高明寺レポート
信心の業識について
信心の業識について
『誰が道を求めるのか?』
「信心の業識」という言葉は、浄土真宗の祖・親鸞聖人の代表的著作である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の、「行の巻」の中に出てきます。この「行の巻」は、わたしたちを浄土という真実の国に救いとろうとはたらいてくださる如来のおこころが、如来のみ名を称すること、わたしたちの迷いの闇を照らし尽くしてやまない無碍光如来のみ名を称えることとして、如来からわたしたちに与えられているのだ、ということを明らかにして下さっている巻だと思います。かんたんに一言でいえば、そういうふうに言えるのではないかと思います。
その中で、諸々の経典や論の文を引いて、称名が必ず浄土に生まれる因となることを証したあと、称名という「行」と、その行をいただく「信」との関係を、親鸞聖人ご自身が語られている部分です。難解な言葉がつづくのですが、仏教の伝統を正確に理解するために、まずその書き下し文(原文は漢文)を引用してみましょう。
信心の業識について(雲集用)
「良(まこと)に知りぬ。徳号の慈父(じぶ)ましまさずは能生(のうしょう)の因闕(か)けなん。光明の悲母(ひも)ましまさずは所生(しょしょう)の縁乖(そむ)きなん。能所(のうじょ)の因縁、和合すべしといえども、信心の業識(ごっしき)にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名(こうみょうみょう)の父母(ぶも)、これすなわち外縁(げえん)とす。内外(ないげ)の因縁和合して、報土の真身(しんしん)を得生(とくしょう)す。」
(『教行信証』〔行の巻〕・真宗聖典 一九〇頁)
(真宗大谷派宗務所出版部『真宗聖典』による。 一九〇頁)
信心の業識、あるいは真実信の業識という言葉が、『教行信証』の行の巻に出てきます。この言葉が気になって、いつかは自分なりに、学びのまとめ(途中報告)をしてみたいと思っていました。
たまたま、昨年(1992年)の雲集学舎で今井亮昭先生の『相傳義書』の講義に出た時に、蓮如上人がやはりこのお言葉に注意しておられることを知りました。それが機縁となって、学びの糸口が見つけられたような思いがありました。そこで、いささかの途中報告をまとめてみたいと思います。
蓮如上人のご了解
「「良知、無徳号」の下、光明名号、父母因縁、業識の喩、これ他力をあらわすきびしき御釈なれども、面々常に此の文を申しながら心に会得せぬゆえ、宗意に違うなり。本願無自性と覚悟すべし、とはここなり。通途(つうず)六識八識の談云々。然れば通途所談の第八の業識にあらず、真実信の業識といえり。何ぞ凡夫の業識ならんや。通途、光・名の父母の因縁にて、自己の信心の業識生ずと誤るなり。これを誤らせまじき為に、「真実信業識」と云々。「真実信業識」とは弥陀廻向の大信なり。これを我人往生の業識と定む。これ本願の前に自性なき事しるべし。」
(『真宗 相傳義書』〔深解別伝〕四七頁)
善導大師の文
この文につづいて小文字の注があり、そこには親鸞聖人の文が、善導大師の『観経疏(序文義)』の文にもとづいていることが記されています。
*上につづく小文字の注。
「「良(マコ)トニ知リヌ、徳号ノ慈父無シマサズバ」の下、序文義の文勢を模したまう。彼の孝養父母の釈に云わく、「但是相因ッテ而生ズレバ、即チ父母有リ。既ニ父母有レバ、即チ大恩有リ。若シ父者無クンバ、能生ノ因即チ闕ケナン。若シ母者無クンバ、所生ノ縁即チ乖キナン。若シ二人倶ニ無クンバ、即チ託生之地ヲ失ワン。要ズ須ラク父母ノ縁具シテ方ニ受身之処有ルベシ。既ニ身ヲ受ケント欲スルニ、自ノ業識ヲ以テ内因ト為シ、父母ノ精血ヲ以テ外縁ト為ス。因縁和合スルガ故ニ此ノ身有リ。斯ノ義ヲ以テノ故ニ、父母ノ恩重シ」。已上 『三経私記』に、「光明之縁、名号之因、因縁和合、而蒙摂取不捨之益」文。 (『真宗 相傳義書』〔深解別伝〕四七頁)
『聖教全書』でみると、第一巻〔三教七祖部〕の四八九頁、「散善顕行縁」の中に「当に三福を修すべし」とあって「一には孝養父母」とあげられているその部分の善導大師の解釈に、この文が出てきます。
「自の業識を以て内因となし」とあります。この文をもとにして、「真実信の業識、これすなわち内因とす」という親鸞聖人のお言葉が出ているのではないでしょうか。
