高明寺レポート
続・唯識ノ-ト(4)
続・唯識ノート(四)
「神様」と「ねんね」埴谷雄高の『死霊』
ここでちょっと遊んでみたいと思います。というのは、埴谷雄高という作家の名前が私の頭の中でちらちらしているからです。
埴谷雄高は小説という形で存在の問いを問いつづけた稀有の作家ですが、
その埴谷が反共法かなにか(法律の名前は失念しました)で収監された牢獄のなかで読みふけったのがカントでした。
埴谷はカントの衝撃ということを言い、転向以後の自身の思索に決定的な影響をあたえたのが、カントであったと告白しています。
代表作『死霊』に語られる数々のエピソードの背後にある思索と「カントの衝撃」の秘密について、
いつかは迫ってみたいものだと思っていた私は、どうやら少しだけ、その扉の隙間をのぞけたような気がしているのです。
で、ちょっと遊んでみたいと思うわけです。
埴谷雄高は自身の文学を「不可能性へむかう文学」と呼んでいます。
可能性へ向かうのではなく、決して可能でない、不可能へ向かって、
たとえ護摩かしてでも、もんどり打ってでも身をすべりこませてみたいのだ、と言うのです。
こういう意思の実行はほとんど妄想でしかありえないので「妄想文学」とも自称しているのですが、
いったいこの人は何を言おうとしているのだろう?
長い間謎のまま、それでも何か気になるので「括弧にいれて」きたのですが、
少なくともその不可能の一つは、人類の類的・基礎的意識形式を破り出ることだったにちがいないと、今は思い当たります。
人間が人間であるかぎり、人類の類的・基礎的意識形式にもとづいて思索しているのですから、
この形式が破られることは有り得ない、不可能です。
もしそのようなことを考えるなら、それは妄想でしかありえない。
『死霊』の登場人物はごく限られていますが、その一人一人が、ある象徴的存在として設定されているようです。
その中で、今わたしがとりあげようと思うのは、「神様」と「ねんね」という、二人の少女です。
この二人は、『死霊』第一章の冒頭に、××瘋癲病院の入院患者として登場します。
どうぞ、三輪君。御覧の通りの始末ですが……まあ、見物でもしていて下さい。
……友達の方は間もなく着く筈です。
そう述べた若い医師の後ろには、大机に寄り沿って二人の姉妹らしい少女が立っていた。
年長の少女は、治療中に入ってきた三輪與志の姿を、正面からたじろぎもせず仔細に眺め廻した。
躯をそらし小さな顎をつき出したその少女の容貌は驚くほど美しかったが、
敏捷に動く眼付や悄々とがった口付には、子供らしい稚気がまだ失せぬ一種の不遜さが窺われた。
他の一人は、窓から橋廊を覗いた少女で、優れた顔立ちをしていながら、
しかも一目で痴呆症とわかる鈍い瞳を青白い頬の上にぼんやりと浮かべていた。
(埴谷雄高全集3『死霊』45頁)
……友達の方は間もなく着く筈です。
そう述べた若い医師の後ろには、大机に寄り沿って二人の姉妹らしい少女が立っていた。
年長の少女は、治療中に入ってきた三輪與志の姿を、正面からたじろぎもせず仔細に眺め廻した。
躯をそらし小さな顎をつき出したその少女の容貌は驚くほど美しかったが、
敏捷に動く眼付や悄々とがった口付には、子供らしい稚気がまだ失せぬ一種の不遜さが窺われた。
他の一人は、窓から橋廊を覗いた少女で、優れた顔立ちをしていながら、
しかも一目で痴呆症とわかる鈍い瞳を青白い頬の上にぼんやりと浮かべていた。
(埴谷雄高全集3『死霊』45頁)
大机の上には、積木細工に似た、切り離された厚紙の断片が積み上げられていました。
鈍い瞳孔をぼんやり見開いた少女は、それまで三輪與志が気付かなかった片手の鋏を持ち上げて、
一枚の厚紙を力を込めた響きとともに、切り離した。
既に或る形に切り抜かれているその厚紙を三輪與志が注視すると、それは永い首筋と四本の足を備えた獣の形馬のようで、
少女はその胴体の部分から二つに切断したのであった。
切り離された断片は、傍らの少女の手で、忽ち積み上げられた他の断片のなかへ混ぜこまれてしまった。
姉らしいその少女は、狡そうな素早い眼付を三輪與志へちらと投げかけながら、混ぜられた紙片の堆積を妹の前へ押しやった。
羸弱そうな、青白い顔をした妹は、当惑したように暫くその雑多な堆積を眺めていたが、やがて、おずおずと一枚の厚紙を抜き出した。
それは二本の足を備えた形のようで、しかも、先刻切断した馬の形とはやや色彩を異にした厚紙であった。
厚紙の種類が一様でなく、相互に違った色彩をもっていることは、その少女に一つの目印となっているらしかった。
一枚の厚紙を力を込めた響きとともに、切り離した。
既に或る形に切り抜かれているその厚紙を三輪與志が注視すると、それは永い首筋と四本の足を備えた獣の形馬のようで、
少女はその胴体の部分から二つに切断したのであった。
切り離された断片は、傍らの少女の手で、忽ち積み上げられた他の断片のなかへ混ぜこまれてしまった。
姉らしいその少女は、狡そうな素早い眼付を三輪與志へちらと投げかけながら、混ぜられた紙片の堆積を妹の前へ押しやった。
羸弱そうな、青白い顔をした妹は、当惑したように暫くその雑多な堆積を眺めていたが、やがて、おずおずと一枚の厚紙を抜き出した。
それは二本の足を備えた形のようで、しかも、先刻切断した馬の形とはやや色彩を異にした厚紙であった。
厚紙の種類が一様でなく、相互に違った色彩をもっていることは、その少女に一つの目印となっているらしかった。
背を屈めた少女は二本の足を備えた形を大机の上に置くと、其処に一つの形を求めるように、ちょっと斜めに歪めてみた。
すると、その形はなにか新しい獣の形を示すように思われた。
おお、三輪。
他に異なった思惟形式がある筈だとは誰でも感ずるであろう。何処に?
私は、その頭蓋を打ちわっている狂人を見ているかのような表象をつねにもつ。
他に異なった思惟形式がある筈だとは誰でも感ずるであろう。何処に?
私は、その頭蓋を打ちわっている狂人を見ているかのような表象をつねにもつ。
と、僕への手紙に君は書いたことがある。
(埴谷雄高全集3『死霊』35頁)
(2004年)(再録・2010年4月4日)