7.みんな仏さま、よって「仏教は裁かない」

 
7.みんな仏さま、よって「仏教は裁かない」
 
 『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」に根拠をもつ考え方です。
 これまでの考えとも重なっているのですが、「仏になる可能性」をいつのまにか絶対化し、美化してしまうものです。あるいは、これがいちばん多くのお坊さんたちによってあげられる理由かもしれません。

 「悉有仏性」とは「みんな仏になる可能性がある」ということで、ただ今現在「みんな仏だ」ということではありません。「仏性」をそのまま「仏であること」「仏としての本質」と解釈すべき場合もありますが(*注例えば『涅槃経』〔獅子吼品〕「一切覚者を名づけて仏性とす」/親鸞『教行信証』〔真仏土の巻〕東本願寺版 三一二頁 などの表現)、この「悉有仏性」といわれる場合の「仏性」は「仏になる可能性」であり、いわば花の種です。育てればやがて花にもなるが、育て方をまちがえれば、萎れたり腐ったりするのです。

 また、もし人間には「仏性」があるという言い方がなりたつなら、おなじように、人間には「魔性」があるという言い方もなりたちます。

 性善説と性悪説という考え方がありますが、人間は「善なる性質」も「悪なる性質」もともに持っているというのがほんとうでしょう。そして現実の人間は誰でも、ある程度は善人であり、ある程度は悪人です。ただ、そのどちらに傾くか、どちらの側に強く引かれていくかという問題意識において、仏教は修道や戒律の必要、あるいは(如来よりたまわりたる真実の)信心を説いてきたのです。

 人間がはじめから仏さまならば、修道の必要はなくなります。また人間がみな「やがて仏になる可能性」があるからといって、何をしてもゆるし、何をしても甘やかすならば、その種は腐っていきます。
 この世を「仏の世界」と考えて全肯定する思想も、人間をそのまま「仏」と考えて全肯定する思想も、人間は罪深いが「そのままで赦されている」という思想も、人間はみな「仏になる可能性」があるから何をしてもゆるしましょうという思想も、何において「赦され」、何において「仏」になるのかという契機を失えば、単なる「悪」の肯定、「魔性」の肯定にもなりかねません。
 現実社会の「法」とのかかわりでいえば、自分では仏教の慈悲の心を語っているつもりでいながら、無自覚のままに、実は「犯罪」や「不公正」の放置と擁護の思想を語っている、ということになってしまうのです。