法蔵と如来蔵

 

 
 
 
 
法蔵と如来蔵
 
 
 
     安田先生の言及
 
 
 
 以前に書いた『信心の業識について』の中で、如来蔵と法蔵について私は、
「違いはどこかにあるとしても、その基底を流れるいのちに異なりはない」と書き、
「如来蔵と法蔵は異なるという説をどこかで読んだり聞いたりした記憶があるが、
厳密にはどういう意味でそう言われるのか」と問いました。
その後、安田理深先生の言及に出遇いましたので、あらためてこの問題をたずねてみたいと思います。
 
 
 
 安田先生の言及は、こういうものです。
 
 
「阿頼耶は蔵という意味で、如来蔵という意味もあるのですけれども、やはり法蔵菩薩は如来蔵ということではないのです。」
(『因位の願心』1974年講義・金蔵寺夏期講習会四十周年記念講義録〔二〕一〇二頁)
 直接の言及はこれだけであって、どう違うのかということは明示されていません。ただその直前に、
「そこで大事なのは、阿頼耶識は流転の歴史を背負うているということだ」という指摘があります。
おそらくここに鍵があるのではないかと思います。
 
 
 「流転の歴史を背負うているもの」。
 
 
ここに眼を注がれているのだということが、安田先生のお言葉に一貫してうかがわれます。
「阿頼耶識ということを言わなければ現実の自己、今日では実存という言葉がありますが、それを表せない。
だから実存という概念を代表しているのが阿頼耶識です。それで大事なのです。
今ここに誰かとして現に生きているものが実存です。
それこそ自己ではないか。そういうものの上に法蔵菩薩を明らかにした。
そういう時に、法蔵菩薩は始めて話の法蔵菩薩を超えて現実の自己の問題になるのです。」
 法蔵とは何か、ということが語られています。法蔵あるいは法蔵菩薩は、阿頼耶識に基礎づけられている。
阿頼耶識というものの上に、言い換えれば阿頼耶識に於いて明らかにされた。
 
 
 これは曽我先生の「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」という感得をふまえて、安田先生が敷衍しておられる言葉でしょう。
その阿頼耶識とは、「生きた自己、それを阿頼耶識という。」生きた自己である。
実存という概念を代表しているような、今ここに誰かとして現に生きているものである。
 
 
  もう一つ、法蔵菩薩は行者なのだということが指摘されています。
「五劫思惟した時には法蔵比丘でしょう。しかし四十八願を通して法蔵比丘が宗教心を起こした、比丘というのだから人間です、
人間が起こした宗教心だけど、起こした宗教心はその人間よりも大きいのです。」
 
 
「四十八願に生きるのを行というのだ、願に生きたことを行という、行者です。行者の名前を法蔵菩薩というのです。」
 
「だから善男子善女人というもののために如来のさとりが与えられたのが五念門の行だ。
その五念門の行を潜って出ると、今度は菩薩ということになる。五念門の行を行ずるに、入る時は善男子善女人、出る時は菩薩である。
ちょうど四十八願を行ずるという意義を浄土の五念門の行として明らかにした。
ですから経典の方では法蔵比丘が法蔵菩薩になるように、『浄土論』では善男子善女人が菩薩と名前が変わってくるのです。」
 
 
 
  それについて、曽我先生、親鸞聖人、善導大師のそれぞれの方が注目されていたのだ、と安田先生は指摘されます。
「「行巻」には法蔵菩薩という言葉は一つも出てこない、「信巻」に至って始めて法蔵菩薩という言葉が出てくるのです。
これは親鸞が初めてではないのです。法蔵菩薩は何ぞやということは曽我教学の根本問題で、
先生がそういうことを明らかにされたのですが、曽我先生よりも先に善導大師がいる。善導大師がそれを問題にしている。
つまり「不可思議兆歳永劫」(『大経』聖典27頁)の修行ということは
経文では勝行段といいまして、四十八願の後に出てくるのです。
それまでは法蔵比丘であったのがそこから法蔵菩薩という名前に変わってくる。
勝行段の経文というものを注意したのが善導大師です。
 これに親鸞は非常に深い感銘を受けたのです。法蔵菩薩は何ぞやと、こういう問題に善導大師はふれたのです。
それが知らない間に善導大師の精神が忘れられて、昔話みたいになったのでしょう。それを曽我先生が回復された。
回復するために阿頼耶識というような、他人の言わないことを言い出した。」
 
 
 
 善導大師と唯識・如来蔵
 
 
 こういう指摘にふれてあらためて思われるのは、善導大師の基礎には唯識がある、ということです。
唯識、あるいは如来蔵思想が基礎にある。『観経疏』序文義の「自の業識」というような言葉にもうかがわれますが、
玄義分の中にも例えば、「ただ垢障覆へること深きをもって、浄体顕照するに由無し」という言葉、
これは唯識あるいは如来蔵思想に基づいた言葉でしょう。そのことがよりはっきりとするのは、定善義です。
 
 
定善義第一・日観の文を読むと、まず空の観想から入り、それから識において夕日を観ずる、という結構です。
まず中観をふまえて、その上に唯識(あるいは如来蔵)が立てられている。しかもそれは単なる思想ではない。
やはり行です。瑜伽行、正しく瑜伽の伝統に立って、実に懇切な指示を与えて下さっている。
その懇切な瑜伽行法の指南をみると、善導大師は瑜伽の行を否定しておられるのではない。
むしろ非常に大事なものとしておられるのです。
 
