高明寺レポート
4.すべては赦されている、よって「仏教は裁かない」
4.すべては赦されている、よって「仏教は裁かない」
この「すべては赦されている」は、「すべては肯定されている」のバリエーションともいえますが、罪の意識を媒介としているという点が特徴です。人間ははじめから「肯定されている」のではなくて、たとえば「罪悪深重」(『歎異抄)』という否定性の自覚において、把握されます。これを「そのままで救われている」という表現にしてもいいと思います。
真宗には「そのままのおたすけ」という言い方があります。江戸時代に流布された表現でしょうが、内容は真宗草創のころからの教えにもとづいています。
阿弥陀仏の無条件の「すくい」をあらわす言葉です。真宗の宗祖親鸞聖人も比叡山に学んだ方ですから、いわゆる鎌倉新仏教の他の祖師方同様、天台教学の影響を否定することはできません。たとえば『正信偈』に出てくる「生死即涅槃」や「不断煩悩得涅槃」などのことばが、天台教学を下敷にしていることは明らかです。
こうした言葉が「煩悩のままですくわれる」、「そのままで来いとのお呼び声」などという表現になってお説法の中で語られるわけですが、しかし阿弥陀仏のすくいは、本当は「無条件」なのではなく、「念仏」あるいは「真実信心」という条件が、ちゃんとあるのです。「念仏」をいただくかぎり、(そのほかのことについては)無条件にすくわれるのであり、「真実信心」が成就するかぎりにおいて、(そのほかのことについては)無条件なのです。
親鸞聖人の師匠であった法然上人もはじめのころは「至誠心・深心・回向発願心」の三心を「救い」の条件として強調しておられましたが、晩年の「一枚起請文」では、もう三心を言っておられません。「ただ念仏」だけを言われます。しかしそれでも「念仏」が条件なのであり、念仏はそこに三心、すなわち真実信心を前提としてはじめて「念仏」でありうるのです。そのことを忘れて、ただ「無条件のすくい」ということだけが独り歩きをしてしまうと、「何をしても赦される」となったり、口先だけの念仏で救われる、となったりしてしまうのです。
作家の吉田知子さんが、こんなことを書かれています。
「仏教は私にとっては神道ともキリスト教とも全然違う。宗教について無知な者が言うことであるから、まるで見当違いかもしれないが、私はこう思っている。ほかの宗教は、罰をくだしたり、祟ったりすることがある。仏教は赦す。なんでも赦す。その、なんでも際限なく赦すというのが、この上なく恐ろしく思われるのである。このごろは、本当に怖いのは仏教ではないだろうか、という気がしている。」
(吉田知子「際限なく赦す恐ろしさ」/『季刊仏教 .25「日本仏教」批判』法蔵館〔一九九三年〕四頁)
阿弥陀如来は無条件に赦してくださる、無条件に肯定してくださるから素晴らしいと言う方が、知識人のなかにも少なくないようです。阿弥陀如来は何でも赦す仏だから、決して裁くことはない、と考えるお坊さんもいます。
しかし阿弥陀仏の「赦し」は、「後世のことについては」であり「生死いずべき道」において(注 「恵信尼消息(三)」/『真宗聖典』東本願寺版 六一六頁)、であることを忘れてはいけません。確かに阿弥陀仏が裁くわけではありませんが、現世の約束事や決まりをなんでも破っていいということではないし、その規約違反に対する現世の裁きを否定するものでもありません。その点を混乱している場合があるように思います。
またその「すくい」は、慚愧、あるいは懺悔という契機をはなれてはあり得ません。念仏とは、懺悔と信順の表現ですから、「念仏一つ」ですくわれるということは、仏のみ名のもとに「懺悔と信順」が要請されているということです。
真実信心というのは仏さまのお心に順ずる。仏さまが、「それを良しとするか、それは駄目だといわれるか」その心に従うということ。それが信順。そしてそこには同時に、懺悔が要請されているのです。懺悔というのは、仏さまが「それは駄目だ」とされることは、二度としないという誓いです。「またやるかも知れない」は懺悔ではありません。心の底から「もう二度としない」と誓う、それが懺悔です。
ただし、どういうことを、仏さまは「駄目だ」とされるのか。それを知るのが智慧です。しかも信心の智慧です。信心の智慧によって、そのお心をたずねる。だから決まった解答はないのです。そのお心をたずねる者において、開かれる智慧なのです。ですから、たんに戒律を守るということではありません。場合によっては捨てるべき戒律もある。と同時に、まもるべき戒律も、世間の法律もあるのです。
それを忘れて、ただ「ゆるされている」だけになると、「わがまま、そのまま」のおたすけになってしまいます。吉田さんが感じられているように、そのままでは「どのような悪もゆるされる」という、この上なく恐ろしい思想にもなりかねないのです。
この考えは、浄土系の仏教に特徴的なのですが、浄土宗は、法然上人以後の展開の中で、戒律を重んじる(すくなくとも軽しめない)という姿勢をもつようになりました。真宗から言わせれば、それは他力念仏の純粋性をおとしめ、世俗の常識に妥協した中途半端な教えだ、ということになります。ですから、戒律をもたない(あるいは否定する)ラジカルさを保ちつづけている真宗(浄土真宗)系のお坊さんたちが、もっとも強くこの過ちを犯しやすいのです。