一頁)
「かかる論理をもし欠くならば、無即有、有即無という如き言説は、単に狂人の言に等しいといわねばならぬ。」(同上一一頁)
円成実
「自性円成実・自性清浄への視点は円成実性の理解に欠かせないものであり、これと如来蔵思想との同意についても考察した。」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「依他起性は自相(究極の特殊、個物)の方向に自相を超えたもの、円成実性は共相(普遍、一般者)の方向に共相を超えたもので、しかもこの両者が不一・不異の関係にある」「われわれの存在そのものが、この構造の理に貫かれていることについて論じた。」
(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「転依の所依を法性に見る立場と依他起性に見る立場とを対比させ、そこにある三性の重層的転換の構造を明らかにした。」
「所依は本来、個体そのものを意味するのであり、唯識の中でそれは種子や阿頼耶識にではなく、心王・心所の相続としての依他起性に見出されるべきことを論じた。」
(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「一般に、無分別智には、相分・見分のない智が眼がえられがちだが、護法は、実は見分のみ有りとすることに注意を促し、その根拠とされている『瑜伽論』の所説の論旨の究明を試みた。」(竹村牧夫『唯識三性説の研究』春秋社・はしがき)
「依他起性と円成実性の関係を第二十二頌で述べるのであるが、第四句の関係は構造上としての関係ではなく、我々に関係させて、その関係が見られるのである。円成実性を見ない者は依他起性を見ることができない(*注「非不見此彼」「此れを見ずして彼を見るには非ず」)というのである。」
迷いの依他起が破られたところに顕現する円成実の世界は、言説によって「相無自性」が理解されたところの「空性」の理解とは異なる。どちらも「空」または「空性」という言葉で表現しうるが、しかしそこには次元の違いがあり、それゆえに質もまた異なる。一方は言説における了解内の「空」であり、一方は言説の了解次元を超えた直覚の、仮立された表現としての「空」である。
『解深密教』では、この依他起が二重になっている。二層と言うこともできるが、いずれにしてもそれらは言語的な解説である。言語的イメージにとらわれてはならない。ただ説明の便宜として用いるだけであるが、あえて言えば、迷える依他起と、迷いを離れて在る依他起とである。その二者が、依他起の自性において二層の構造をもっている。
真如法性は自性無自性である。これは勝義諦の言説である。勝義諦の言説は、それを覚った者において成就する。まだそれを覚らぬ者には、導きの役目はもつが、成就ではない。
蓮如上人のお文に信心の異議をとりあげて、「十劫正覚のはじめより、われらが往生をさだめたまへる弥陀の御恩を忘れぬが信心ぞといへり。これおほきなる誤りなり」と言うのがある(一帖目・十三)。なぜならば、「そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれを知りたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれを知らずはいたずらごとなり」だからである。
如来の至誠心を知っても、すくわれるべき身の自覚がなければ、いたずらごとである。「われらが往生すべき他力の信心」と蓮如上人がいわれるのは、すくわれ難きわれら目覚め難きわれら(衆生存在)の身の自覚であり、同時に、すくわれるべきわれら目覚めるべきわれら(衆生存在)の身の自覚であろう。二種深信のことだろう。まだ目覚めていない、われら衆生存在が、いかにして目覚めを得るかという課題である。
浄土の仏教はその答えを、「すくわれ難き身」(衆生存在)が、如来の真実心(大慈悲心)の回向によって「救済される」という構造の中に見出した。そしてその心を「他力の信心」と表現した。
