第四節 浄土経典にみる「罪業」と「報い」

 

第四節 浄土経典にみる「罪業」と「報い」
 

 『往生要集』を著した源信が、日本における浄土教の流布に大きな役割を果たした人であることからも分かるように、
浄土教の「救い」は、「裁き」を前提としています。
 「悪業をなせば、悪道に堕ちる」という裁きです。
 もちろんそれは、日本の浄土教にのみ特徴的なのではなくて、前の『金光明経』にも説かれていましたし、
インド由来の浄土経典の中にもまた明確に語られていることがらです。たとえば浄土三部経の一つ、
『観無量寿経』を見てみましょう。
 
〇『観無量寿経』
 
 悪業を犯した人の往生は、九品往生のうち、下品の往生として説かれます。
 「下品上生とは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作らん。方等経典を誹謗せずといへども、
かくの如き愚人、多くもろもろの悪法を造りて慚愧あることなけん。
臨終に十二部経の首題の名字を聞き、及び合掌して南無阿弥陀仏と称ふ。

  下品中生とは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒及び具足戒を毀(やぶ)り、犯さん。
かくの如き愚人、命終わらんとする時、地獄の衆火、一時に倶に至らん。     
  善知識の、大慈悲心を以て、為に阿弥陀仏の十力の威徳を説き、広くかの仏の光明の神力を説き、
また戒・定・慧・解脱・知見を讃ふるに遇わん。
この人、聞き已りて、八十億劫の生死の罪を除く。

  下品下生とは、あるいは衆生ありて、不善業を作り、五逆・十悪・もろもろの不善を具せん。
かくの如き愚人、悪業を以ての故に、正に悪道に堕すべし。
命終の時に臨みて、善知識に遇ひ、仏を念ずることあたはずといへども、ただ至心に声をして絶えざらしめ、
十念を具足して南無阿弥陀仏と称へん。
仏の名を称ふるが故に、念々の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。」
       (源信『往生要集(下)』岩波文庫・一二五~一二六頁)

 たとえ悪業を犯しても、念仏に出遇えれば往生できるとするわけですが、
もし出遇えなければ「かくの如き愚人、悪業を以ての故に、正に悪道に堕すべし」です。
 
〇『仏説無量寿経』(『大無量寿経』)
 
 『仏説無量寿経』(親鸞聖人によって『大無量寿経』と呼ばれました)では、
上輩・中輩・下輩の三種の往生を説き、源信が『往生要集』の中で、
「双観経(*『無量寿経』のこと)』の三輩の業もまたこれを出ず。」(源信『往生要集(下)』岩波文庫・一二六頁)というように、
基本的には『観無量寿経』とどうようの趣旨を説きます。
しかし『大無量寿経』の、真宗の教学で「三毒五悪段」といわれる場所では、悪業を犯すわれわれ人間の姿と、
その結果として受ける悪道の報いを、迫真の筆致でこれでもかというほどに、表現しています。
 中村元先生の梵文和訳で見てみましょう。
 「道に迷う者は多く、道を覚る者は少ない。世間はあわただしく、頼りとすべきものは何もない。
(中略)悪意のために暗く盲目となり、でたらめに事を起こすのである。
(中略)(こういう人間は)その寿命が未だ尽きない中に、たちまちに最後がやって来て、
悪道に落ち、苦しみの生を幾たびも繰り返すのだ。
悪道の中で転々として数千憶劫の時を経ても(この悪道を)出離する時期は来ない。
その苦しみは言いようがなく、まことにあわれむべきである。」
(中村元・早島鏡正・紀野一義訳註『浄土三部経(上)』岩波文庫〔一九六四年〕八五頁)        

 右は「三毒段」の文章ですが、「五悪段」になるといっそう描写が辛辣になります。
 「師はマイトレーヤに言われた「(中略)わたしは生ける者どもを教化して、五つの悪を捨てさせ、
五つの現世の罪報と五つの未来の罪報から離れさせ、彼ら意志を変えさせて、五つの善を保持し、
それによって、福徳や、完成や、長寿や、永遠の平安に到達できるようにしてやりたいのだ」と。

 「師は言われた「第一の悪とは、天人たちや人間たちから地に這う虫たちにいたるまで
皆、さまざまな悪事をなそうとしている。それには一つの例外もない。
強いものは弱いものを征服し、互いに争い、傷つけ、殺し合い、互いに相手を併呑しようとする。
善をなすことを知らず、悪逆無道であり、犯した後に罰を受け、罪に随って自然に果報に導かれる。
神々はこれを記録していて犯した者をゆるさないのだ。」

 「世の中には道徳があり、王の法律による牢獄もあるけれど、
(悪人たちはこれを)恐れず、慎まず、悪をなし、罪に陥って罰を受けるのだ。
(その時になって)罪から解放されることを求め望んでも免れることはできない。
目の前の世間においてさえ、このような有様を見るのであるから、
命を終わって後に行く世界においては、さらに深く、さらに烈しいのだ。」

 「かれらは暗黒の中に陥り、転々として生を受け、肉身を受ける。
その苦しみは、譬えて言えば王の法律によって極刑に処せられる苦痛のようである。
かくてかれらは地獄界の火に焼かれる火の途、畜生界の相食む血の途、
餓鬼界の刀に斬られる刀の途という三つの途において無量の苦しみを嘗める。」

