8.みんな悪人、よって「仏教は裁かない」

 
8.みんな悪人、よって「仏教は裁かない」
 
 みんな仏さま、の裏返しですが、「みんな同じ」になってしまうので、結局だれも責任を負わずに済んでしまう。
戦後に叫ばれた「一億総懺悔」も同じです。本当にみんなが「懺悔」するならば意味のあることですが、
実際は誰も裁かれず、懺悔せず、だれも責任を負わない、という思想にしかなりませんでした。
真宗で強調される「悪人の自覚」が、本当の「懺悔」を見失って、
このような甘えと偽りの論理に転化してしまう例は、きわめて多いといわなければなりません。

 ひとつだけ例をあげておきましょう。

 「親鸞聖人を少しでも聞けば、いや自分を僅かでもふりかえったものは、
親鸞のように「罪悪深重煩悩熾盛」とまでいわなくても、
自分が善人であるなどとはとてもいえたものではないということには、かなり気がついているといえるだろう。
しかし、その私が凶悪な犯罪に出会う時、極悪非道の人を外に見るのである」
(注 玉光順正「死刑制度と私たち」/真宗ブックレット『死刑制度と私たち』東本願寺〔一九九二年〕六頁)

 だから、誰にも犯罪を裁く資格はないのだ、という理屈です。

 要するに、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」どころか、「みんなで渡って当たり前」なぜなら、
みんな悪人なんだから、ということになります。
 真宗系に特徴的な、こうした転倒した考えについては、私自身が真宗に属する僧侶ですから、
いずれ稿を改めて、詳しく考察する予定です。

 以上、多くのお坊さんが「仏教は裁かない」と考える理由と思われる、八つのパターンを検討してみました。