『唯識』それ自体は「他力の信心」を見出していないが、しかし「他力の信心」が見出される存在論的構造は、『唯識』によって基礎づけられる。大乗の歴史において、迷える衆生が、真実の目覚め(勝義)を得るに至るその存在論的構造というものが、『唯識』において始めて見出されたのだと言ってよい。
『唯識』はそれを、依他起の衆生(依他起の自性)が、「依他起」の自覚において、「円成実」の目覚めを得る構造として見出したのである。
『唯識』と『如来蔵』とをある意味で総合している『起信論』が、阿弥陀仏による救済を説くのは、この意味での必然性をもつのだろう。おそらくは浄土系信仰が『如来蔵』を通して『唯識』に出遇ったのではないか。『唯識』と『如来蔵』の出遇いによって始めて、目覚めが救済であり、救済は自覚であることが見出されるが、『起信論』は、如来の救済による衆生の自覚の、可能的根拠を明らかにする。「他力の信心」が成り立つ存在論的構造を、明らかにした論なのだと言える。
円成実は、存在の事実を超える。現象し生滅する存在の事実を、迷いの事実として見破る智慧が円成実の智慧であるが、それは理知分別の言説によっては得られぬ。その言説が、名仮安立として自覚された仏語、覚者の教説であったとしても、依他起の自性は、「それは迷いである」という言説によって破られるような単純な迷いではない。それ故に、言説によっては破られぬ「存在の事実」として依他起の自性が説かれるのである。依他起の自性を破るためには、まず依他起の自性が自覚されなければならない。「それは迷いである」という単なる言説によっては破られぬ、存在の厳粛な事実としての依他起の自性が自覚されなければならない。『唯識』において依他起の自性が説かれるのは、だからこそなのである。
「龍樹が一切法無自性の真理に目覚めた。しかしそれで依他起の現象世界の全部がパッと目覚めたということにはならない。目覚めたのは龍樹であり、龍樹における世界の目覚めである。依他起の現象世界には、目覚めた龍樹もいれば、まだ目覚めぬ者もいる。それが衆生存在の事実である。その衆生存在の事実は、どのようにして成り立っているのか。
もし龍樹の『中論』を読めば一切の衆生がただちに目覚めるというのであれば、別に衆生存在の成り立ちが分かる必要はない。ちょっと難しいけど頑張って『中論』を読もうよ、ということでよい。だが『中論』を読んでも目覚めぬということがある。難しいから読めないということだけではない。根底的に、『中論』では目覚めきれぬ。それは、たとえ遍計所執の迷妄に気づいても、まだ破られぬものが残るからである。遍計所執が破れ切れぬといってもよいかも知れない。
そこに、依他起の自性というものが見出されてきた理由がある。迷いも目覚めもそこにおいて成り立つ場所、迷悟の根拠が求められたのである。たとえば、私が『中論』を読む。するとそこで、遍計所執ということは分かる。龍樹が遍計所執という言葉をもちいているわけではないが、『中論』の意図はわれわれの遍計所執を破らんとするものだということが分かる。その意味で、遍計所執の迷妄に気づかされる。気づかされるが、それで遍計所執は破られぬ。気づかされても破られぬような迷いである。そういう深い迷いがどこに根ざしているのか。場所がちがうのである。単に気づくときの場所と、迷いの根ざしている場所とは場所が違う。深みである。存在の深みということである。遍計所執というものが根ざしている、その深みを明らかにする。」(「ノート」1の複写)
ここでは遍計所執の妄想が破られるだけでなく、存在の「存在性」、すなわち生滅する現象としての存在の事実性さえもが見破られ、超えられる。有為の現象世界が、智慧の光に照らされて破られる。そこに無為にして無染なる真如の世界、円成実なる世界が顕現する。そこにおいては、すでに生滅の現象世界が超えられているが故に、もはや生滅はないのである。
