高明寺レポート
3.すべては肯定されている、よって「仏教は裁かない」
3.すべては肯定されている、よって「仏教は裁かない」
この考えは、日本人の特質とも重なって、日本仏教全体の中に流れているひとつの「ふんいき」です。たとえば天台宗の「三千円融」の教えは、このように説かれます。
「吾人が現に生存しつつある此の世界は、これを本体上から(理具三千論)論究しても、またこれを現象上から(事造三千)観察しても、畢竟するところ、三千円融する一大真如界であって、吾人は無始よりこのかた、この一大真如界中に生活しつつあるのである。故に吾人が日常に行住坐臥する所には恒に法身如来の光明が輝き、常楽我浄の天楽が響き渡っているのであって、誠に娑婆即寂光浄土である。」
(福田尭穎『天台学概論』中山書房仏書林〔昭和二九年初版/平成一七年・二〇〇五年校訂〕二二七頁*旧漢字、旧カナ使いについては、適宜あらためました。)
「故に吾人が認めて生老病死の苦しみとなし、貪欲瞋恚等の悩みとなしているものは、実は随縁真如(事造三千)が千態万状の活動をなすその活動の片鱗の現れである。(……)かくの如く、三千円融の教理に依れば迷悟不二であって、別に棄つべき生死煩悩なく、生仏一如であるから別に顕わすべき仏界もない道理である。しかしながら、道理上かくの如く生死もなく煩悩もないはずなるにかかわらず、何故に吾人は、現に生死の果報を感じ、日夜に煩悩を起こし、迷い苦しんでいるのであろうか。」
(福田尭穎『天台学概論』中山書房仏書林〔昭和二九年初版/平成一七年・二〇〇五年校訂〕二二七~二二八頁)
「けだし此処にいわゆる、法の手前より論ずる場合と、人の手前より論ずる場合との、二つの別ある事を知らなければならぬ。もし法の手前において見る時は、挙げて是れ三千実相の随縁以外のものでない。吾人の三毒煩悩も実に随縁の用を出でぬ。かく法体論よりすれば迷悟ともに真如縁起の法なるが故、その間に取捨撰択の論ずべきものがないとする。かかる立場を、性徳の上からの論という。しかるに、もし人の手前、即ち吾人の現実に立脚する修門論からすれば、吾人は現に迷っている。迷えるがゆえに真と妄とを隔ててこれを而二と見ている迷を離れて、真妄不二の理を悟って本有の妙理に称(かな)わなければならぬとする。ここに翻迷開悟が必要となり、断惑證理が論ぜられる。かかる立場を修徳の上からの論という。」
(福田尭穎『天台学概論』中山書房仏書林〔昭和二九年初版/平成一七年・二〇〇五年校訂〕二二八~二二九頁)
「この世界は、三千円融する一大真如界」だと。「われわれははるかな昔から、この一大真如界中仏さまの真実の世界に生活している」んだ。だから「寝ても起きても、座っても立っても」そこにはいつも「法身如来の光明が輝き、常楽我浄の天楽が響き渡っている」それを「娑婆即寂光浄土」というわけです。
(福田尭穎『天台学概論』中山書房仏書林〔昭和二九年初版/平成一七年・二〇〇五年校訂〕二二七頁*旧漢字、旧カナ使いについては、適宜あらためました。)
わたしたちは迷っているから、そのことが分からない。だから分かるために修行する。 こういうのが天台宗の教え。
こうした教えが極端に理解されると、いわゆる「天台本覚法門」になります。
「天台本覚思想」ともいいます。「本覚法門」がすべて誤りだとは、私は思いませんが、その極端な理解は、もはや理解ではなく誤解になってしまいます。その極端な理解とは、修行しなければその「真実」は分からないということを忘れて、何もしなくても、ただそのままで「この世は真実の世界だ」といってすましてしまう理解です。
福田尭穎師のいわれる「修徳の上からの論」を忘れて、「性徳の上からの論」だけでよしとする理解です。
そうすると、現実のいかなる不正も不合理も、そのまま全肯定してしまうことになります。
「空・無我」の思想がひとつ間違えると「机上の空論」になってしまうのと同様、「円融」「本覚」の教えを誤ると、現実を忘れたおそろしき「ファンタジー」になってしまうのです。
この、すべては仏の世界だという考え方は、天台にかぎらず、華厳や、そこから展開してきた真言にも共通する考えでしょう。「凡聖不二」という表現もあります。
「われわれ真言宗の方は、凡聖不二、われわれは仏だと言いながら罪悪を造っているでしょう。大僧正だ、部長だ、何だかんだといっても、陰で悪いことをしている人もいる。それじゃ駄目なんだ。真から仏と一体になる信仰でなければ救われない。(……)「俺は本来仏なんだ。本尊我に在り、我、本尊に在り」。本当にそれで精神統一出来ますか?」
これはある真言宗のお坊さんの本に書いてあったことばです(注 )。
(注 織田弘隆『密教を生きる』密門会出版仏教〔平成七年/一九九五年〕一七六~一七七頁)
また、日本密教の重要な聖典の一つとされる『般若理趣経』(以下『理趣経』という)には、こういう言葉が出てきます。
「 清々」「 清々」「 清々」「 清々」
空海さんが、最澄さんにさえ読ませるのをためらったと伝えられるほど、読みようによっては危ないお経です。確かに、間違えば「なんでも肯定」になってしまう。仏と一体になろうとする真摯な信仰や行をはなれて、きわめて安易に「成仏」を語り「凡聖不二」を語ってしまうという問題があります。
『理趣経』にはまたこんな表現もあります。