 
 定善は捨て去るべきものとして説かれているのだ、と先生方から教わるのですが、
その捨て去るということが、たんに否定するということではないのでしょう。
善導大師の意趣にしたがえば、むしろ定善を修せるものは修せ、とすすめられている。
聞法できるものは聞法せよ、ということでしょう。聞法の要は聞思ですが、聞思というのは徹底すればやはり定善です。
 
 
 捨て去るというのは、純粋化するということではないでしょうか。純粋行ということばも先生から教わりました。
安田先生のおことばだということですが、行が純粋化される。
自分で純粋にするというのではない、如来の行をたまわることによって純粋にされる。
何かの為にする行というのではない。行ずることそれ自体、それ自体に意味がある。
あえて目的というならばそれ自体が目的である。めざすといえばそれ自体がめざすものである。
ゆだねるといえば一切をゆだねている。如来の本願力にゆだねている。それゆえに自分のはからいというものが雑らない。
純粋行の成就。そういうことが、捨て去るといわれることの内容ではないか。そこに純粋の行が成就される。
聞法なら聞法ということにおいて、純粋の行が成就される。
 
 
  善導大師ご自身のお言葉の中に、「唯識」または「如来蔵」にふれたものが第八、像観釈に見えます。
 
 
 「あるいは行者あって、この一門の義をもって、唯識法身の観をなし、あるいは自性清浄仏性の観をなすは、その意甚だ錯誤れり。
絶えて少分も相似たることなし。」
 この文だけを見れば、善導大師は「唯識」、あるいは「如来蔵」ときわめて密接な関係にある
「自性清浄仏性」を否定してるかのようにもおもわれます。が、文脈を読めばそうではない。
 
 
どこまでも、像観における趣意が、唯識法身の観あるいは自性清浄仏性の観をなすことにあるのではない、
ということを言わんとしているのでありましょう。
なぜならば、「いまこの観門は、等しくただ方を指し相を立てて、心を住せしめて境を取らしむ。
総じて無想離念を明かさ」ざるものだからです。
 
 
「真如法界の身、あに相あって縁ずべく、身あって取るべけんや。」
そんな真如法界の身など、末代罪濁の凡夫に観取できるはずがないではないか。だから仮に三十二相を立てて、
像を想えとすすめてくださっているのだ、という趣旨であります。これは唯識法身あるいは自性清浄仏性を否定しているのではなく、
むしろそれを基礎としている。
そこに基礎づけられているがゆえに、像観が仮立され、また指方立相が成り立つのでしょう。
 
 
 『観経』および『観経疏』を読む時に、定善義は駆け足で通り過ぎてしまう。
場合によっては省かれてしまう。そういう読み方が真宗の作法になっているような気もします。
それも理由のあったことでしょうが、やはり勿体ないことだと思います。
私のふれた限りでは、やはり宗先生が定善義(定善十三観)をていねいに読んでくださったのが有り難いことでしたが、
真宗において定善義の意義というものが、どうしても今ひとつはっきりしない。
 
 
 定善義が重要だというのは、それは念仏の基礎を明らかにする。
 法蔵菩薩とは何ぞや、といった問題に深くふれてくる。そういう意義をもっているのではないでしょうか。
しかもそれはおそらく、瑜伽唯識、あるいは如来蔵という基礎をもっている。
善導大師ご自身が、「一句一字も加減すべからず」と言われていることを大事にいただきたい、
これはまだ充分に拓かれていない、今後のわたしたちの課題ではないでしょうか。
 
 
 
 ふたたび安田先生の言及
 
 
 『因位の願心』にふれたあとで、こんどは安田先生が「如来蔵」に言及されているお言葉に出遇いましたので、
それも引用してみたいとおもいます。
 
 
 「仏性を如来蔵ともいうのである。顕仏性というのは如来蔵の意である。天親が『仏性論』を書いているが、
それによれば、如来蔵は如来のことをいうのではなく、衆生のことをいうのである。
一切衆生はことごとく仏性を有するがゆえに、衆生を如来蔵というのである。
三願に十方衆生というが、その十方衆生を如来蔵というのである。
如来蔵といえば、如来を蔵していると考えられるが、如来胎蔵の意味で、如来に蔵せられているという意味である。
如来を懐妊している意味もあるが、如来に孕まれているという意味である。」
 (『自然の浄土』1956年講義『親鸞の世界観』草光舎所収 五七頁)
 
 
 
 『因位の願心』の十八年前のご講義であります。ですから語り口がちがう。
ここでは法蔵ということは出ずに、如来蔵ということで衆生を見出しておられます。
 
 「如来蔵ということによって、はじめて衆生ということが明らかになるのである。」 
 「我々は平気で流転流転といっているが、その実、流転と思ってもいない。流転の自覚がないのである。
流転の悲しみは仏のみにあることである。」
 「衆生は、法身の流転である。如来法身の流転である。」
 「このように『涅槃経』の教説によって『大無量寿経』の信心の意義を明らかにされている。
これが、如来蔵としての衆生の自覚の上に感得されるのであって」
 