中観思想の基本的認識は、一切の存在は、自ら独立して存在しているのでなく、全て他によって存在している、ということである。これが一切法無自性といわれることであり、「空」といわれることの意味である。言い換えれば、一切は「縁起」しているということなのだが、チベットの中観では、この縁起について三種の、三つのレベルの縁起があるという。中国禅などでは、このように縁起の内容を詳しく考察するという方法をとらず、直接に空を感得せよと勧められるのだが、直観的感得の前に、知的に縁起を理解する段階を置くのが、インド・チベットの伝統である。この伝統においては、縁起についての知的理解が深まることによって、空の直観が可能になるという。したがってその考察は厳密である。
縁起の第一レベル
縁起の第一のレベルは、時間的な縁起である。畑に種をまけば作物が育つというような、原因によってあるものが生じ、原因によってあるものが滅し、原因によってあるものが変化する。このような因果の関係性を意味するのが、第一の縁起である。
縁起の第二レベル
縁起の第二のレベルは、相依的な縁起である。 というような、お互いの存在の成立がお互いの存在によってたすけられている。このように相互に条件となり、相互に依存しあっているような関係性を意味するのが、第二の縁起である。しばしばたんに「縁」ということばで表現される。
因果の途中に縁(条件)をふくめて、因・縁・果とするのは、因果の関係性に相依的縁起を組み合わせたものであろう。
縁起の第三レベル
縁起の第三のレベルは、概念的な縁起である。これは東と西のような関係だと言われる。東というある特定の場所があるわけでもなく、西というある特定の場所があるわけでもない。それらはただ人間の概念のうちにのみ存在する。いいかえれば、人間がそのように名づけたから、そのような言葉をもって存在する概念にすぎない。このように人間の言語活動によってのみ成立する関係性を意味するのが、第三の縁起である。このような縁起は、ただ中観思想によってのみ説かれたとされる。
差別
「対応サンスクリットはヴィシェーシャ。「自性」と対で用いられるときは「特殊性」や「特性」を表す。例えば、「自性」として捉えられた色に対して、それが目に見えるものであるとかそうでないとか、善であるとかそうでないとか、生起したとか消滅したとかいうふうにその特殊な性情が捉えられた場合、その「特殊性」や「特性」を「差別」という。」(袴谷『唯識の解釈学』語釈/春秋社八二頁)
仮
「玄奘訳は「名仮安立」で、別な箇所では「仮名安立」とされている場合もあるが、ナーマンには「名」、サムケータには「仮」が対応するので、前者が正しい。サムケータが玄奘によって「仮」と訳されたことになるが、この意味は「世間での約束ごと」であるから、社会の約束ごととして共通に認められている象徴や記号や身振りなども含めて表す。」(袴谷『唯識の解釈学』語釈/春秋社八二頁)
依他起をめぐる問題
『摂大乗論』の文
「その中で、他に依ることの相(パラタントラ・ラクシャナ)とは何か。それは、アーラヤ識を種子とし(アーラヤ・ヴィジュニャーナ・ビージャカ)、虚妄分別(アブゥータ・パリカルパ)の中に包摂せられている、もろもろの表象(ヴィジュニャープティ)〔が有する相〕である。
それら〔の表象〕はまた如何なるものか。
(1)身体(デーハ)と、(2)身体の所有者(デーヒン)と、(3)経験者(ボォークトリ)との〔三つの〕表象と、(4)それらによって経験せられる対象(ウパボォーグヤ)としての表象と、(5)それを経験する主体(ウパボォーガ)としての表象と、(6)〔過去・現在・未来の三世の〕時間(アドゥヴァン)の表象と、(7)数(サムクゥヤー)の表象と、(8)場所(デーシャ)の表象と、(9)〔見たり聞いたりの〕言語的表示(ヴヤヴァハーラ)の表象と、(10)自と他を区別する(スヴァパラヴィシェーシャ)表象と、(11)善なる生の境位( 善趣) や悪しき生の境位( 悪趣) の中に死んだり生まれたりすること(スガティドゥルガティ・チュトユパパッティ)の表象とである。