 「今すぐにやって来ないとしても、善悪の道は必ずここに帰するのだ。
これが第一の大きな悪であり、第一の現在の罪報であり、第一の未来の罪報である。」
   (中村元・早島鏡正・紀野一義訳註『浄土三部経(上)』岩波文庫〔一九六四年〕八九~九〇頁)

 このように第一の「大きな悪とその罪報」が語られた後、ほぼ同じような構成で
第二・第三・第四・第五までの「大きな悪とその罪報」が語られます。
第一から第五までの「悪」の内容は、それぞれ殺生・欺き・愛欲と盗み・悪口・怠惰と粗暴と飲酒および五逆などですが、
第五の「大きな悪とその罪報」には次のような表現も出てきます。

 「後になって後悔したとて間に合いはしないのだ。
地獄界・餓鬼界・畜生界・人間界・天人界の五つの世界は天地の間において明かである。
(中略)善悪の果報として災禍や幸福をそれぞれにうける。本人が自らこれをうけるのであり、誰も代わる者はない。
算術のように自然に、したことに応じて報いが来るのだ。罪はその人の命を追いかけ、罰は免れようがない。
善人は善を行って、幸福から幸福へ、明るさから明るさへと移って行く。
悪人は悪を行って、苦しみから苦しみへ、暗黒から暗黒へと移っていく。」

 そして「五悪」を説きおわり、最後に念をおすように、『大無量寿経』は次のように説いています。

 「天の裁きの網が天地の間に張りめぐらされ、自然に罪が数えあげられ糺されるようになっているのと、
王の法律による刑罰が犯罪者を洩らさず罰することとが上下で相応しているのであるから、
(悪をなしたものは)ひとりよるべもなく、恐れ戦きながらその裁きを受けるようになるであろう。
古から今にいたるまでこの通りであって、まことに痛ましく、まことに傷ましいことである。」(九九~一〇〇頁)
 
〇 「蜘蛛の糸」
 
 芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」に描かれるように、自分だけがたすかろうとした罪人(カンダタ)は、
結局、自業自得によって浄土への「救い」の糸を切ってしまいます。
 この話は直接仏典にもとづいたものではなく、素材はポール・ケーラスという人が書いた
『カルマ』という物語集の中にある『ザ・スパイダー・ウェブ(翻訳すると「蜘蛛の糸」になる)』というお話だそうです。
一八九四年に、アメリカのシカゴで発刊された『オープン・コート』という雑誌に載ったもので、
この『カルマ』という物語集が、一八九五年(明治二八年)に
日本でも翻訳されて単行本として出版され、再販が出るほどに売れました。
芥川はこの日本版『カルマ』を手に入れて素材にした、というのが今日の定説だそうです。
(吉田精一『蜘蛛の糸・杜子春』新潮文庫〔昭和四三年/一九六八年〕解説一三九頁)

 この芥川の小説『蜘蛛の糸』では、極楽が出てきますが、
そこにいらっしゃるのは阿弥陀様ではなくて、お釈迦様になっています。
そういう意味では、仏教の伝統にない特殊な形です。
芥川が意図的にそうしたのかどうかは分かりませんが、これはよくできたお話です。
単なる浄土教の伝統だけでなく、お釈迦さまから始まる通仏教の考えをよく表している。
つまり、ともすれば浄土の仏教が忘れがちな、あるいは大乗仏教が見落としがちな倫理の問題を、
正しくすくいあげている、と私は思います。

 慈悲ということが仏教の大事な教えであることは間違いありません。
しかし仏教の慈悲は、浄土の慈悲をもふくめて、たんに「何でもたすけてあげる」というわけではありません。
そのことを、この小説はよく表現してくれているのです。

 このように、浄土教をふくめて仏教は、「悪業をなせば、悪道に堕ちる」という自然の「裁き」。
「自然」ということは逃がれようがないということ。業道自然といいます。自業自得ともいいます。
それを前提として説かれている。いい替えれば「迷いの業」です。
その迷いの業からいかにして解放されるかを求めている。
浄土の仏教ではいかに「救われるか」が問題になるわけです。

 これまで見てきたように、仏教は決して「裁き」を説かないのではなく、むしろそれを前提として、
原始仏教から大乗仏教にいたるまでの教説を展開してきました。
 ただその場合、裁くのは人間でも神でもなく、
(たとえ閻魔王の裁きが語られるにしても原則としては)自然の理(業道自然)であり、
因果応報の摂理(自業自得)なのだと仏教は考えます。
たとえ現世の刑罰を脱がれることはできても、「因果の摂理」を脱がれることはできない。
そういう認識を前提として、仏教の倫理が、また「救い」が、説かれているわけです。

 しかし裁くものが「神」であろうと「因果の道理」であろうと、そこに貫かれているのは、
罪を犯せばかならずその報いをうけるという「応報の思想」です。
応報の思想とは、罪を犯したならば、「その事実を偽ることは決してできない」という思想でもあり、
また「その事実を偽ることを決して許してはならない」という思想でもあります。
仏教の中には、その思想が厳然として流れていることを、見落としてはいけないと思います。