曽我量深師の往生観

 

 
 
 
 
曽我量深師の往生観
 
 
 
 仏様の一切の功徳をいただく
  「そんなら、本願を信じてどのような幸せを得るのであるかというと、「能く速やか
に功徳の大宝海を満足せしめたもう」と、今の御開山様の御真影の御讃文にある。仏の本
願力をおもんみるに、「観ずるに」というのはおもんみるにと、仏の本願力を思いみる。
「仏の本願力をおもんみるに遇うて空しく過ぐる者なし。能く速やかに功徳の大宝海を満
足せしめたもう」。その功徳の大宝海というのは南無阿弥陀仏であります。南無阿弥陀仏
の中に摂っている所の一切の功徳を、仏様の一切のお徳を南無阿弥陀仏に摂めて、仏様の
持っておいでになる所の一切の功徳を私共にゆずり与えて下さるものであると、こう教え
られてある訳であります。」『未来について』文明堂一一五頁(昭和六一年九月発行)
 
 
 
   *昭和四五年十一月九日、十日の二日間にわたり、武生市浄秀寺における越前鸞音
会主催による講話録。日本中で曽我師の最後の法話になったようだという。
 
 
 
 現生正定聚・不退転
  「つまり、現生には正定聚・不退転の位に住せしめて下さる。正定聚・不退転の位と
申しまするものは、、即ち弥勒菩薩と同じ位である。こう「正像末和讃』にお示しになっ
ているのであります。「五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひと
は このたびさとりをひらくべし」「念仏往生の願により 等正覚にいたるひと すなわ
ち弥勒におなじくて 大般涅槃をさとるべし」そういうように教えて下さる。
                                (同上)
 
 
 
弥勒と同じ
  「弥勒菩薩と同じ。すなわち弥勒と同じ。便同弥勒という言葉が、『異訳大無量寿経』
の中に、「便同弥勒」と書いてある。私共の読んで居ります所の『大無量寿経』には次同
弥勒と書いてある。「次いで弥勒の如し」。それを異訳の経典には「便ち弥勒に同じ」。
弥勒菩薩と申しますのは、これは仏様のすぐ次の位である。だから弥勒菩薩というのは等
正覚。菩薩の位では等正覚の位というて、いわゆる、菩薩の一番上の位である。だからもう
一歩進むというと仏様になる。だから、つまり如来と等しい。仏様と等しい。弥勒に同じく仏様に等しい。
そういう真実信心を得るというと、そういう位になる。」
                               (同上一一六頁)
 同じさとり
  「同じさとり。真実信心を得た人は弥勒菩薩と同じさとりを開くのである。
こう御開山様は御自身の体験を、それをば弥勒と同じという。そういう体験を持っておいでになるのであります。」
                       (同上一一七頁)
  「この便同弥勒ということは、「教行信證』の中にも書いてある。『御和讃』にも書いてある。
又御開山様の『御法語』、御法語というのはお手紙というようなもんでしょう。
お手紙の中にそういうことを教えて下され、書いてある訳である。
阿弥陀如来の本願を信ずるというと、そういう尊いさとりを開くことが出来る。」
                               (同上一一八頁)
 
 
 
 心境・精神世界/命終われば無上涅槃
  「そういう位になるということは、そういう心境が開けたこと。弥勒菩薩と同じ心境
が開けてくる。(中略)だから、弥勒菩薩と同じ心境というか、そういう、弥勒菩薩のよ
うな尊い精神、尊い心が開けてくる。尊い世界が精神世界が、そういうものが開けてくる。
だから、その人は命終われば無上涅槃、阿弥陀如来と同じさとりを開くことが出来るので
ある。」                           (同上一一六頁)
 
 
 
   *生きている間は弥勒と同じさとり、命終われば阿弥陀如来と同じさとり、という
ご了解がうかがわれる。(三木)
 
 
 
 生きている中には仏様の直ぐ次の位
  「だから、我われがもう生きている中に仏様になるという訳ではないけれども、仏様
の直ぐ次の位である。そうなる。聖道門の教えは、この生きている中に仏様になる。そう
いうのがまあ聖道門の人びとの志でありましょうが、それは皆そういう事を目ざしている
けれども、なかなかそれはむずかしい。自力で以てはむずかしい。ところが、如来の本願
力の御回向、如来の本願のお助けに預かりまするというと、もう誰でもが仏様の直ぐ次の
位になる。仏様の次の位になるのを仏様と等しいという。」    (同上一一九頁)
 
 
 
 人間の中の仏様
  「妙好人というのは、人間の中の一番幸福な人を妙好人と、こう言うのであります。
(中略)人間の中の蓮華である。人間であるけれども、つまり、仏様である。分陀利華と
いうのは仏様ということでしょう。人間の中の仏様である。」   (同上一二〇頁)
  「即ち、仏様と、ただ仏様という時になれば、人間を超越したと。人間を超越した位を仏というのである。
人間の中の仏様というならば、それは人間を超えた仏様よりは一段
下がった位。生きている中は人間を超えた仏様ではないけれども、人間の中の仏様である。
人間の中の仏様と人間を超えた仏様。それがまあ、人間を超えた仏様は無上涅槃のさとり。
人間中の仏様は正定聚・不退転の位、等正覚の位である。そういうように、(御開山様は
・三木注)教えて下さる訳でございます。」           (同上一二一頁)
 
 
 
往生と成仏
「この頃、私が深く考えておりまするのは「往生と成仏」ということであります。真宗の
宗学では往生即成仏と、ほとんど結論が決まっているようでございます。私はそれは結論
がすこし早まっていると思います。往生即成仏であるならば、いったい往生の意義はよく
わからぬことになります。だから往生ということをいわずに、ただ成仏だけしか考えない
ようになりはしないかと思うのであります。我等のみ仏の本願というものは、成仏の本願
ではありません。往生の本願でしょう。それをいつの間にか成仏の本願のようにとりちが
えておりはせぬか。」
                    (『往生と成仏』法蔵館 一四頁)
 
 
 
往生論註
「往生と成仏の関係は、曇鸞大師の往生論註の中に明らかになっているのでございます。
そして、その思し召しを御開山聖人は、高僧和讃曇鸞章において継承し教えてくだされて
おるわけであります。それは皆さんご承知のとおり、「安楽仏国に生ずるは、畢竟成仏の
道路にて、無上の方便なりければ、諸仏浄土をすすめけり。」」(同上)
 
 
 
無生の生
「如来の御本願には、一切衆生往生の道をお建て下さったのであって、それはつまり如来
の本願、すなわち第十八願であります。(中略)この往生というのは無生の生であると曇
鸞大師は教えて下されておるのであります。如来の本願は無生の生にして、凡夫が思うが
如き実の生というようなものと違うことであると、往生論註にあるのでございます。」
                    (『往生と成仏』法蔵館 一五頁)
 
 
 
  この無生の生は、輪廻・流転の生を超えている、ということであろう。我々がありも
しないものを考えている、あの世というようなことを考える、そのことを批判しておられ
るのではない。あの世に生まれる、というようなことと同じように考えられた生を「実の
生」といっておられるのであろうが、あの世に生まれるということは無いのではない。そ
れは凡夫の妄想であるが、己が妄想によって流転するがゆえに凡夫である。凡夫は、悟り
を得ぬ故に妄想に流転し、そしてしかも「実に生まれる」のである。浄土は、そういう
「実の生」を超えた世界、流転輪廻を解脱した世界である。そういうことを「無生の生」
という言葉で曇鸞大師が教えてくださっているのであろう。