〔これらの表象の諸識が、他に依るとの相を有するといわれる理由は、アーラヤ識における三種の熏習(一・五八)を種子とし、それに依って起こっているからである。というのは〕その中で(1)身体、(2)身体の所有者、(3)経験者の〔三つの〕表象と、また(4)それらによって経験せられる対象としての表象と、(5)それを経験する主体としての表象と、さらに(6)時間と(7)数と(8)場所と(9)言語的表示とのもろもろの表象は、すべてことばによる熏習の種子(アビィラーパ・ヴァーサナー・ビージャ)から生じているからである。また(10) 自他を区別する表象は、我見の熏習の種子(アートマドリシュティ・ヴァーサナー・ビージャ)から生じ、(11)善なる境位や悪しき境位に死んだり生まれたりすることの表象は、存在の支分の熏習の種子(バァヴァーンガ・ヴァーサナー・ビージャ)から生じているからである。
これらの諸表象によって、〔欲界・色界・無色界の〕全世界(ダァートゥ)のあらゆるあり方や、〔よき境位、悪しき境位の〕あらゆる生の境位(ガティ)や、〔胎生・卵生などの〕あらゆる生まれ方(ヨーニ)などの、すべての汚染(サムクレーシャ)を内に包摂する虚妄なる分別に、他に依るとの相のあることが、顕わにせられたのである。すなわちこれらの表象は〔本質的に〕虚妄分別に包摂せられているが、そこには〔世界は〕ただ表象のみである(ヴィジュニャプティ・マートラター)ということがあり、また実在ではなく迷乱にすぎないものが対象として現れることへの依り所となっている(アサドブラーンティヤルタ・プラティブァーサー・シュラヤ)〔との意味がある〕こと、これが他に依ることの相である。」
(現存するチベット訳・漢訳の基本的な十一種のテキストをもとにした、長尾による総合的和訳/長尾雅人訳註『摂大乗論和訳と注解』上・講談社二七五頁~二七七頁*( )内のサンスクリットは、長尾氏による還元サンスクリット語注を、カタカナ表記に改めたうえ三木が本文に挿入した。)
「「他に依ること」すなわち依他起を十一種の表象として説明する。」「虚妄の分別として性格づけられるあらゆる表象の識が、アーラヤ識を基盤として起こっていること、これが依他起の相であって、したがって依他起とは存在の根底に横たわるあり方であり、またこれによって世界はただ表象のみ(唯識)ということも導き出される。」「十一種という数には必ずしも決定的な意味はなく、種々の表象をここに数えあげた」(長尾『摂大乗論和訳と注解』上・二七七~二七八頁)
「ここに、「表象」ヴィジュニャプティの語が初めて用いられている。この語は前章のアーラヤ識以下の八識の「識」ヴィジュニャーナと通じて用いられるが、「唯識」という時は一般に専らヴィジュニャプティ・マートラという。」(同上二七八頁)
「ヴィジュニャーナが「知ること」「認識すること」という知の作用を主として示すのに対し、ヴィジュニャプティは「知らしめる」という使役相から来た語で、主観の作用よりも、表現され知られている内容を具体的に示す場合が多い。」
「Ub(無性釈)がこれら十一種の表象を説明しながら、すべて「顕現」アヴァバァーサの語をもって理解せよといっているのは、右の意味を裏づけるものである。それは、「白いものを見る」という認識の作用を、「物が白く見えている」「白い色が現れている」と言い換えるのと同様な関係にある。」(同上)
「「依他起」とは、文字通りに他に依ってあること、他を因として起こることであって、古くからの縁起の観念にすこぶる近い。(……)第三段は恐らくその説明に当たるのであろう。すなわち十一種の表象を三種に分かち、一・五八に述べられた三種の熏習によって生ずるという。(1)(9)はことばの熏習、(10) は我見の熏習、(11)は存在の支分の熏習を種子として生ずる。三種の熏習を因として生ずる故に依他起であるという。)(二七九頁)
「あらゆる存在は表象として捉えられ、従って唯識である。「唯識」とは依他起の相に他ならない。身体も身体としての表象であり、時間も場所も、時間の表象、場所の表象である。」(長尾『摂大乗論和訳と注解』上・二七九頁)
「瑜伽行派の人々にあっては、その身体や時間や、その他外界に存在すると考えられる物が、形而上学的に実在するか否かが問題なのではなく、瑜伽行の実践の上において、表象として捉えられているそれらの物を如何に処理すべきかということだけが問題である。その表象としての識がここには十一種としてあげられるが、その中、(1)(5)が根幹的なものであり、(6)以下はそれの特殊な場合であるといわれる。」