 
 こういうお言葉は、『因位の願心』では阿頼耶識としておさえられているものです。
「そこで大事なのは、阿頼耶識は流転の歴史を背負うているということだ」(『因位の願心』)。
「衆生は、法身の流転である。如来法身の流転である。」(『自然の浄土』)。
『因位の願心』では阿頼耶識としておさえられているものが、『自然の浄土』では如来蔵としておさえられています。
因位の願心ということも、ここでは如来蔵において見出されている。
「これが、如来蔵としての衆生の自覚の上に感得されるのであって、
浄土は如来の果であり、すなわち衆生を超えたことであるが、因はここにあるということである。」
 こういうふうに、十八年の間に語り口がちがっているが、そのことでかえって、法蔵と如来蔵の関係が明らかにされている。
 
 
 「「欲生我国」ということは、如来蔵の自覚を象徴したものだと思われる。流転の中の如来の深い思し召しである。」
 
 
「衆生そのものとなって、衆生とともに痛み、一つになって悩むということである。
そうでなければ、流転といっても意義のないことになろう。そこに呼びさます叫びが「欲生我国」である。」
 
 如来蔵の自覚。その上に法蔵菩薩が明らかにされる。流転の歴史を背負う如来蔵です。
そういう意味で、如来蔵というものが見出されている。これは阿頼耶識というよりも、もうひとつ自覚されている。
阿頼耶識というばあいには、現実の自己、実存です。実存の上に自覚される。
現実の自己のうえに、流転の歴史を背負う如来が自覚される。それが如来蔵の自覚。
すなわち如来蔵の自覚が法蔵菩薩であります。
 
 
 「阿頼耶識ということを言わなければ現実の自己、今日では実存という言葉がありますが、それを表せない。
だから実存という概念を代表しているのが阿頼耶識です。それで大事なのです。
今ここに誰かとして現に生きているものが実存です。
それこそ自己ではないか。そういうものの上に法蔵菩薩を明らかにした。
そういう時に、法蔵菩薩は始めて話の法蔵菩薩を超えて現実の自己の問題になるのです。」
 
 
 こう言われていますが、阿頼耶識において自覚されるのが如来蔵です。
如来蔵が自覚されなければ、阿頼耶識が法蔵菩薩だということは言えないでしょう。
 
 
 「如来蔵という時の蔵は胎蔵の意味である、懐胎しているということである。
阿頼耶の場合は庫蔵という意味である。如来蔵という場合は、如来の母胎という意味である。
般若は仏母、信心は如来蔵という。信心というのは、性として仏をもっている。
信心が如来に異熟するのでなく、本来もっているのを生み出す、仏性である。
 如来の家というのは、如来を生み出す家が本の意味で、如来が親で、我々が子供になるような家ではない。
正信念仏は如来の家といわれる。阿羅漢などを生み出す家ではない。本当の菩提心を生長するところである。」
 (『唯識三十頌聴記』一、阿頼耶識について 安田理深選集〔第二巻〕 一〇七頁)
 
 
 ここで安田先生は、「如来の家」を「如来蔵」と同一の意味で受け取っておられます。 
本来もっている如来を生み出す家、それがつまり如来蔵ということですが、
「正信念仏は如来の家といわれる」といって、正信念仏と如来蔵が離れないものであることを指摘されています。
その前には、「信心は如来蔵という」という端的なお言葉も出ています。
 
 
 親鸞聖人のお言葉では、「信心は仏性なり」とあります。仏性を如来蔵というのは『仏性論』だといいます。
 曽我先生は阿頼耶識において法蔵菩薩を見出されたのですが、厳密には如来蔵としての阿頼耶識において、なのでしょう。
如来蔵と阿頼耶識はただちに同じではない。阿頼耶識それ自体からは、ただちに法蔵の意義を見出すことはできないのでしょう。
 
 
 「阿頼耶識というのは、シナの言葉に翻訳すると、「蔵」という字になります法蔵菩薩の「蔵」という字に。
そういうところから、私は、この阿頼耶識というものと法蔵菩薩というものとは、
思想的に深い関係をもっているものであると思っているのであります。」
(『法蔵菩薩』三四~三五頁)
 「そういうようなことから、阿頼耶識を翻訳すれば「蔵識」と言うようですけれども、もうすこしくわしく言えば「法蔵識」である。
つまり、一切法の蔵であります。
 万法といえば、いろいろあります。けがれたる法もあるし、清浄の法に対しても、
その一方をいやしめ一方を尊ぶ、一方を愛し一方を毛ぎらいする。
そういうことなしに、それをばきわめて公正平等の心をもって照らしている。こういうようなのが、阿頼耶識というものである。
そうすれば、阿頼耶識は、くわしくは「法蔵識」でしょう。法の蔵、一切万法の蔵である。
一切万法の種子を法と言えば現行法です一切現行の」
 「それから、聖道門の方の学問では、阿頼耶識と言う。
われらの往生浄土の実際の方面では、学問などしない広く一般の人たちのためには、
阿頼耶識などというようなことでは領解できないから、
それをば法蔵菩薩として、法蔵菩薩の名前でわれらに教えて下さるわけである。
こういうように私は了解しておったようなわけでございます。」
                           (六三頁)
 
 
 阿頼耶識と法蔵菩薩が思想的に深い関係をもつというのは、学問的にはおかしいという。
  (一郷正道「唯識に学ぶ」一九九二年八月 浅草西照寺における講義)
 
 
 しかし、法身は阿頼耶識の転依したものであるから、したがって法身は阿頼耶識だと言える。
同じように、法蔵菩薩も阿頼耶識の転依したものであるから、
したがって法蔵菩薩は阿頼耶識だということもいえる。(同上 ノート)
 
