高明寺レポート
続・唯識ノ-ト(3)
続・唯識ノート(三)
<世界経験の形式カント>
カントは『純粋理性批判』の中で、人間が世界をする際の根本的な形式をとりあげています。
カントによればそれは、われわれ人間に生まれながらにそなわっている(先験的な)感性の形式です。
カントはそれを時間と空間であるとしました。
重要な点は、時間と空間というこの形式は、われわれ人間という類において妥当する形式だということです。
ということは、類の異なる生物にとってもまた、この時間と空間が存在するのかどうかは自明ではないということです。
もしかしたら、ちがった感性の形式をもつ生物がいるのかもしれません。
われわれが地球と呼んでいるこの時空間をはなれれば、
時間も空間ももたない世界が、あるいは現在のわれわれ(人類)が感覚する時空とは
ちがった時空を感覚する生命が存在するかも知れません。
もっと言えば、「地球」という名付けによって表されるようなこの世界像そのものが、
現在のわれわれの意識の限定性において映じている世界像ですから、
こういう名付けがもはや意味を持たないようなレベルで、譬喩的にいえば現在のわれわれの世界のすぐ裏側に、
現在のわれわれが感覚する時空とはちがった時空をもつ世界が存在するのかも知れません。
われわれの世界は「時間」と「空間」とで成り立っている!
そう言われてみれば、それはそうだと認めざるをえません。
そしてこの時間と空間こそが、われわれのあらゆる経験を成り立たせている基礎的な感覚なのだと指摘されてみれば、
なるほどそうに違いないと頷かざるをえません。
ただし、それはわれわれの世界経験のなかでも「世界」に関する認識においてであって、
感情の生みだす経験においては、またちがった豊饒を考慮しなければならないはずですが。
内的時間意識。
ともあれ、われわれが人類として共同的に認知しうるような、この時間と空間とをもった世界は、
人類の類としての意識形式による世界像なのだというカントの気づきは、人類の思想史における一つの金字塔ではないかと思います。
それは、人間の意識を離れても「世界」が客観的に実在するという、われわれの固定観念を根底から問いただしているからです。
いいかえれば、世界は存在の意識形式に応じて変容するのだということを、基礎づけ、示唆しているからです。
いいかえれば、世界は存在の意識形式に応じて変容するのだということを、基礎づけ、示唆しているからです。
アインシュタインの相対性理論は、時間や空間が、観察者の位置や関係によって変容することを指摘しましたが、
その場合、観察者の意識の形式は不動のものとして保たれています。
人類の類的「時空」意識の基礎的な形式そのものが、そこで問われているわけではありません。
ただ、意識のあり方によって時空が変化することを指摘したという意味では、
「世界」の相対性を開示しようとする唯識の眼差しからも、一つの仕事をしてくれているのだと言えます。
その場合、観察者の意識の形式は不動のものとして保たれています。
人類の類的「時空」意識の基礎的な形式そのものが、そこで問われているわけではありません。
ただ、意識のあり方によって時空が変化することを指摘したという意味では、
「世界」の相対性を開示しようとする唯識の眼差しからも、一つの仕事をしてくれているのだと言えます。
(2004年~2010年4月4日)