なぜ「唯識無境」だけでは駄目なのかということを繰り返しいえば、他の存在を見失うからである。他の存在を見失えば、自利利他をもとめる菩薩も存在の根拠を失い、還相回向ということも成り立たない。仏も衆生もない。仏道修行の果てに、一切無差別の真如にたった独りでたどりつくということの他は、そこから結果しない。「実際(真如)」を証して、「自性唯心に沈む」のである。結局、七地沈空の難と同じことになる。せっかく阿頼耶識によって衆生存在の根拠を見出しながら、「唯識無境」説によってふたたび衆生存在を見失ってしまう。何らかの意味における外境を認めなければ、衆生存在は見出せないのである。
「これら諸表象のBh(世親釈)の説明は、漢三訳とT(チベット訳)とよく合致して次の如くである。
(1)身体の表象眼等の五界(=眼等の五根、五つの感覚器官)をいう。
(2)身体の所有者の表象汚染の意(マナス)
(3)経験者の表象意界(=意根)
(4)経験せられる対象の表象色・形などの外の六界(=六根の対象)
(5)経験する主体の表象眼識(=眼による認識)などの六識界
(……)十八界とは、アビダルマ哲学において認識の構造を基礎にして、世界全体の構成要素として考えられたもので、(1)(3)を合した眼等の六内界と、(4)の色等の六外界と、(5)の眼識等の六識界とを合わせて十八界である。右の説明で特色的なのは、この学派として、(2)身体の所有者を汚染のマナス、すなわち我執(有身見)とすることでろう。その他の表象については、(6)時間は、過去・現在・未来の三世に流転輪廻すること、(7)数は一、二等と数えること、(8)場所は、その中に衆生がいる器としての外界(器世間)、(9)は見・聞・覚・知のことである。」(長尾『摂大乗論和訳と注解』上・二七九~二八〇頁)
「これら十一種の表象は、真諦訳『顕識論』において、九種の顕識と二種の分別識として承けつがれている(宇井伯寿『印度哲学研究第六』参照)。」(長尾『摂大乗論和訳と注解』上・二八一頁〔注2〕)
「またPBh(真諦の訳による世親釈)には、十一種は略して四種であるといいMV (中辺分別論),1.3〔虚妄分別の自相〕の内容を引用している。」
虚妄分別
「虚妄なる分別」は、『中辺(分別論)』一・一の主題として著名なように、「識」一般と同義語であり、二・一六に「分別構想」(パリカルパ)と訳したものと等しく、ただそれに「虚妄」の文字が関せられている。虚妄ではあるが、次節に述べられる「妄想された」の意味ではなく、ここにいうように「他に依る」性格のものとして扱われる。何故に「虚妄」の文字が冠せられたかは、識一般、分別一般が「完全に成就された」との対比において常に非真実・虚妄だからであろう。特にまた識が分別判断した瞬間、その判断された対象が不真なるものに堕するという傾向、すなわち「妄想されたもの」への傾斜が「他に依る」そのものの中に包蔵されていることによるのであろう。すなわち「虚妄分別」の語は、「他に依る」から「妄想された」への関連を、一語の中に表明しているといいうるであろう。」(長尾『摂大乗論和訳と注解』上・二八〇頁〔注1〕)
第二<遍計所執>
『解深密経』の文
「云何が諸法の遍計所執なる。いわく一切法の名(みょう)(言に依る)仮安立の自性と差別となり、乃至、言説を随起せしむるが為(に爾か)なり。」(玄奘訳『解深密経』〔一切法相品第四〕『国訳一切経』経集部三・深浦正文訳四五頁)
「グナーカラよ、そのうち、諸法の所分別(遍計所執相)とはなにか。〔それは、〕いかほどのものに対してであれ、言語的営為(言説)が設定されるために、諸法の自性もしくは、差別によって名称や符牒として規定されたもの(名仮安立)である。」(『解深密経教』のチベット訳本をテキストとした、袴谷による「グナーカラの章」の和訳。玄弉訳『解深密経』の「一切法相品第四」に対応する。/袴谷憲昭『唯識の解釈学』春秋社八一頁)
「所分別の特質もしくは自性とは、本段によれば、いかなる対象に対してであれ、我々が、それらに向かって、言語的習慣に従って言語的営為を働かせ、それらの固有性や特殊性を把握する際に、それらを名称や符牒によって規定することであると見做されていることになる。」(袴谷憲昭『唯識の解釈学』春秋社八三頁)