 
 「『仏性論』に仏性を如来蔵というが、あの場合も蔵に三義を説いている。あの場合の蔵は胎蔵という意味である。
仏たるべき可能性を懐胎している。如来たるの因をはらんでいるということである。
衆生は仏性だというのである。法蔵菩薩の蔵もそうである。」
       (安田理深『唯識三十頌聴記』十・五教十理  三四四頁)
 
 
 如来にはらまれつつ、しかも如来をはらんでいる、それが信心すなわち如来蔵といわれるのでしょう。
 
 
 「浄土教には、唯識思想がはっきりと背景になっている」(一郷正道 同上)
 法性法身〔真実智慧・無為法身〕である一法句から、阿弥陀仏(方便法身)を主とした浄土が展開してくるのは、
法身から〔受用身・変化身〕が出てくる唯識の理論と同じだからという。(同上 一郷)
 
 
 
 如来蔵と『起信論』
 
 
 善導大師の基礎に、「唯識あるいは如来蔵がある」という言い方をしたのは、善導大師の文の中には、
「自の業識」というような言葉以外にも、『起信論』を基にしたものがあるのではないかと考えられるからです。
唯識を基にしても読める。しかし『起信論』を基にしても読めるのです。
『起信論』といえば、如来蔵思想の代表的論書の一つとしてあげられるものです。
 法蔵と如来蔵の違いといえば、まずその原語がちがう。
法蔵は「ダルマーカラ(ダルマ・アーカラ)」、如来蔵は「タターガタ・ガルバ」です。
「タターガタ」といえば如来、如実に去り如実に来たるもの、如より来生せるものですし、「ダルマ」といえば法です。
法には「真理」という意味もあるが、存在という意味もある
。「諸法」という時には諸々の存在、現象世界の全てをあらわす言葉といってもいいのでしょう。
それは当然迷いの世界を含む。法という訳語もダルマという原語も、真理と迷いの世界と両方を包んでいる言葉です。
こういうところに、「流転の現実」を包むという意味がある。
「流転の歴史を背負う」というような意義が「法蔵」において見出されるのは、こういうふうに、言葉の上にも示されていることです。
「如来」と「法」という言葉の違いの上に、すでに意味の違いがあらわされている。
「法」は流転の現実、「如来」は真如から来生する者である。
 
 「如来蔵」といっただけでは、流転の現実を背負うという意味はまだはっきりしない。
「法蔵」という言葉になって、「流転の身を背負う」もっといえば「流転の身そのものとなる」
「流転の身そのものとなって背負う」という意味がはっきりする。如来蔵の自覚といっても、流転の歴史を背負う如来蔵です。
それが「法蔵」の意味ではないか。
 
 ガルバは「胎蔵」、アーカラは「庫蔵」といわれる。「如来蔵という時の蔵は胎蔵の意味である、懐胎しているということである。
阿頼耶の場合は庫蔵という意味である。」(前出・安田理深)。
 
「(庫蔵とは)蓄積というような意味である。一切の経験が蓄積さている。」(同 三四四頁)
 
 
もうひとつ、「菩薩」ということがあります。法蔵といっても「法蔵菩薩」である。それはどういうことか。
衆生が菩薩になるという意味と、如来が菩薩になるという意味のふたつの意味があるのでしょう。
衆生が如来に背負われて、道を歩むものとなる。如来蔵において菩薩たらしめられる。これは衆生が菩薩になる。
もうひとつ、如来が菩薩になって道を歩む。真理を悟った如来のままというのではない。
如来であればもう自分は歩む必要はない。
むしろ救うとか導くとかいうはたらきが如来である。それが導くものではなくて、むしろ導かれるものとなる。
菩薩は歩む者だが、導かれる必要のある者です。如来がみずから導かれる菩薩となって、衆生を背負う。
如来蔵といえば如来に蔵される。その蔵され方が、菩薩となった如来に背負われるという姿で蔵される。
われわれからいえば、法蔵菩薩となってくださった如来に背負われて、歩ましめられる。
如来からいえば、如来ご自身として我らを召喚し、菩薩となって我らを背負いつつ歩む。
 これは衆生が菩薩たらしめられる、ということに間違いないのだが、しかも衆生の分、凡夫である分を失わない。
どこまでも凡夫の身を見据えていく。わたしが菩薩になったというのではない。如来が菩薩になってくださった。
そして凡夫のわたしを歩ましめてくださるのだ。法蔵菩薩というのは、どこまでも私を凡夫として見出していく。
私が菩薩なのではなく、如来が菩薩となって私を背負い、歩ましめてくださるのだ。
そういう意義をもつのが法蔵菩薩ではないでしょうか。
 
 
 ところで『起信論』には、アーラヤ識において、「流転の現実を背負う」といった意義が語られています。
『起信論』はそれを「衆生心」という言葉で表し、またそれを如来蔵とも言っています。
これについては、『信心の業識について』の中で述べたとおりです。アーラヤ識において「法蔵」の意義を見出している。
そしてそれを如来蔵とあらわしている。そういう位置を『起信論』はもっている。
浄土の仏教において法蔵菩薩が見出されてきたということが、やはり同じ意義をもっている。
つまり如来蔵が「法蔵」として見出された。
 『起信論』は如来蔵思想の論ですが、同時に浄土教の論でもある、ということができるのではないか。
如来蔵において浄土教を基礎づけた、そういう意義をもっているのが『起信論』ではないでしょうか。
 
