高明寺レポート
長尾雅人「中観と唯識」抜粋
長尾雅人『中観と唯識』 抜粋
「縁起は原始仏教の主題であり、その根本的な立場である。龍樹の教学たる中観哲学はまた、常に原始仏教の釈尊の教説に復帰することであったから、中観にとっても縁起ということはその根本命題でなければならぬ。」(長尾雅人『中観と唯識』6頁)
「かくして歴史的には、原始仏教の縁起思想が中観にも脈脈と続いたのである。否、固定化せられて単なる形骸に堕し去った小乗的な法論の縁起に対して、法性の縁起が復活せられたのである。小乗的な縁起は、因・縁・果等の法を説くゆえに、一の縁起論ではあるが、今はそれに対して空性の縁起論が復活せられた。前者においては法はなお空性的ではない、龍樹の縁起論は同じく縁起といっても空性の上に立つことに於いて彼と同じではない。然しながら真に縁起とは、実は必ず無自性的なることを要するのであって、有自性的なものに於いては、縁起とはいい得ない。」(長尾雅人『中観と唯識』7頁)
「中観哲学においては縁起は一方において「此縁性(イダム・プラティヤヤター)の名を以て呼ばれ、他方縁起せる法を「施設有」(因施設ウパーダーヤ・プラジュニャ~プティ)の語を以て表す。この「施設」はさらに瑜伽行唯識学派において「識」(ヴィジュニャ~プティ)として考えられた。法の縁起的なあり方施設的にして実有ならざるものそれが、識としての表現・識の構成によってのみ三界が具体的にあるという思想に繋がっている。」(長尾雅人『中観と唯識』7頁)
「施設有」で、仮有という意味がはっきりする。「因施設」も、施設された「因」であろう。
「空の哲学としては、その場合遮遣・否定が最も著しい特色となる。龍樹の『中論』における論理は、かかる否定の論理として究極的徹底的である。その否定せられるものは我であり、述語的には自性であり、それが空とせられるのである。」(長尾雅人『中観と唯識』7頁)
「『中論』は「百不千非」に徹するものという。(……)然し単なる否定であるならば、それは虚無論・非存在論(ナースティ・ヴァーダ)にほかならない。空性ということは、たびたび誤解せられた如きvoidnessではない。それ故に近時の学者は、中観哲学のあり方が虚無ではなく縁起の解明にあることを、力をこめて主張しようとする。」(長尾雅人『中観と唯識』七頁)
「こうはいっても、縁起が必ず何らか有的なものの系列であることに変わりはない。従って作られたもの(有為)として、同時に自ら作り行くものとして、表現的施設的に有的である。それ故にまた縁起は輪廻的ということができる。懸命にも漢訳者は、輪廻(サンサーラ)の語を、また「生死」の訳語を以てしている。縁起は有為の因縁であるからして、何らか作られ作るという生死の動きに外ならない。」(長尾雅人『中観と唯識』8頁)
「縁起は挙体そのままが輪廻であるということはできない。縁起には輪廻的な面とその反面それを超えた縁起有とがある。かかる区別がなくては、実は仏というものも考えられない。仏にも生死があり、菩薩もまた敢えて涅槃を捨てて生死に住するのである。正覚の生死界に於ける働き、いわゆる随縁真如的なるもの、即ち仏の縁起・性起ということがなくてはならてい。かかる縁起は我々の普通の生死、自我や自性の居住する生死とは決して等しいものではない。」(長尾雅人『中観と唯識』8頁)
「自性・自我が無となって、ただ存在するものは自ならぬ「他」によってのみある如き関係が縁起である。然しその「他」も自に対する他であるならば、やはり一の自性に外ならない。他力という如きも、かかる意味において絶対他でなければならぬ。自と他との相対するものが消え尽くして、ただ不可思議なる力のみが存する処、それは「私」ならぬものとしての他力である。」(長尾雅人『中観と唯識』9頁)
「自性としてのこの私に対する他者が他力ならば、これもまた常に思議分別する私の一分としての他に外ならない。(……)絶対他者はかかる自と他を超えたものである」(長尾雅人『中観と唯識』9頁)
「かくの如くに自性が否定せられ、しかもかくの如くに思議が分別の成り立っていることが、縁起と称せられる。自性の生も死も、自性の作も果も否定せられつくして、なお歴々として因より果へという行作の流れがある。そこに業をなしては苦果を受くる輪廻の世界も成り立ち、無一物無所得底に解脱涅槃も成り立つ。常に念々に非存在へ逸脱し、念々に生ずると共に死する如き私のあり方に於いては、生死は私の生死でなく、何物の生死でもない。然しかく生死の自性・主体性が否定せられる所に、却って真に生滅去来があるのである。」(長尾雅人『中観と唯識』9頁)
「『六十頌如理論』の帰敬偈に、
〔諸法の〕生と懐とを、この道理によりて断ち、縁起を説き給える、かの牟尼に稽首礼す。
と述べられていてるものも、全く右の趣旨と異ならざるものと考えられる。
『中論』第二十四品の第十八偈、いわゆる三諦偈に於いては、この事情は更に明瞭である。
衆因縁生法 我説即是空
亦為是仮名 亦是中道義
(……)因果が自性として空なるが故に、真に因より果へといい得る。かくて無自性的に縁起なると共に空であり、縁起即空であり、縁起即空性である。然しながらそれ故に続いて第三句に、
かの(空性)が因施設である。
という。」
罹什訳では「仮名」が、ここでは「因施設」といわれている。サンスクリット(ウパーダーヤ・プラジュニャ~プティ)によって訳している。
「因施設(ウパーダーヤ・プラジュニャ~プティ)とは、「依取して施設する」こと、何らか空性なる処に於いて、空性なることの故に、存在を取り存在を施設することである。「依取する」とは、空性の上に、また空性の故に、材料となる有(それはもと第一次的な素朴の縁起に於いても有であったもの)を取り用いて、これによって施設のあることである。あたかも空中で水泳は成り立たない、必ず水中に飛び込んでのみ泳ぐ事実があるが如くである。空性もまた必ず具体的には空性即縁起として、現実的な縁起の世界に降りて来なくてはならぬ。このことがなくては、空性とすらいい得ぬであろう。因施設とはかくの如く、縁起のあり方をより近づいて名づけた述語であり、それと同時に多分に還相的な意味の濃厚な語であると思われる。」(長尾雅人『中観と唯識』一四頁)
「真如とはもと如性(タタハ ター)であって、如なることが真実・真理なるが故に、後世には真如(ブフ ータタタハ ター)との呼び名が普遍的となった(殊に漢土において)。(……)それは決して普通考えられるように「真実の体」なるものが、主観的にも客観的にも実体論的に存在する如きものではない。かかるじっ炊いてきなるものには「如」という意味はない。何が「如」かといえば、流転輪廻がそのままにということである。」
(長尾雅人『中観と唯識』一六頁)
「即ち縁起的有がいったん否定せられて、空性的無的なることに於いて、却って再び縁起的有的であるのほかはない。かかる第二次的の縁起有が即ち如性といわれねばならぬ。」(長尾雅人『中観と唯識』一六頁)
「自ら否定をはらみつつも、なお有の面に直接滞るかぎりに於いて、縁起は空的でない。」(長尾雅人『中観と唯識』一六頁)
「空ならざる限り縁起有は如性ではない」(長尾雅人『中観と唯識』一七頁) 依他起か。
「如性としてそのまま真実なるものは、自己の内にはらむ空無と即一的に空性即縁起なる所に成り立つ。」(長尾雅人『中観と唯識』一七頁) 円成実