「記号」であり「言葉」である。言葉を用いて考え、文字や記号を用いて表現する、そのこと自体が遍計所執だというのである。
「なんらかの形象(アーカーラ)によって依他起の自性に対して分別がなされている(パリカルピタ)ならば、その〔形象〕がそ〔の依他起の自性〕における所分別の自性である。」(『摂大乗論』の相当部分(遍計所執を説く部分)に関する、チベットの学僧チャンキャの記述/袴谷『唯識の解釈学』春秋社八三頁による。)
言語的営為
「対応するサンスクリットはアヌヴヤヴァハーラ(三木注・アルファベット表記をカタカナに改めた)。見られ、聞かれ、考えられ、識別されるあり方に応じて発せられる日常の言語的営為を指す。」(袴谷『唯識の解釈学』語釈/春秋社八一頁)
「また分別構想するものがあり、分別構想されるものがあるとき、そこに妄想されたという実存がある。その場合、分別構想するものとは如何なるものか、分別構想されるものとは何なのか、そして妄想されたことの実存とは何か。
(1)意識こそは、分別構想するものである。その性質が分別を具えたものだからである。それは〔意識〕自らのことばによる熏習を種子として生じ、またあらゆる表象のことばによる熏習を種子として生じている。それ故にそれは無限に種々の形相のある分別として起こるのであって、〔遍く〕あらゆるものについて構想し分別するという点からして、〔遍き〕分別構想と称せられる。
(2)他に依るという実存が、分別構想されるもの〔妄想の対象となるもの〕である。
(3)他に依るという実存が、ある形相をもって分別構想されるとき、それ〔ある形相〕こそは、ここに妄想された実存である。ある形相をもって、といったのは、「〔あるあり方の〕そのように」という意味である。
また分別は、どのように分別構想するのか。すなわち何を対象とし、如何なる相を把握し、何に執着し、如何にことばとして発言し、如何に世間的な言動をなし、また非存在を存在とするような誤認が如何様になされるのか。概念(名)を対象として分別するのであり、それ〔概念〕を他に依るという実存の上に相として把握し、それ〔相〕を見て執着し、種々に考察を廻らしてことばとして発言し、見たり〔聞いたり〕などの四種の言語動作う通じて世間的な言動をなし、また、ものが存在しないのに、〔非存在を〕存在と誤認する。これらによって分別構想するのである。」
(長尾雅人訳註『摂大乗論和訳と注解』上・講談社三二八頁~三二九頁)
第三<アーラヤ識>
『解深密教』の文
種子識の相を明かす
「広慧、まさに知るべし。六趣の生死において、彼彼の有情、彼彼の有情衆の中に堕し、或いは、卵生に在り、或いは胎生に在り、或いは湿生に在り、或いは化生に在って身分生起す。中において最初に一切種子の心識成熟し、展転和合し、増長広大して、二の執受に依る。一には有色の諸根および(その)所依の執受にして、二には相・名・分別の言説戯論の習気の執受なり。有色界の中には(この)二の執受を具するも、無色界の中には(この)二種(の執受)を具せず。」(〔心意識相品第三〕『国訳一切経』経集部三・深浦正文訳四〇頁。*旧漢字、助詞の表記、語尾等の一部を現代的に改めた。)
衆名の差別を明かす
「広慧、この識をまた阿陀那識とも名づく。何をもっての故に、この識は身において随遂し、(諸根およびその所依ならびに諸法の習気を)執受するに由るが故なり。また阿頼耶識とも名づく。何をもっての故に、この識は身において摂受(しょうじゅ)し、蔵陰(ぞうおん)して、安危の義を同じくするに由るが故なり。 また名づけて心ともなす。何をもっての故に、この識は色・声・香・味・触等(の習気)の積集し、滋長するに由るが故なり。」
「広慧、この識をまた阿陀那識とも名づく。何をもっての故に、この識は身において随遂し、(諸根およびその所依ならびに諸法の習気を)執受するに由るが故なり。また阿頼耶識とも名づく。何をもっての故に、この識は身において摂受(しょうじゅ)し、蔵陰(ぞうおん)して、安危の義を同じくするに由るが故なり。 また名づけて心ともなす。何をもっての故に、この識は色・声・香・味・触等(の習気)の積集し、滋長するに由るが故なり。」
