唯識ノート(36)

 
唯識ノート(36)        三木 悟
 
 <心的エネルギーの深層構造>11.

 エネルギー場としての身体

 メルロー・ポンティは「身体」を両義性でとらえました。その場合、ポンティのいう両義性とは、「主体であると同時に客体でもある」ということでした。
 しかし唯識に照らせば、身体は「客体でもある」のではなくて、主観的、また共同主観的に「客体」としても顕れてしまう、つまり認識されてしまう(分別されてしまう)何かです。
 身体は世界経験の基盤ですが、身体が「客体」として顕れるということは、相分になるということです。心的エネルギーは、意識するという能動的作用(見分・ノエシス)と、意識された意識内容(相分・ノエマ)との二つに分かれる性質をもっています。
 唯識がアーラヤ識と名づける心的エネルギーは、一方では生きていることを感覚し意識する動的作用ですが、もう一方では私が身体という姿をもって世界の内に存在する光景として現れます。生きている経験は、姿と光景とをもっています。

 「所縁を本論(『三十頌』)では、処と執受との二類に分けている。これが阿頼耶識の相分、阿頼耶識独自の相分である。」(安田理深選集第二巻『唯識三十頌聴記』(一)一七三頁)

 『成論』ではアーラヤ識の相分として、執受と処とをあげています。
 相分とは意識内容のことですが、その意識内容が身体としてまた世界として顕れることが、生きていることの光景でしょう。世界の内に身体をもって存在する私の経験です。
 人間的現実存在の経験内容は、一方では「私の内面」として現れ、一方では「私の外界」として現れます。またある場合には、私と外界とが関わり合う、内外の相関関係としても現れます。世界経験という場合には、私と外界との関わりのなかで営まれる、生の経験ということでしょう。
 身体は、確かにポンティのいうように「主体であると同時に客体でもある」かのように顕れるのですが、厳密に言えばそれは、意識作用の基盤である身体が、意識作用の能動的主体として見なされると同時に、意識作用の対象としても把握されるからでしょう。その場合、外界に属する事物と同列の事物つまり肉体として対象化された時に身体は「客体」と見なされるわけです。しかし身体はただ「肉体」として対象化されるわけではなくて、意識の能動的作用そのものもまた対象化されることができます。
 意識が見分と相分の二つに分かれるという認識は、意識作用そのものが対象化され分析されなければ成り立ちません。このように意識作用そのものを対象として把握するはたらきを、自証分といいます。意識が意識自身を意識する、それが自証分です。
 この自証分を自覚するはたらきつまり、意識は意識自身を意識することができるのだという自覚は、証自証分といわれています。これは意識が意識の本質を自覚したということです。
 見・相の二分に分かれた意識内容を実体視して、世界経験の主体としての「我」の実在と、外界として存在する「世界」の客観的実在を認めること、それは虚妄の分別であり、遍計所執といわれます。自らの指向作用(見分)を分析して、それははたらきであって実体ではないと見抜くのも自証分ですが、相分が「外界」としてまた「客体」として顕れるのは、意識が意識内容を自己の外に対象化する(疎外する)からだという気づきもまた、自証分のはたらきでしょう。意識が意識自身を意識して、意識の構造を分析したのです。見・相の二分は実体ではなく、どこまでも意識の変化相です。
 自証分は意識の自己分析、証自証分は意識の自己覚知ではないかと思います。

「『成唯識論』の記述に従うと「所縁(対象)、行相(作用)、事」という。(……)所縁と行相の概念、それにもう一つ事ということが連関して考えられている。事は体をあらわす。自体相、ものそのもの、作用するものそのものということを事とあらわす。意識作用そのもの、そこで大体いうと、二分説では見分ということが、意識作用である。意識においては意識するということが意識自体、意識があって意識するのでない。作用が実在である。だから二分説では、もうすでに見分が識自体である。」(安田理深選集第二巻『唯識三十頌聴記』(一)一六一頁~一六二頁)

