第四章 なぜ「仏教は裁かない」と思うのか?

 
第四章 なぜ「仏教は裁かない」と思うのか?
 
「裁く」とは?

 「裁き」あるいは「裁く」ということばを、辞書で引いてみます。
 『広辞苑』〔第二版増補版〕を見ると、「裁き」は「捌き」の項に、同意字として出ています。

 「さばき〔捌〕(1)*まるつきすうじ  (「裁」と書く)(イ)裁判。(ロ)宗教で、神の審判。 (2)処置すること。 (イ)商品を売却すること。 (ロ)連歌俳諧の座で、宗匠が指揮して、その進行をうまく扱うこと。  
 さばきて〔捌手〕(1)理非の判決・裁断をする人。 (2)心のさばけた人。」
 などとありました。また「裁く」については、
 「さばく〔捌く〕(1)手で物が乱れないように解きわかつ。 (2)錯綜した物事をきちんと処理する。管理する。 (3)物事をときあかす。 (4)(「裁く」と書く)理非を裁断する。裁判する。」
 などと出ています。

 白川静さんの『字統』をひらくと、
 「〔説文〕八上に、「衣を制するなり」とあり、製の字義にあたる。初四下に「裁衣の始」とあり、裁にもはじめて布帛を裁つ意があって、そのことを裁察・裁制・裁成という。これを他に及ぼして裁判・裁決・裁断といい、その慎重な態度を裁慎という。」

 角川字源辞典〔昭和四七年初版〕では、
 「〔裁〕サイ・ザイ・たつ・さばく (意味)〔布をたって衣を作る〕(1)たつ。布地をたつ。衣服を仕立てるためにたつ(裁縫・断裁) (2)きりもりする。はかって処理する(裁量・総裁) (3)さばく。善悪を判断してきめる(裁判・裁決) (4)型(体裁) (5)「裁縫」の略(和裁・洋裁) (6)「裁判所」の略(家裁・最高裁)」

 これらから、「裁」はもともと「衣服を仕立てるために布地をたつ」ところから生まれた文字であり、意味としては「捌く」とどうよう「錯綜した物事をきちんと処理する。物事をときあかす。理非・善悪を判断してきめる」などということが分かります。

 たとえば原始・初期仏教の頃から大事な教えとして説かれている「八正道」は、まさに私たちに「正しい」道を示して、その道を歩めとすすめてくださる教えです。「正しい」道と「そうでない」道を明白にときあかして歩め。それは「錯綜した物事をきちんと処理する。管理する」ことでもあるでしょうし、「理非の判決・裁断をする」ことでもあるでしょう。 

 「罰」を与えることも裁くことですが、それだけではないのです。理非・善悪をはっきりと判断すること、それも「裁く」ことですし、「罰」を与えるのとは反対に「赦す」ということ、それもまた「裁く」ことです。

 このように、「裁く」ということばには広い意味があります。しかし「八正道」までふくめて考えてしまうと、それは仏教の教え全体を考えるのと同じほど広くなってしまいますから、ここでは「罰を与えること」と「赦しを与えること」というテーマに範囲をしぼって、考えていくことにしましょう。
 
「悪」と「罪」

 「悪」のうちで特に重大なものを「罪」と呼ぶのだそうです。「罪」の原義は、魚をとらえる竹のアミであったといいます。ですから、「罪」という言葉はもともと「刑罰」とかかわりをもっています。諸橋轍次『大漢和辞典』によれば、「罪」の意として、

(イ)とが。法に触れ禁を犯して誅罰を蒙るあやまち。
(ロ)とがめ。刑罰。誅責。
(ハ)わざわい。
などがあり、(五)として「対者から怨まれる仕うち」などもあげられています。(注)
(注)中村元「悪」/仏教思想研究会編『仏教思想2 悪』平楽寺書店〔一九七六年〕所収 一七~一八頁

 すでに見たように、現代の仏教教団においても、原始仏教教団においても、それなりの懲戒規定があり、「罰と赦し」を伴う戒律の規定がありました。したがって「仏教は裁かない」という考えは、どうやら本当ではなさそうです。ではなぜ、決して少なくないお坊さんたちが「仏教は裁かない」と考えているのでしょう。考えちがいではあるのですが、そういう考えちがいを生み出す理由がないわけではありません。そのことをこれから確かめていこうと思うのです

だから仏教は「裁かない」
 だから仏教は「裁かない」のだ、と考える、いくつの理由があるように思います。それらをあげていきましょう。
 
1.われ世俗に関せず、よって「仏教は裁かない」
 
2.すべては「空」である、よって「仏教は裁かない」
 
3.すべては肯定されている、よって「仏教は裁かない」
 
4.すべては赦されている、よって「仏教は裁かない」
 
5.怨んではならない、よって「仏教は裁かない」
 
6.善も悪もほんとうは分からない、よって「仏教は裁かない」
 
7.みんな仏さま、よって「仏教は裁かない」
 
8.みんな悪人、よって「仏教は裁かない」