法説
「広慧、阿陀那識を依止となし、建立となるが故に六識身転(起)す。(六識身とは)いわく眼識と耳識と耳鼻舌身意の(五)識となり。この中識有り、眼(根)および色(境)を縁となして眼識を生じ、(その)眼識と倶に随行し、同時同境に分別(明了)の意識有って転(起)す。(眼識におけると同じくまた)識有り、耳・鼻・舌・身(の各根)および声・香・味・触(の各境)を縁となして、耳・鼻・舌・身の(各)識を生じ、(その)耳・鼻・舌・身の(各)識と倶に随行し、同時同境に分別(明了)の意識有って転(起)す。広慧、もしその時において一の眼識転(起)せば、即ちこの時において唯一の分別(明了)の意識有って、眼識と所行(の境)を同じくして転(起)す。もしその時において二三四五の諸識身転(起)せば、即ちこの時において唯一の分別(明了)の意識有って、(二三四)五の(諸)識身と所行(の境)を同じくして転(起)す。」
喩説
「広慧、譬えば大瀑水の流れの、もし一浪の生縁現前すること有れば、唯一浪のみ転(起)し、もしくは二(浪)もしくは多浪の生縁現前せば、(もしくは二浪もしくは)多浪の転(起)すること有り、しかもこの瀑水の自類は恒に流れて、断無く、尽無きが如く、また善浄の鏡面のもし一影の生縁現前すること有れば、唯一影のみ(生)起し、もしくは二(影)もしくは多影の生縁現前せば、(もしくは二影もしくは)多影の(生)起すること有り、(しかも)この鏡転変して影となるにあらず、また受用滅尽することの得べきこと無きが如く」
合説
「かくの如く広慧、瀑流に似たる阿陀那識を依止となし、建立と為るに由るが故に、もしその時において一の眼識の生縁現前すること有れば、即ちこの時において一の眼識転(起)し、もしその時において乃至五識身の生縁現前すること有れば、即ちこの時において五識身転(起)す。」
「かくの如く広慧、瀑流に似たる阿陀那識を依止となし、建立と為るに由るが故に、もしその時において一の眼識の生縁現前すること有れば、即ちこの時において一の眼識転(起)し、もしその時において乃至五識身の生縁現前すること有れば、即ちこの時において五識身転(起)す。」
重説
「その時世尊は、重ねてこの義を宣べんと欲して、しかも頌を説いていわく、
「阿陀那識は甚深にして(微)細なり、一切の種子は瀑(水)流の如し。
吾、凡(夫)と愚(夫)においては開演せず。彼分別し執(著)して我と為さんことを恐るればなり」と。」
『弁中辺論』の文
真実ということ
「すでにその障を弁じたれば当に真実を説くべし。頌に曰く、
(四一)真実は唯十あるのみ。いわく根本と相と無顛倒と因果と及び鹿鹿鹿(鹿三つの合成語・そ?)細との真実と、
(四二)極成と浄所行と摂受とならびに差別と十善巧との真実となり。皆我見を除かむが為なり。
根本真実
「此の中にいかんが根本真実なる。いわく、三自性なり。一には遍計所執自性、二には依他起自性、三には円成実自性なり。此れに依りて余の真実を建立するが故なり。此の所説の三自性の中に於いて何れの義を真実と為すと許すや。頌に曰く、
(四三)三自性に於いて唯一のみは常に非有なり、一は有にして而も真ならず、一は有と無とにして真実なりと許す。
論に曰く、即ち是の如き三の自性の中に於いて遍計所執相は常に非有なり、唯常に非有のみなるも、此の性の中に於いては許して真実と為す。顛倒無きが故なり。依他起相は有にして而も真ならず、唯有なるのみにして真に非ざるも、依他起に於いては許して真実と為す、乱性知有るが故なり。円成実相もまた有にして非有なり。唯有なるのみにして非有なるも、此の性の中に於いては許して真実と為す、空性有るが故なり。」
巻の中〔弁真実品第三〕(玄奘訳『国訳』瑜伽部十二・宇井伯寿和訳一四二頁)
「根本」とは依止ということであろう。存在を存在として成り立たせる場である。
真実とは、事実を事実として知ること、であろうか。智慧のこと。智慧によって如実に知られた存在の事実、それを真実といっているのだろうか。