 「事体という。所縁と行相は、更に事体の概念と結びついて、意識作用の構造を語る。大乗は所縁は相分、行相は見分、それ以外に事体を考える。」(前掲書一六二頁)

 「今、三分説を立てるのは、体は自証である。自証分が自体である。自らを証する。今、いったように、事というのは自体をあらわす。自体分ともいう。自体分というのは、見分と相分との所依になっている体、所依の自体である。見分と相分との所依の自体は、自証分である。自証は自分自らを知る。識は識自身を知る。こういうところに自証がある。」(前掲書一六三頁)

 「こういうふうに、二分の外に、改めて自証分を立てるのであるが、それが三分説である。二分では意識は指向作用であるが、三分によって、意識は自覚作用であることを明らかにしたのであろう。」(前掲書一六三頁)

 「これに対して護法は四分をいうが、四分というのは三分説を完成するというような意義であろう。(……)四分を立てるのは護法である。彼は証自証分を立てる。自証ということを更に知るものがある。これは三分の道理によって四分を立てざるをえない。(……)自証分は見分(*意識作用・三木注)を知るということ、作用自身を知るということであるが、自証分というものもまた識の分であって、知られるものでなければならぬ。分という字がつけてある。自覚といっても自覚作用であって、実体ではない。自体は実体ではない。自覚するものがあって自覚するのではない。自証が自証としてとどまると実体になる。自証ということも更に自証されねばならぬ。自覚するものがあって自覚するというような、自覚に裏(分からぬもの)があってはならぬ。」(前掲書一六七頁)

 意識する「意識」そのものをあらわすのが事体。その事体を、意識が意識を意識するという作用でおさえたのが自証分・証自証分です。しかしそこに、その意識作用はどこから生じたのかという問題があります。それに答えているのが、執受(身体)だと思います。執受は意識作用の基盤です。それを「生きていることの基盤」といっても、「世界経験の基盤」といってもいいのでしょう。

 唯識は身体を、内と外という人間的経験の二側面が現れる場所として見出します。
 外なる現れは、まずもって「処」です。処は環境、世界。器世間と有情世間の二種の世間であらわされます。器世間は自然的環境で、山や川や海や空として現れます。有情世間は心有る者の世界で、生きとし生けるものの関わり合いにおいて現れる世界です。
 内なる現れは、私の内面です。

 『三十頌』では、
  不可知の執受と処と了となり  
 と言っている、了がそれにあたります。
 了は意識作用。所縁と行相とでいえば行相です。行相は見分(意識する作用)、所縁は相分(意識された内容)ですが、私たちの日常的生活においては、見たり・聞いたり・考えたりするのが私(内)であり、見られたり・聞かれたり・考えられたりしたものが事物や出来事(外)です。
 私の内面は私の精神生活ですが、そこには私がこれまでの人生で味わってきたさまざまな経験が蔵され、姿形をもたない心的内容や姿形のあるイメージ・夢・記憶などが満ちています。現在私が何かを経験しているとき、その経験しているというはたらきそのものも、私・私のものとして我・我所として内面化されています。

 外なる現れは、時には自分自身の肉体として、身体の外観としても現れます。ちょうどメルロー・ポンティが身体を「主体であると同時に客体でもある」ものとして捉えたように、身体は、外界の諸事物と同列の「客体」としても顕れることができます。私が身体という姿をもって世界の内に存在する光景の中において、身体は、私の側に属すると同時に外なる世界の側にも属しています。
 そういう意味で、身体は内と外との境界領域であり、内外の干渉地帯ということができるのでしょう。内界と外界とは、身体において重なり合い、干渉しあっています。   
 身体が重要なのは、生を限定しているからです。
 生きることを成り立たせていると同時に、生きることを限定している。
 身体は、意識作用の制約です。意識は何の制約もなしに自由に意識するのではなくて、そのようにしか意識できないという類や個としての限定性を持っています。身体は意識を限定し、制約しています。より精確にいえば、身体は運動機能や感覚機能・生理機能の条件でもあることによって、私たちの生きる経験そのものを、制約し限定しているのです。
 
 
             2001.3.23