 「『大乗起信論』に阿弥陀の信仰が説かれていることは有名である。」(平川彰『インド仏教史・下』春秋社 一八三頁)
といわれていますが、そうであるならば、
『起信論』が浄土教の基礎を明らかにしている論なのだ、ということもすでに言われているのでありましょう。
 私自身はまだ眼にしていないのですが、そういうことを指摘されている先生がどなたかおられるにちがいない、とおもいます。
法蔵と如来蔵の関係に眼を注げば、『起信論』は如来蔵において法蔵をあきらかにした論であります。
 『起信論』に説かれる阿弥陀信仰、と言われている部分を引いてみます。
 
 
 「以上、五行によって四信を修行し、信心を成就することを説いた。
しかしながら、衆生の中には、この真如を信じ、修行を行い、正信を得たいと思う者があっても、
中には意志が薄弱であるために、自分はこの娑婆世界に生まれたが、この土は今、無仏の世の中である。
釈迦仏は涅槃に入ってしまい、諸仏にお値(あ)いしての親しくお仕えし、供養することができない。
そのようではおそらく信心は成就しないであろうとおそれて、せっかく発心しても、それを断念しようと思う者があるであろう。
しかしそのような者のためにこそ、如来は大悲心をもって、勝れた善巧方便を設けておられる。
その方便によって、衆生の信心を摂め護ってくださる。そのことを知るべきである。
その勝方便とは、専意念仏ということである。
こころを専らにして仏を念ずる因縁によって、その願に従って他方の仏土に生まれることができる。
そして、常に仏を見て、信を成就して不退の位に住し、永久に三悪道を離れることができる。
そのことは、経典に次のように説いてあるとおりなのである。
もし人が、こころを専らにして、西方極楽世界の阿弥陀仏を念じ、修するところの善根を回向して、
彼の世界に生ぜんと願求すれば、即ち往生することを得と。
このように阿弥陀仏の浄土に生まれれば、いつも仏を見たてまつることができるから、信心を退することはない。
もし阿弥陀仏の真如法身を観じて、常に勤めて修習すれば、ついには生まれて正定聚に住することができるからである。」
(拙訳。平川彰『大乗起信論」大蔵出版〔仏典講座22〕を参考にした。)
 
 
 
 如来蔵思想の展開
 
 
(注・衆生心を「流転の現実」を表す言葉として受け取ることはできるが、流転の「歴史」をも表しているといえるかどうか?
この「歴史」に法蔵の意義があるのかも知れぬ。)
この問いに導かれながら、では如来蔵という思想は、
そもそもどのようなことを顕さんとして生まれてきたのかということを、たずねてみたい。
 
 
(唯識を基礎とした如来蔵思想の展開の上に、法蔵菩薩が見出されてきた。それは「歴史」である。
如来の行の歴史、菩薩の修行の歴史、衆生心の歴史。
衆生心→菩薩→如来・如来→菩薩→衆生という展開ではないか。往相・還相。)
 
 
「阿頼耶は蔵という意味で、如来蔵という意味もあるのですけれども、やはり法蔵菩薩は如来蔵ということではないのです。」
と安田先生が言われているは、如来蔵思想の歴史にかかわっていることではないでしょうか。
如来蔵思想の歴史には、まだ「法蔵」というような意義が見出されていない時代がある。
 「衆生は、法身の流転である。如来法身の流転である。
いかに流転しても如来自身を失うことはないのである。」(『自然の浄土』)
 これは安田先生自身のことばですが、これも如来蔵思想です。
こういう如来蔵思想は、しかしここだけにとどまれば、インド六派哲学のサーンキャ学派の説と変わりはないものです。
如来蔵思想とサーンキャ派の説とは深いかかわりをもっている。別に間違っているというのではない。
ただいま一つ掘り下げられていない。
サーンキャでは「プルシャ」というのですが、衆生の内なるプルシャは、衆生がいくら流転しようとプルシャ自身を失うことはない。
プルシャは如来といってもよい。しかしサーンキャでは、流転の歴史を背負うというような意味がはっきりとしない。
 
サーンキャがずっとそういう場所にとどまっていたかどうか、これは問題です。
サーンキャにはサーンキャの展開がある。
しかしサーンキャの影響をうけたインドの宗教家の発言のなかには、いまでもそこにとどまっているものがあります。
 
そういうところに気のついた仏教が、如来蔵思想を如来蔵自身の内で掘り下げていった。
そういう展開があるのでしょう。だから「如来蔵」という言葉のなかには、まだ深められていない時代のなごりがある。
そういうなごりを、「法蔵」の名によってはっきりとのりこえようとした。それが「法蔵」の意義ではないか。
 
「諸仏如来はこれ法界の身なり、一切衆生の心想に入りたまふ。」
           『観無量寿経〔第八・像観〕』
 
 
 浄土経典における如来蔵思想の表明として、『観無量寿経』中のこの言葉がとくに心に刻まれます。
浄土思想が、如来蔵思想と無縁ではありえないことを明らかにしている文でしょう。
 
