2.すべては「空」である、よって「仏教は裁かない」

 
2.すべては「空」である、よって「仏教は裁かない」
 
 「原始仏教は無我を説くが、果たして無我の立場で道徳が成立するかという問題」

 「道徳を考える場合には、たしかに行為の主体を無視することはできない。この点について、原始仏教は三種の自我が考えられていた」と、平川氏はいわれます。
  (平川彭『原始仏教の倫理』/壬生台舜(みぶ・たいしゅん)編『仏教の倫理思想とその展開』大蔵出版〔昭和五〇年・一九七五年〕所収 一六頁)

 その三種とは、

 第一に「無我として否定されるべき自我」。これは、自我が固定したものではないことを教えるためのもので、いわば「本当ではない自我」。

 第二は「仮に建てられた自我」で、これによって「人格」とか「主体」「認識主観」などが成り立つ。仏教的にいえばあくまでも「仮」であって実体ではないが、これによって道徳や倫理の主体もまた成り立つとする。

 第三は、「凡夫に執着された自我」で、第一と同じく、否定されるべき「本当ではない自我」だが、この自我の幻によって迷いや苦しみが生まれるだ、ということを教えるために語られるもの。
 
 要するに、倫理の主体となりうる自我を、仏教は説くのであり、それでもその自我は「仮」のもの(本当は「無我」なのだ)と言うわけです。

 「われわれが生きているということは、絶えず変わってゆくことを意味するからである。自己の中心である人格や主体は絶えず変化し、成長していくものである。これは、悪をなすことによって悪人となり、善をなすことによって善人となるような、そういう主体である。」
  (平川彭『原始仏教の倫理』/壬生台舜(みぶ・たいしゅん)編『仏教の倫理思想とその展開』大蔵出版〔昭和五〇年・一九七五年〕所収 一七頁)

 「われわれにとって大切なのは、この仮我としての自己である。(……この自己は)周囲から切り話された自我ではなく、周囲とつながっており、周囲の協力の上に成立する自我であるから、全体とつながった自己である。(……)この仮我の世界、つねに全体に立場をおく自己において、真の倫理の世界が実現されるのである。」
  (平川彭『原始仏教の倫理』/壬生台舜(みぶ・たいしゅん)編『仏教の倫理思想とその展開』大蔵出版〔昭和五〇年・一九七五年〕所収 一九頁)

 「後代の仏教の中で、真向から輪廻を否定している宗派は何といっても禅宗であろう。 禅宗は般若の智慧をもって迷見を打破するから、業報輪廻の説などはたちどころに截断される。」
 (石上玄一郎『輪廻と転生』人文書院〔一九七七年〕二一〇頁)

 たとえば日本曹洞宗の祖、道元禅師の『正法眼蔵弁道話』にはこういうことばが出てきます。

 「かの外道の見は、わが身内に一つの霊知あり、かの知、縁あるところに、よく好悪をわきまへ、是非をまきまへ、痛痒を知り苦楽を知る。みなかの霊知の力なり、しかるにかの霊性はこの身の滅するときも、もぬけてかしこに生まる。ゆゑにここに滅すると見ゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり、かの外道の見かくの如し、しかあるを、この見をならうて仏教とせん。瓦礫をにぎりて金宝と思はんよりも、なほおろかなり、痴迷のはづべき、たとふるものなし。
 しるべし仏法には身心一如にして、性相不二なりと談ずる。(中略)生死はまさに涅槃なりと覚すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。(中略)しるべし仏法に心性大総和の法門といふは一大法界をこめて性相をわかず生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで心性にあらざるなし、このもろもろの法門みな平等一味なり。あへて異違なしと談ずる、これ即ち仏法の心性をしれる様子なり(後略)」
 (石上玄一郎『輪廻と転生』人文書院〔一九七七年〕二一一~二一二頁)
 
『心地観経』の説

 「源信は『心地観経』の説を依用して、「もろもろの罪は性空しくして、あること無しと観ずるは、即ちこれ真実の念仏三昧なるをや」と述べている(注 )。しかし、罪そのものを、性空しくして、あることなし」とする空観の立場は、源信が最優位においた無相業の念仏と同様、日本における浄土思想の受容史において、必ずしも支配的な影響力をもたなかった。」
      (田村圓澄『日本仏教思想研究』平楽寺書店〔一九五九年〕一〇六頁)
 
