高明寺レポート
6.善も悪もほんとうは分からない、よって「仏教は裁かない」
6.善も悪もほんとうは分からない、よって「仏教は裁かない」
これは、天台の「性悪」論、および浄土真宗の祖、親鸞聖人のことばを記録したとされる『歎異抄』の後序に根拠をもつ考え方です。
天台では、先の「三千円融」の教えに付属して「性悪」論というものがあります。
この「性悪」論を、自分が仏になったつもりで理解すれば、「善も悪もほしいまま」という「3.すべては肯定されている」の中で述べた過ちになります。しかしここでは、仏は善悪自在だが、われわれのような凡夫には「善悪」の判断はできない、という形をとります。「人に人は裁けない」という言い方の元にある考えでしょう。人間には仏(キリスト教ならば「神」)のように、真実の「善悪」を判断することができない。だから人間が同じ人間を裁く資格はない、というのです。
『歎異抄』の後序には、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」とあります。
感銘の深いおことばですが、やはり私たちが間違って受け取りがちなものです。
このお言葉は宗教の次元のことばであって、懺悔をとおして初めて出遇う、人間存在の意味そのものが問われている世界のことばです。「絶対」の世界をたずねることばであって、現実社会の「相対」に、そのままあてはめることはできません。
「善悪」の基準は時代社会によって異なりますから、確かに絶対的な「善悪」は分からないかもしれません。しかし人は、その時代、その社会の中で生きていかなければなりませんから、その時代、その社会の中で考えられた「善悪」の規準を守らなければ、社会生活を営むことはできません。それは相対的な「善悪」ですが、たんに否定すればいいというものではなく、その「善悪」の規準に不都合や誤りがあれば、それはすこしづつ、やはり時代社会の歴史に随伴して、修正し改革していく他にありません。
たんに「善悪」は相対的であり、ほんとうには「わからない」というだけならば、それは不可知論であり、社会の無規範をもたらすだけの「もの言い」にすぎません。
見落としてならないのは、親鸞聖人はただ「善悪はわからない」と言っているのではないことです。親鸞聖人はそこで、相対的な善悪を超える「弥陀の本願」という絶対的な善を見出しておられます。
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」のことばが語られる文脈の末尾には「ただ念仏のみぞまことにておわします」のことばが続くのであり、また『歎異抄』第二章には、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」と言われています。そのように親鸞聖人においては、まず、弥陀の本願という絶対のまことが信受されているのです。
そのことを忘れると、ただ世間の善悪を否定するだけの、倫理なき無責任思想でしかなくなってしまいます。その極端な形が「造悪無碍」であり「放逸無慚」の邪義なのですが、「善も悪も分からない」が「すべては赦されている」と結びつくと、それが容易に「造悪無碍」や「放逸無慚」の主張を生み出してしまうことは、当然の理屈でしょう。
宗教は時代社会を超えた倫理や規範をもっています。それが時代社会の倫理や規範よりも劣ったものであるならば、世間に通用しなくて当然です。そうではなく、相対的な「善悪」を超えた「絶対」を探求する宗教の言説は、たとえばそれが「南無阿弥陀仏」であり「念仏一つ」であるとするならば、どこまでもその意味を明らかにし、明らかにされたその意味をもって、時代社会に公開されるべきなのです。
もし「弥陀の本願」に生きようとする者ならば、その本願に照らされつつ、われわれの社会は何を「善悪」の基準とすべきなのかを、その時代その時代において、検証していかなければなりません。そしてその主張は、やはり時代社会の中で、批判され吟味される他にありません。日本の浄土系仏教は、その点をあえて捨象して「救い」の教えを説いてきました。したがって社会倫理の形成において弱点をもっているのです。現代の浄土系仏教は、その弱点を克服する必要があると思います。