 
 如来蔵思想の誕生は、大乗仏教における竜樹以後の展開とされます。
 
 「かく竜樹出でて大乗経典を整理し註解するや、ここに大乗は教会(ママ)の表面に現れるに至った。
しかしこれを理論的に考察すれば、従来の大乗経典中には、すでにその種子を孕みながらも、
少なくとも表面上、なお物足らないところが二三点あった。
その第一は真空妙有の最終根拠に関する説明の足りないことである。
前に述べたごとく真空は妄心縁起観の結論であり、妙有は妄心を滅した、
いわば浄心の当体に顕われる境界であることは、
すでに前の諸大乗経ことに般若より華厳に至る間に最も明白になった思想である。
けれども更に進んで、そもそもその妄心と浄心との根本関係はいかに、
妄心縁起観と浄心縁起観との区別はいかにというがごとき問題となれば、従来の大乗経の未だ判然と説かないところであった。
その第二は一切衆生成仏の心理または論理的根拠に関する説明の足らぬことである。
三乗格別といい、唯有一乗といい、種々の説き方があるとしても、何故に然るかに関しては、
従来の経典中明らかにこれを説いたものがなかった。
法華はすべてが一仏乗に帰入する旨を力説しながらも、その根拠としては、少なくとも表面からするかぎり、
要するに過去無数の輪廻の間において、かって法華経を聞いたことがあるという、
いわば新熏種子説(経験的)でしかも一種の神話的理由に基づいたものであった。
その心にはもちろん一切衆生悉有仏性論を予想するとしても、未だこれを明言するまでに至らなかったのである。
その第三は仏陀論において未だ種々不完全なところあり、特にその法身観が完成しなかったことである。
前に述べたごとく、法身の思想はすでに小乗仏教にもあり、
ことに大乗仏教に至ると竜樹時代までにすでにかなりに円熟したけれども、この法身の概念が未だ判然せず、
したがって法・報・応三身説も讃法界頌を竜樹の作とすれば格別なれど未だ明白にならないものがあった。
しかしすでに人身としての仏陀(応身)もしくは修行の結果として到達したと考えられる理想仏(報身)の外に、
仏陀の仏陀たる所以の本性としての法身を説くかぎり、これに一定の意義を与えて、
他の二身との限界および関係を明らかにする必要あるや勿論である。
かくして主として右の三点しかも相互に関連して遂には一に帰着すべきに解決を与えんがために、
竜樹以後において、再び種々の新しい経典が結集されることになった。
すなわち如来蔵、阿頼耶識、仏性、法身常住等に関する経典である。」
   (木村泰賢全集第六巻『大乗仏教思想論』大法輪閣 一一三~一一四頁)
 
 
 
 如来蔵思想の成立
 
 
 「「如来蔵思想」というのは、一切の衆生(サットヴァ,有情。生きとし生けるもの)が例外なく、
仏・如来となる(さとりを得る)可能性をもっていることを主張する思想である。
衆生は、その可能性のゆえに<如来蔵>(タターガタ・ガルバ)すなわち、「その内に如来を蔵するもの」とよばれる。」
    (高崎直道『如来蔵思想』法蔵館・所収「如来蔵・仏性思想」6頁)
 
 
 「サンスクリット語のガルバは「胎」と「胎児」の両義がある(つまり“容れ物”と中身が同じ語で表される)ので、
如来蔵思想が教理的に固められるにしたがって、
この「如来の胎児」「如来たるべき可能性」がもっぱら<如来蔵>とよばれるに至った。
それを、もっと教理的に表現したのが<仏性>(ブッダ・ダートゥ)で、仏となるべき因・仏たるべき本質の意である。
この言葉をつかうと、さきの「一切の衆生はその内に如来を蔵している」(サルヴァサットヴァース タターガタガルバーハ )は、
「一切衆生は<如来蔵>を有っている」という解釈を媒介として、
「一切衆生には<仏性>が有る」(アスティ ブッダダートゥフ  サルヴァサットヴェース)という宣言となる。
有名な『涅槃教』の「一切衆生、悉有仏性」の句がこれである。」(同上7頁)
 
 
 「仏教は、その教えに導かれて、万人がさとりを開くことを目標としているのである。
このような理想・目標を表明している点で、如来蔵思想は仏教の正統であるが、
また、それだけでは特別に如来蔵思想とよぶこともないと思われるかも知れない。
しかし、ブッダ釈尊がすべての衆生に対して説法し、それによって衆生が成仏できるよう望んだとしても、
すべての衆生が成仏するとは限らず、成仏の可能性ありとも言い切れない。
例えば、さきに挙げた提婆達多のごときは、ブッダの教えに背いて教団の分裂を策し、
また、失敗したとは言え、山上から石を転がして、下を通るブッダを殺そうとしたと伝えられている。
このような反逆者がさとりを開くと考えることは、教団人の素朴な感情が許さない。
いや、たといブッダ同様に修行をつみ、煩悩を脱してアラカンになったところの、徳高き仏弟子長老たちでも、
ブッダ釈尊には遙に及ばないというのが実感であって、それが釈尊なきあと、
ますますブッダの地位を遙に高くさせることになったので、
むしろ、衆生はいくら修行してもブッダとはならないと考える方が教団人の一般的見方となった。
大乗仏教はこの考えをひっくり返し、釈尊の教えに立ち戻って、誰でもブッダと同じ最高完全なさとり(無上正等覚)にむけて、
発心し(発菩提心)、修行すれば、成仏できると主張した。
大乗とは、仏になる道が広く万人に開放されている意味で名づけられたものである。
特に『法華経』は、仏の教えはこの大乗以外になく、すべてこれ、仏への道であることを強調して、この道を<一乗>とよんだ。」
     (高崎直道『如来蔵思想』法蔵館・所収「如来蔵・仏性思想」7~8頁)
 
