高明寺レポート
続・唯識ノ-ト(2)
続・唯識ノート(二)
<存在の条件としての身体>
『唯識三十頌』の第三頌前半、
不可知の執受と処と了となり (『唯識三十頌』)
ここでいわれる執受を「身体」として、これまでいささか尋ねてきました。
厳密にいうと執受は、種子および有根身のふたつで説明されています。
種子とはすでに蓄積された経験と、これから経験を起こす際の可能性(および限定性)であり、有根身のほうは身体です。
ですから執受はたんに身体というよりも、「身」と言ったほうがいいと思います。
身は、身体として顕れていますが、そこには過去からの経験の蓄積と、これからどういう経験が可能かという、
経験の可能性と限定性とを宿して(貯蔵して)います。
厳密にいうと執受は、種子および有根身のふたつで説明されています。
種子とはすでに蓄積された経験と、これから経験を起こす際の可能性(および限定性)であり、有根身のほうは身体です。
ですから執受はたんに身体というよりも、「身」と言ったほうがいいと思います。
身は、身体として顕れていますが、そこには過去からの経験の蓄積と、これからどういう経験が可能かという、
経験の可能性と限定性とを宿して(貯蔵して)います。
身は、「存在の条件」といってよいと思います。
「自己は経験の蓄積を意味する。つまりアーラヤ識として人間存在を解明する瑜伽の教学は、人間存在を経験の蓄積として考える。」
(安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房 一一三頁)
(安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房 一一三頁)
「経験は人間に於いてあるものではなく、かえって人間の構造を解明している。経験の蓄積以外に人間はない。
(……)私が私になった歴史以外に私はない。「私は何であるか」ということは、私が私になった歴史の全体以外にないのである。
(……)無始以来の過去の経験の蓄積である。それは一点一画も逃していない。
我々が水を飲んでうまいとか、花が美しいとかいうのは、生まれてきてからの経験の結果ではない。
我々の感じる美しさとか、うまさをとりあげても、五十年や百年の経験の結果ではないことがわかる。そこには人類の現実の歴史がある。」
(安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房 一一四~一一五頁)
(……)私が私になった歴史以外に私はない。「私は何であるか」ということは、私が私になった歴史の全体以外にないのである。
(……)無始以来の過去の経験の蓄積である。それは一点一画も逃していない。
我々が水を飲んでうまいとか、花が美しいとかいうのは、生まれてきてからの経験の結果ではない。
我々の感じる美しさとか、うまさをとりあげても、五十年や百年の経験の結果ではないことがわかる。そこには人類の現実の歴史がある。」
(安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房 一一四~一一五頁)
経験の蓄積をあらわすのは、アーラヤの三義のうち、所蔵です。(過去的限定)
執蔵は、アーラヤが我として愛着されていること。(我執)
能蔵は、経験の生成をあらわしています。(未来的可能性)
「ただやってきた経験だけが自己ではない。経験を超えて経験を生み出す自己、それを能蔵という。」
(安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房 一一六頁)
(安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房 一一六頁)
端的に言えば、アーラヤ識は、経験を蓄積し、また生成するはたらきです。と同時に、それは我として愛着されている。
愛着処であり、また経験と形体の生成場でもあります。
形体生成場としてのアーラヤ識は、身体の構造、骨や臓器や神経組織、皮膚や髪の毛などを作ります。
愛着処であり、また経験と形体の生成場でもあります。
形体生成場としてのアーラヤ識は、身体の構造、骨や臓器や神経組織、皮膚や髪の毛などを作ります。
しかしまた、過去が未来を限定してきます。私がどのような経験をなしうるかは、人間である私の存在条件を超えることはできません。人類の類としての知覚や認識の条件を超えて、私は私の生きる世界を知覚し認識することはできません。
人間の経験は、私が身体という姿をもって世界の内に存在する光景として顕れますが、身体より厳密には執受(身)は、
私の内なる経験と外なる経験とを媒介する役目を果たしています。内と外といっても、それは現れ(現象)であって、実在ではありません。
人間的実存において内外として出現する経験的影像です。
変容するエネルギーがある条件のもとにおいてそのように現れている姿縁によって生じ縁によって変容する、縁起における現象です。
内なる現れは、「私の内面」として現象します。
外なる現れは、「環境・世界」として現象します。
外なる現れは、「環境・世界」として現象します。
「環境・世界」を、『三十頌』では処と呼んでいます。
(2004年~2010年4月4日)