*注 『往生要集』大文第五「念助方法」
 
 禅宗のお坊さんにとって、こうした考えは自明の真理でしょうが、しかしこれが「世俗諦」をまったく否定し、「真諦」のみを肯定するという態度になると、間違った主張を生むことになります。いわゆる「悟り澄ました」態度です。
 仏教の歴史では「悪取空」とよばれる主張、またその態度です。
 
 菩薩の死

 七地沈空の難

 「菩薩が十地(五十二位の第五)の第七遠行地において無相観に入る時、求むべき菩提もなく教化すべき衆生もなく、全く無相空寂の理に沈んで更に菩薩の行たる六度(施・戒・忍・進・定・慧)を修するの勇気失せたるをいう。」
  (『模範仏教辞典』大文館書店)

 「『十地経』を案ずるに、(中略)菩薩七地の中にして寂滅を得れば、上(かみ)に諸仏の求むべきを見ず、衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加観を得ずば、すなわち滅土して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須(すべか)らく畢竟平等と言うべし。」
 (親鸞『教行信証』〔証の巻・還相回向・論註の文〕/『真宗聖典』東本願寺版 二八六頁)
 
 無我の真理にたてば、善も悪も空じられ、迷いも苦しみも空じられる、という。
 結局われわれの現実において、事実は無我でもなく、犯罪被害を受けて苦しんでいる人もいれば、世の不公正によって悲惨な目に遇っている人もいる。
 にもかかわらず、真理は空だという。そこには犯罪も犯罪の被害もなく、人間の傲慢による環境破戒も、地球大気の温暖化もない。あると思うのは迷いで、真実(真諦)においては空、つまり無いと悟るのが仏道である。

 こうした考えは、特に禅宗のお坊さんたちがおちいりやすいのではないでしょうか。

 安田理深先生が痛烈に批判しておられます。

 「空というものは真理だけど、真理は真理に埋没した場合は、真理は真理自身を救えないんです。」
 (安田理深述『十地経論講義第七地 巻二』〔昭和四六年・一九七一年の講義〕/十地経の会〔平成三年/一九九一年発行〕一二頁)
 
 「理談というのは中国仏教というものの悪弊なんです。これを脱却するということが大事なんです。つまり観念遊戯というものです。(……)頭の中で空理空論を遊戯しとるだけで、何も足は動いとらん。理談というものは元の木阿弥だ。こういう一つの大きな落とし穴、得意になって悟っとるようだけど、迷っとる最中だ。」
 (安田理深述『十地経論講義第七地 巻二』〔昭和四六年・一九七一年の講義〕/十地経の会〔平成三年/一九九一年発行〕一二~一三頁)

 「七地の難関は沈空、あるいは沈無という。つまりニヒリズムの世界である。無に沈む。無にとまった無。実体化された無は用らきがない。つまり有である。満足しているから手のつけようがない。自分を救おうともしない。これが真の難関というものである。八地はその空を超える。空を真に徹底する。」
 (安田理深『純粋未来真実証について』〔一九五四年の講義〕/文栄堂〔一九九四年〕三三頁)

 「凡夫の往生する世界は菩薩の往覲する世界である。このことが『大経』「下巻」の「東方偈」であらわされている。ここに「東方偈」の大切な謂れがあるわけである。この偈の中に菩薩の願を表して、「一切の法は、猶し夢(む)・幻(げん)・響(こう)のごとしと覚了すれども」(真宗聖典四八頁)とある。これ一切諸法は空にして全て因縁所生なることを覚了せる七地を表す。一切法は空なりと悟るけれども、この悟りに止まっている。次に引続き、「もろもろの妙願を満足して、必ずかくのごときの利を成ぜん」とある。これが八地である。」
 (安田理深『純粋未来真実証について』〔一九五四年の講義〕/文栄堂〔一九九四年〕三四頁)

 「更に次に、「諸法の性は、一切空無我なりと通達すれども、専ら浄仏土を求めて、必ずかくのごときの刹を成ぜん」と重ねて誓ってある。即ち、一切は空無我と悟れども、荘厳浄土の行を起こさんとある。これが八地である。」
 (安田理深『純粋未来真実証について』〔一九五四年の講義〕/文栄堂〔一九九四年〕三四頁)