 
 如来蔵思想のもつこの意味を失えば、仏教は大乗であることをやめるほかにない。このことは決して忘れてはならぬ。
 
 
 「ブッダ(如来)の慈悲は広大であって、たとい悪人でも、さとりへの道にひき入れて下さるとしても、
もし衆生の側に、能力がなければ、さとりはおろか、修行することも出来まい。
あるいは、発心する意欲さえ起こらないであろう。これは事実に基づく観察である。
現に、広く衆生一般を菩薩たりうると考える大乗の人々も、おそらく歴史的その他の事情で、
旧い教団人に対しては、これを<小乗>とよび、アラカンたることを自慢しているかれらには、
最高完全なさとりの機会はないといってけなしていた。これは『維摩経』などに見られるところである。」
   (高崎直道『如来蔵思想』法蔵館・所収「如来蔵・仏性思想」8~9頁)
 
 
 「<小乗>は、仏弟子の道<声聞乗>と、師なく独自にさとりをひらく<独覚>の道(<独覚乗>)を含むが、
この考えを極端におしすすめると、<三乗>を別々の教えと見る説になる。
そして、衆生が三乗のどれに属するか(あるいはそのどれにも属さないか)は、これは衆生の能力によって決まる道理である。
この衆生の能力を、仏典はしばしば<種姓(しゅしょう・ゴートラ)>とよんでいる。」(同上 9頁)
 
 
 「『維摩経』は無上完全なさとりを開く能力のあるものたちを<如来種姓>と名づけている。
そこでは、仏弟子長老たちにはないその能力が、かえって煩悩にまみれた凡夫・衆生のうちにこそあることを強調するのであって、
旧い教団人からさとりの能力なしと言われた凡夫に、その力を見出す点で<大乗>であり、
大長老たちをけなすのは多分に逆説的なものであるが、ともかく衆生をグループ分けしていることは間違いない。」(同上 9頁)
 
 
 「<種姓(しゅしょう・ゴートラ)> というのは元来、「家柄」「家系」という意味であるから、
その言葉が能力の差を意味するというのは、そのような能力の差の先天性を暗示している。
そして、能力の差を先天的と考えることは、はじめに述べた仏教の「行為主義」に反し、
むしろバラモン主義に近いことになるのであるが、インド仏教の中では、なかなか根強い主張として存続している。
いわば、これは事実にもとづく主張・リアリズムである。これに対し『法華経』の一乗説は理想主義と言える。
そして、如来蔵思想というのは、『法華経』の一乗説をうけ入れつつ、衆生の能力に関してもまた、
例外なく、最高完全なさとりを開く能力(種姓)がある、
つまり、すべてのものが、<如来の種姓>に属し<仏性>をもつと主張したのである。
理論的に<仏性>はまた、如来たるべき<種姓>に他ならない。」                
                    (高崎直道『如来蔵思想』法蔵館・所収「如来蔵・仏性思想」9頁)
                                       
 
 
 如来蔵思想の系譜
 
 
 「如来蔵思想を展開させた系譜として、筆者は『如来蔵経』にはじまり、
『不増不減経』『勝鬘経』を経て『宝性論』に到る系列をもって中心となる主流と考え、
やや傍流に位置するものとして、『涅槃経』と、
それと密接な関係の見られる『大法鼓経』『央掘魔羅経』『薩遮尼乾子所説経』(『菩薩行境方便神変経』)
『大雲経』(『大方等無想経』)の一群を配置した。」
(高崎直道『如来蔵思想』/法蔵館・所収「大乗の諸仏と如来蔵思想」80頁)
 
 
 「『宝性論』は別として、『如来蔵経』以下の、筆者名づけるところの「如来蔵思想の三部経」は、
<如来蔵>の語をもって、この思想を説き、理論化したもので、今これを〔A〕群とし、『涅槃経』以下を〔B〕群とする。
〔B〕群は<如来蔵>と並んで新たに<仏性>の語を創設・使用する点に特色がある。」
 
 
 「これに対し、『楞伽経』は一方で『勝鬘経』をうけつつ、他面、『涅槃経』や『央掘魔羅経』とも関係を有しており、
いわば両系を合併する位置にある。
その点は『宝性論』とても同様で、同種の綜合的性格は、『大乗十法経』や『金光明経(分別三身品)』にも伺えるから、
今はこれらを合わせて〔C〕群と考えることにしたい。〔C〕群は年代的にも新しいことは言うまでもない。」(同上)
 
 
 
 寄与した経典
 「さらに、目を如来蔵思想の形成に寄与した諸経に転ずると、『如来蔵経』に直接影響を与えた、
「性起品」を含む『華厳経』の諸品、およびその直系の『智光明荘厳経』を真ん中に置いて、」
 「一方の極には『般若経』とその直系としての『宝積経・迦葉品』『維摩経』『首楞厳三昧経』ならびに『大集経』の諸品を、」
 「他方の極には『法華経』を位置せしめた」
 「のであるが、これらの経典の分類の基準としては、『般若経』以下が大乗の菩薩道を、
下からの実践として説くことに主眼を置いている、いわば<菩薩教>であるのに対し、
『法華経』は如来の立場から大乗を考えるもの、
表中には掲げなかったが『阿弥陀経』などの浄土経典が当然その一類に含まれているもので、
<菩薩教>との対比でいえば<如来教>とよぶべきものである。」
(高崎直道『如来蔵思想』/法蔵館・所収「大乗の諸仏と如来蔵思想」80頁)
 