「金剛手よ、もしこの理趣を聞きて、受持し、読誦するあらば、たとえ三界の一切有情を害すれども悪趣に堕せず。調伏をもってのゆえに、疾く無上正等菩提を證すべし。」(注 正木晃「密教の可能性(4)」/『大法輪』平成八年二月号・六九~七〇頁)
ここにある危うさは、真宗系の「悪人正機」の思想が、どんな悪を行っても救われるという意味で理解される場合の危険と似ています。「悪人正機」は、そこに「懺悔」という契機がないかぎり、容易に「造悪無碍」(どんな悪をしてもかまわないという考え)に堕ちてしまいます。
対して、ここでは「調伏」とは何かが明瞭にならないかぎり、
「自分が調伏の仏になった」つもりで大量殺人を犯してしまった、オウム真理教の過ちをくりかえしてしまうか、あるいはそれを擁護してしまうだけのことになります。
悪や犯罪を「悟り(無上正等菩提)」の名のもとに、全肯定してしまうわけです。如来は善悪を超えているかもしれないが、人間は善悪を超えられない、という事実を忘れ果ててしまう。
「一切有情を害しても悪趣に堕ちない」のは、一切有情を事実として救う力をもつ如来においてのみだという、厳粛なことわりを間違えるのです。
如来とは、地獄の底に在りつづけてそこを地獄としない、それが如来でしょう。地獄がないのではない。現実に地獄は有り、苦しみも痛みも現に存在する。ただその痛みを背負い、人間の苦しみを担いつづける誓いにおいてのみ、つまりそれが如来の誓いですが、その誓いこそが、悪趣を悪趣としないのでしょう。
同じように、まちがえば現実をただ全肯定してしまう「娑婆即寂光土」の考えは、禅宗にも(注 佐藤俊明「娑婆即寂光土」/『大法輪』平成八年二月号・一四四頁)、また日蓮宗にも流れていますから(注 石上玄一郎『輪廻と転生』人文書院〔一九七七年〕二一四頁)、この「円融」「本覚」思想のもつ弱点を、禅宗も日蓮宗も同じようにかかえているといわなければなりません。
しかし日蓮上人には『十王讃嘆抄』(一二五四年)という著作もあり、そこにはいわゆる「三途の川」のようすがくわしく解説されています(注 )(*注 岩本弘『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一八三頁)。題名からしても、「十王を讃嘆する」というのですから、日蓮上人ご自身が、「地獄の裁き」を単に否定したり、無視したりしていたわけではないのでしょう。
また『光日房御書』には「小罪なれど懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きゆ」(注 すずき・えりゅう「涙は浄く、灯は照らす」/『地上光あり』教育新潮社〔一九六七年〕所収四六頁)と、懺悔の大事さを説いておられますから、たんに「すべては肯定されている」というのが日蓮上人のお考えでないことは、明らかです。
また『光日房御書』には「小罪なれど懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きゆ」(注 すずき・えりゅう「涙は浄く、灯は照らす」/『地上光あり』教育新潮社〔一九六七年〕所収四六頁)と、懺悔の大事さを説いておられますから、たんに「すべては肯定されている」というのが日蓮上人のお考えでないことは、明らかです。
*注 正木晃「密教の可能性(4)」/『大法輪』平成八年二月号・六九~七〇頁)
*注 「日蓮は一切衆生が生死海に流転するのは無明によるものであり、その迷の衆生を化導するため、仏が世に出て法を説くのであるとして、ひとえに『法華経』を頼み「三大秘法の大御本尊」を受持し「自行化他」の信心にはげむことによってのみ、輪廻生死を出離することができると説いた。
日蓮教学によればこの娑婆世界は即ち「寂光浄土」なのであり、生死をば即涅槃とみ、即身成仏をもって建前としているから、当然、輪廻は否定される。生死輪廻は邪法に迷わされた者のおちいる悪趣だとされているのだ。
『当体義杪』には「正直に方便を捨て、但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩、業、苦の三道、法身、般若、解脱の三徳と転じて、三観、三諦、即一心に顕れ、その人の所詮の処は常寂光土なり」とある。」
(石上玄一郎『輪廻と転生』人文書院〔一九七七年〕二一四頁)
*注 「日蓮は一切衆生が生死海に流転するのは無明によるものであり、その迷の衆生を化導するため、仏が世に出て法を説くのであるとして、ひとえに『法華経』を頼み「三大秘法の大御本尊」を受持し「自行化他」の信心にはげむことによってのみ、輪廻生死を出離することができると説いた。
日蓮教学によればこの娑婆世界は即ち「寂光浄土」なのであり、生死をば即涅槃とみ、即身成仏をもって建前としているから、当然、輪廻は否定される。生死輪廻は邪法に迷わされた者のおちいる悪趣だとされているのだ。
『当体義杪』には「正直に方便を捨て、但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩、業、苦の三道、法身、般若、解脱の三徳と転じて、三観、三諦、即一心に顕れ、その人の所詮の処は常寂光土なり」とある。」
(石上玄一郎『輪廻と転生』人文書院〔一九七七年〕二一四頁)
*注 岩本弘『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一八三頁