「父母の精血を以て外縁となす」と善導大師にはあります。この文をもとにして、やはり「光明名の父母、これすなわち外縁とす」という文が出されているのでしょう。
「因縁和合するが故に此の身有り。斯の義を以ての故に、父母の恩重し」。すなわちここで善導大師がいわれているのは、娑婆世界の身です。父の精と母の血を縁として生まれてきた、この世の身をいわれているのです。託生したこの身、現に肉体をもって悩み煩っているわたしたちの身です。
それにたいして親鸞聖人が語られているのは、娑婆の身ではなくて、報土の真身です。
「内外の因縁和合して、報土の真身を得生す。」
それゆえに、「真実信の業識、これすなわち内因とす」と、信心の業識をもって内因とされているのです。
注意しなければならないのは、親鸞聖人は、善導大師のお言葉を否定しているのではない、ということです。否定して読み替えておられるのではないでしょう。「自の業識」などというものは本来はないのだ、そういう見方が迷っていることなのだ、といって言い直しておられるのではない。「空」に固執した立場からいえば、「自の業識」というようなものは無い、ということになります。仏教は「無我」である、自の業識というようなものを立てれば、それは「我」を認めることになる。こういう主張を、わたしたちはよく唱えます。仏教を学ぶものにおいて、一つの大きな考え違いになっている点ではないでしょうか。
中観派と唯識派の論争において、唯識派にたいする中観派からの論難として、「唯識派は阿頼耶識というようなものを立てるが、それはすでに我に似たものを実体化していることではないか」というものがあったと聞いています。うろ覚えのまま記していますので正確ではありませんが、おおよそはこういう趣旨であったと思います。それにたいして唯識派がどう答えるかといえば、「阿頼耶識は実体ではない。それはどこまでも縁起である。われわれは阿頼耶識を実体として立てるのではなく、縁起として見出している。阿頼耶識はそれ自身縁起であってしかも、縁起ということを根本において成り立たしめている場処である。それは縁起の根拠である」というふうにもなりますでしょうか。「我」ということをいうにしても、それは仮りにいうのである。「仮によって我法と説く」(『唯識三十頌』)。
阿頼耶識は「我」ではない。それは末那識によって「我」と執着されているのである。これが唯識の立場でしょう。しかしこういう唯識の立場に立ったとしても、ともするとわたしたちは錯覚をしがちです。というのも、善導大師がここで語っておられる文もまたその基になっている文があるのですが、それは縁起の胎生学的解釈とされているものです。古くは『阿含経典』の中にその例が見られ、対照してみると、善導大師の文がそれらを基にしていることは明らかです。(注・たとえば中阿含経・巻の第五十四『口茶啼経(さていきょう)』「また次に三事合会して母胎に入る。父母一処に聚集し、母満精堪耐し、香陰已に至る。この三事合会して母胎に入る。母胎あるいは持つこと九月十月にして更に生ず。生じ已りて血をもって長養す。血は聖法中に於いてこれを母乳という。彼のちの時に於いて諸根転(うた)た大となり、根転(うた)た成就し、麁なる飯麥少を食し、蘇油もて身に塗り、彼眼に色を見て好色に楽著し悪色を憎悪し、身を立せず少心を念じ、心解脱慧解脱の如真を知らず」)。
この縁起の胎生学的解釈は、宇井伯寿氏によって、本来の仏教を曲げたものとして切り捨てられました。それ以来この宇井氏の説は、わたしたち仏教を学ぶものにとって大きな影響力をおよぼしています。その立場からいえば、たとえ唯識を学んでいたとしても、善導大師のこの文は、「本来の仏教ではない胎生学的解釈の残滓を、善導大師すらぬぐえていないことを示す文」としてしか読めないでしょう。あるいは、「善導大師自身はこんな理解をしているわけではないのだが、当時の一般的な理解に即応して、あえてこういう語り方をされているのだ」といった読み方にしかならないでしょう。
胎生学的解釈というのは、字を見れば想像されるように、お母さんのお腹の中で胎児が育って生まれてくるその過程にもとづいた、あるいはより正確には、その過程をふくむ「縁起法」の理解です。因縁といってもよいのですが、善導大師の文を虚心に読めば、これが胎生学的な叙述であることは否定することができません。では、それは善導大師のなかに宿っていた古い誤れる仏教の残滓なのでしょうか。それとも、方便としてそういう言い方をしているだけなのでしょうか。