 
「『宝性論』と『楞伽経』とが共通にしている教義上の源泉としては『勝鬘経』があり、
『涅槃経』があり、さらに、それらの淵源として、『法華経』の一乗説がある。」
       (高崎直道『楞伽経』大蔵出版・仏典講座17/六十頁)
 
 
「『宝性論』が全面的に『勝鬘経』によって、その如来蔵説の中核の部分を構成しているのに対し、
本経(『楞伽経』)の『勝鬘経』に対する態度は、必ずしも全面依存ということではなく、
たとえば「意生身」に関しては、解釈がかなり異なっている。
本経は、むしろ、『勝鬘経』に対しては、その如来蔵の生死・涅槃の依止論や、七識説・刹那滅論をバネとして、
これにアーラヤ識を加え、『勝鬘経』にはない唯識説の方向で、
その教説を発展させようとしたものではないかと思われる。」
 
 
「『楞伽経』の八識説は、『勝鬘経』の七識にアーラヤ識=如来蔵を加えたもので、
したがって、アーラヤ識は、浄識・自性清浄心と考えられているのではなかろうか
(アーダーナ識(執持識)でもあるのだが、習気のあり場所ではあるが、
習気がなくなってもそのまま残るものとして。)」
      (高崎直道『楞伽経』大蔵出版・仏典講座17/六十頁)
                                  
 
 
 
 
如来蔵と唯識の融合
 
 
「アーラヤ識と如来蔵の融合を説き、如来蔵則アーラヤ識の思想を展開したのは、『楞伽経』であり、その後に『密厳経』がある。
 
 
 (ただし『密厳経』は地婆訶羅(   六八七)の訳出であるため、訳出年代からもその成立の新しいことが知られる。)」
                平川彰『インド仏教史・下』春秋社 一七六頁)
 
 
 
「『楞伽経』の地位を考える場合、第二に重要なことは、その如来蔵説に関してである。
あるいはこちらの方が『楞伽経』の本音により近いものがあるのかもしれない。
周知のように、本経の如来蔵説の特色は、如来蔵とアーラヤ識の同一視にある。」
           (高崎直道『楞伽経』大蔵出版・仏典講座17/五十九頁)
 
 
「(如来蔵とアーラヤ識の同一視は)如来蔵説の代表的論典『 宝性論』にも見られない主張」          (同上)

「『宝性論』以前に、その承けた如来蔵説では、如来蔵とアーラヤ識の同一視はまったくいわれていなかったことは、
『宝性論』の所説からも明らかで、それを本経があえて同一視していることは、本経が『宝性論』より後来のものか、
あるいは、同時の成立でも知られていなかったとすれば、
『楞伽経』はよほど瑜伽行派の主流からは遠いところにいたとしか考えようがないわけである。」(同上~六十頁)
                                                                                

『起信論』と阿弥陀信仰

「『大乗起信論』に阿弥陀の信仰が説かれていることは有名である。四信・五行を説いた後で、
「正信を求めんとするもその心怯弱にして、……信心の成就し難い衆生のために、如来に勝方便あり」として、
阿弥陀仏を信じて、正定聚に住すべきことを勧めている。」 
              (平川彰『インド仏教史・下』春秋社 一八三頁)
 
 
世親と如来蔵

善導大師と如来蔵

 自性清浄心
 
 
親鸞聖人と如来蔵                                
 
 
如来蔵思想の意義
 仏教的平等思想の根拠というべきものが、この如来蔵思想なのである。
 
 
如来蔵・唯識の展開としての法蔵
 
 
 真宗学の言葉を用いていえば、如来蔵は法の深信に相応し、唯識は機の深信に相応するのであろう。
如来蔵は、法の深信の仏教学的根拠であり、唯識は、機の深信の仏教学的根拠であろう。
 
 
  浄土思想は、如来蔵・唯識を基礎としなければ、その救済の仏教学的根拠をもちえない。
 あるいは逆に、浄土思想のうちに潜在する救済の仏教学的根拠を明かにするものが、如来蔵・唯識であるといってもよい。
 その展開の歴史そのものを、すでにして言い当てている、言い表しているのが法蔵の名であろう。
 如来蔵にあらざれば流転を背負うことはできない。如来蔵にあらざればただ流転するばかりでありましょう。
 衆生流転の苦は、この流転を背負って、「そくばくの業ありける身をたすけんとおぼしめしたちける」
如来蔵を見出すことができなければ、出離の縁なき身に沈みつづけるより外にはないのでありましょう。
 如来蔵にふれ如来蔵を見出すことが、そのまま実は衆生流転の自覚なのだ、
どこまでも衆生流転の現実に目覚めつづけることなのだ。
 こういう自覚が、如来蔵・唯識をふまえて展開してきた浄土の真宗の歩みにおいて、
法蔵の名を見出してきたのでありましょう。
 法蔵菩薩とは、まことに衆生流転の歴史を背負いつつ、
道を求め、大悲に生きんとする如来蔵の歩みそのものに与えられた名に、他ならないのでありましょう。