続・唯識ノ-ト(1)

 
    続・唯識ノート(一)            三木 悟
 
 <心的エネルギーの深層構造>12.

 長い休憩をしました。毎号書くのは無理と思いますが、また『雲集』の場をいただきます。
 先日(2004年2月)、小川一乗師を講師とする秋安居(東京教区主催)に参加し、本山夏安居(2003年度)の講題でもあった
「『顕浄土真仏土文類』解釈」のご講義を聴聞しました。
 宗学としての真宗学を、現在の仏教学の成果を踏まえつつ、大乗仏教の仏道体系において見直さんとする試みであり、
貴重なご講義であったと思います。
その際、小川師の解釈が拠っているのは中観思想であり、テキストの文字面を読んだだけでは決して知りえぬ
生きた中観の了解にふれることができ、かたじけない御恩をちょうだいしました。
 ただし、また課題もいただきました。親鸞聖人の教えは、やはり中観のみでは尽くせぬものがあります。
インド大乗仏教のいま一つの源流である唯識の気づきが、どうしても必要と思うのです。
 中観と唯識とがたがいを深く照らし合わせ、さらにそこに、仏性思想の励ましが勇猛心となってはたらくところにおいて、
初めて、大乗菩薩道の極致としての浄土の真宗が、われらにおける願生の道として明らかになるのではないでしょうか。
 課題とはそれです。
 凡夫に帰れという師の声をたえず憶念しつつ、中観と唯識とを、基礎をおろそかにすることなく、ていねいに学んでいきたいと思います。
その思いを新たにしましたので、断続的であっても、ノートを再開していきたいと思います。

  *以上は、『雲集』誌上での連載を再開するつもりで書いた2004年の文章ですが、再開しないままさらに長い年月がたってしまいました。
 当時の草稿を元にしながら、改めて再開いたします。(2010年4月)
 
 中観における「種子(ビージャ)」の否定

 一つの重大な問題は、中観には、倶生起(生まれながら)の煩悩を見据える視座がないということです。
そうすると、「さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
という宗祖のご述懐は生まれ得ません。
煩悩具足の身の自覚がわれらに生ぜず、罪悪深重の仏語がわれらに届かないのです。
 倶性起の否定を種子の否定と言いかえてもいいのですが、中観において、それはつぎのように表現されます。

 「たとえば、ものが生じるということは、あたかも種子から芽が生じるように、まず生じるための原因である種子と、
生じた結果としての芽が概念的に区別され、生じるとは、
自体として存在性を有する能生の原因から、同じく自体として存在性を有する所生の結果が生じることとみなされる
。これが世間一般の常識的見方である。
しかし、自体として個別に存在している因と果との間において、生じることが成立するということは、
すべてのことがらの相互依存性を前提とする縁起の立場からは、否定されなければならない。
因と果は相互に依存しあって初めて成立するからである。」
   (工藤成樹『中観と唯識空、一乗・三乗、二諦等をめぐって』
            講座大乗仏教8唯識思想/春秋社・213頁)

 そうであるから、中観においていわゆる八不の教説が語られる。
 いわく、生、滅、断、常、一、異、来、去という八つのことがらの否定として、
不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来、不去が説かれるのである。
 自体として個別に存在している因も果もないのだから、個別の何かが生じたということもないし、個別の何かが滅したということもない。
断たれるものもなく、常なるものもない。一なるものも、異なるものも、個別にあるのではなく、
来ることがあるときには同時に行くということがあり、去ることには同時に去られることがある。
すべては関係性の中で語られていることだから、関係性を離れて実体的にあるわけではないのだ、という。
            *(中論で確かめること)

 われらにおける実体化の執(「有執見」と呼ぼう)を破すために語られる言葉であるとき、
この教説は実語として、また仏語として生きたはたらきをします。
が、われらの修道において、無始時来の煩悩の有や、また聞熏習(聞法)の因によって
「うなづき」という果が生じる事実をも否定する執に陥るとき、
この教説は逆にわれらの求道を障げる戯論となるのではないか、というのが問いです。
 この、無始時来の煩悩の有や、聞熏習の因によって「うなづき」という果が生じる事実を根拠づける教説が、
唯識にいう種子(しゅうじ)です。
中観が積極的にはこれらの有と事実とを否定してはいないとしても、
すくなくとも、それらを根拠づける教説を中観において見出すことはできないのです。
 
 小川師のテキスト(二〇〇三年度夏安居本講「『顕浄土真仏土文類』解釈」東本願寺・以下同様に表記)から、その部分をとりだしてみましょう。(省略)
 
 ウパニシャッドにつぎのような譬え話があります。(別途掲載)
 
 ウパニシャッドは仏教からすれば外道の教えということになりますが、聞くべき教えを聞くときには、説く者の素性を問わない。
それが華厳に示された大乗菩薩道の精神(善財童子の求道遍歴)です。

 種子は譬えですが、唯識においてはこの「種子(ビージャ)」が、我らの経験可能を表現する重要な譬えとして、
また名仮施設の名言(説明のために仮にたてた言語言語とはたいていそのようなものである)として用いられています。

                 (2004年~2010年4月4日) 
 

 中観における「種子(ビージャ)」の否定    〔抜粋資料〕

 「したがって縁起の立場に立つかぎり、生じるということは、概念化され思惟化された姿においては成立しえないという意味で、生は不生となる。
概念的に生じたといっても、そこに実体のあるものが生じたのではないから、滅することもありえない。
したがって、縁起においては滅は不滅である。」
   (工藤成樹『中観と唯識空、一乗・三乗、二諦等をめぐって』
            講座大乗仏教8唯識思想/春秋社・213頁)

 「縁起における八つのことがらの否定は、さらに戯論寂滅ともいわれる。
戯論とはことばのことであるが、それはわれわれにとっての具体的な世界(世俗)がことばとことばのもつ意味内容によって、
言いかえれば言語と思惟とによって概念的に表わしだされ、
表わしだされたものが同時に、それぞれの不変の本体をもった対象として固定される。
この戯論をもって表わしだされる世界が、縁起であるがゆえに戯論として成立しえなくなることを戯論寂滅といい、
この戯論寂滅の境地が空性にほかならない。」
   (工藤成樹『中観と唯識空、一乗・三乗、二諦等をめぐって』
            講座大乗仏教8唯識思想/春秋社・213頁)
 
八不の教説

「ナーガールジュナ(サンスクリットのローマ字表記・竜樹)は、
その著『根本中論』(サンスクリットのローマ字表記/ムーラ・マドゥヤマカ・カーリカー*読みは三木なので確認のこと)において、
仏陀の根本教理である縁起を、生、滅、断、常、一、異、来、去という八つのことがらの否定によって表した。」
    (工藤成樹『中観と唯識空、一乗・三乗、二諦等をめぐって』
            講座大乗仏教8唯識思想/春秋社・213頁)

不生
不滅
不断
不常
不一
不異
不来
不去