私は、そのどちらでもないと思います。善導大師は、ここで事実を語っておられるのでしょう。私たちが生まれて在る事実です。この身をもっている事実。「我」として迷い、「我」として執着している、生きている身の事実です。
親鸞聖人は、この身の事実を否定してはおられない。むしろどこまでも事実を事実として見つめていかれたのが親鸞聖人でしょう。善導大師の文を、聖人は事実をあらわす文として注目し、そして尊重されたのでしょう。そして事実を事実としてまさに認めることにおいて、まさにその事実の上に立って、真実の因縁を求め、見出していかれたのでしょう。
業識について
親鸞聖人の両重因縁に語られる「業識」は、『大乗起信論』によっているといわれます。宗正元先生によれば、発動する識であるといいます。
そこで、『大乗起信論』を見てみることにしたいと思います。
「一切の存在は心である。」
まず『起信論』の基本的主張、第一テーゼからはいりましょう。
「摩訶衍(まかえん)には、総じて説けば、二種有り。云何が二となすや。一には法、二には義なり。」
摩訶衍とはマハーヤーナの音訳で、「大乗」と意訳されます。大乗仏教の大乗ですが、ここでは、「一切の存在の事実と、事実から真実への道」のふたつを摂めて「大乗」と言っています。
法と義の二種があるというのは、「法」は一切のものごと、「もの」や「こと」と言っても、また「存在」や「現象」と言ってもいいのでしょう。
「義」とは、一切のものごとの意味や関係、「存在の意味」や「現象の関係性」と言っていいのでしょう。般若系経典、中観系論書にいう「空」は存在の意味を指す言葉であり、阿含経典から大乗経論の全部を貫く「縁起」の思想は、現象の関係性を現す言葉としてとらえられはしないでしょうか。即ち空とは、「現象しているあらゆるものごとには、永遠に固定されたすがたはなく、それらは実体ではない」という意味であり、縁起とは、「現象しているあらゆるものごとは、おたがいに条件となりあいながら生起している」という関係性をあらわしているのでしょう。
今『起信論』は、この「存在の意味」と「現象の関係性」を義におさめて、それをもって道を明らかにしようとしています。しかしさらに、道が道となる前提、何処において道は開かれるのかという、求道の根拠をもたずねているのです。『起信論』が連なる如来蔵系・唯識系の仏教は、さきの般若・中観系、阿含系の仏教に加えて、「求道の根拠」をたずねたのです。わたしたちは、何において、どこにおいて道をもとめるのか?その根拠は何処にあるのか。
『起信論』は、わたしたちが道を求める根拠、一切衆生の求道の根拠を、「迷いの現実を生みだすもの」でありつつ、しかも「真実のいのち」でもあるものという二重性に見出して、それを法におさめています。一切のものごとを、「迷える現実」と「あるがままの真実」の二重の世界として、二重の構造としてとらえているのです。迷いの現実を見つめなければ、そもそも道を求める動機がないでしょう。迷いを迷いとして知るところから道が始まる。迷いを明らかにすることが、道が道となる前提を見出す。道の基礎を明らかにする。
経というものは本来、すでに求め,見出された「真実」から説かれているものです。論もまた、そうして見出された「真実」を聞き取るところから説かれるのでしょう。とくに般若・中観系の論は、見出された「真実」から説くのでしょう。今『起信論』の場合も、すでに求め、見出された「真実」から説かれていることに変わりはありません。しかし『起信論』の場合は、たんに「真実」の場処から説くだけでなく、その「真実」を聞く者は誰か、という問題を提出しているのです。道の始まる場処、何処において、何において、誰において、道は求められるのか。
迷える者において、道は求められる。だが道が迷い道でないという根拠はどこにあるか。見出された真実にある。行くべき処、帰るべき場処にある。帰るべき真実を拠り処とし、「来たれ!」「帰ってこいよ!」と呼び返す本来の声、あるがままなる如来の声を導きとして道は道となる。動機は道の始まる根拠となり、呼び声は歩みの根拠となる。
「迷いの現実を生みだすもの」が「迷いの現実を知るもの」となる。そこに始めて道が求められる。道の動機となる。動機は呼び声によっていのちを得る。機は発動しようとしている。しかし呼び声が聞こえなければ動くことができない、歩むことができない。呼び声を聞く者は誰か。「迷いの現実を生みだすもの」であり、しかも「迷いの現実を知るもの」である。呼び声が、呼び声を聞く者において、求道の根拠となる。呼び声を聞く者が、求道の場処となる。呼び声を聞く身が求道の場処である。
「迷いの現実を生みだすもの」と「迷いの現実を知るもの」とは、衆生において一つの身となっている。この身を「心」という言葉によって表す、これが如来蔵系・唯識系仏教の特色であり、発見でしょう。身と心とが別のものではない。心が身となっている。身となっているような心、それを「心」という言葉で表す。
「言う所の法とは、衆生心を謂う。是の心、則ち一切の世間法と出世間法とを摂すれば、此の心に依りて、摩訶衍の義を顕示するなり。」
「世間法」とは、現実のものやこと、現象的存在をいい、「出世間法」とは、真実にめざめた者の眼に見えるいのちのすがたでしょう。「現実のもの・ごと」と「真実のいのち」とを摂めて、しかも求道の場処となる。それが衆生心である、というのです。この衆生心を誤解してならないのは、ただ衆生の心、という意味ではないということです。それは衆生の心ではない。衆生になっている心です。衆生の身となっている心。単に迷っている心ではない。「衆生の心」といえば迷っている心でしょう。今「衆生心」と『起信論』がいうのは、迷いもし、目覚めもする心。今は迷っているけれども、目を覚ます可能性をもった心です。迷いも目覚めもそこにおいて成り立つ、そういう場処、身でしょう。主体といってもよい。依り所、乗物です。大乗(摩訶衍)の依り所。それを「衆生心」といっているのです。
如来蔵
「心生滅とは、如来蔵に依るが故に生滅心有り。いわゆる不生不滅と生滅と和合して、一にも非ず、異にも非ず。名づけて阿梨耶識(ありやしき)となすなり。」
衆生心の根本は「如来蔵」といわれ、また「阿梨耶識」とも呼ばれています。この阿梨耶識は、唯識にいう「阿頼耶識」と同じで、原語はどちらも「アーラヤ・ヴィジュニャ~ナ(アーラヤ識)」です。
中国に唯識を持ちかえった玄奘はこの「アーラヤ・ヴィジュニャ~ナ(アーラヤ識)」を「阿頼耶識」と訳しました。そこで玄奘訳の唯識説を示す場合には「阿頼耶識」の訳語を用い、『起信論』のアーラヤ識を示す場合には「阿梨耶識(阿黎耶識)」の訳語を用いるのが通例だということです。(注・平川彰『大乗起信論』九六頁・仏典講座22/大蔵出版。『起信論』のテキストとしてこの書を用いました。)
五識の転起
「復次に、生滅の因縁とは、謂う所は衆生なり。心に依りて意と意識と転ずるが故なり。此の義云何。阿梨耶識に依りて無明有りと説くを以てなり。不覚にして起こると、能見と、能現と、能く境界を取ると、念を起こして相続するとの故に説いて意となす。
此の意に五種の名有り。一には名づけて業識となす。謂く、無明の力にて不覚の心が動ずるが故なり。二には名づけてて転識となす。動心に依りて能見あるが故なり。三には名づけて現識となす。謂う所は、能く一切の境界を現ずればなり。なお、明鏡の色像を減ずるが如く、現識もまたしかり。随って其の五塵に対至すれば、即ち現じて前後有ること無し。一切時に任運にして起こって、常に前に在るを以ての故なり。四には名づけて智識となす。謂く、染浄の法を分別するが故なり。五には名づけて相続識となす。念が相応して断ぜざるを以ての故に。(および)過去の無量世等の善悪の業を住持して失せざらしむるが故なり。(更に)能く現在と未来との苦楽等の報を成熟して、差違すること無きが故なり。(更に)能く現在已経の事をして忽然と念じ、未来の事をして不覚に妄慮せしむればなり。」(解釈分・生滅因縁 前掲テキスト一六三~一六四頁)
不生不滅の汚れのない真如が、無明に覆われて、真妄和合といわれるように、真実と妄念の合体した(表裏になった)阿梨耶識になります。この状態が如来蔵とよばれる状態で、現実には汚れた迷いの心ですが、潜在的には清らかな真実の心(如来)をとりもどす可能性をもっています。迷いの世界を流転するものは、この阿梨耶識なのですが、「阿梨耶識」という場合には、すでに述べたように真妄和合ですから、これは単に「流転するもの」の意味だけではなく、「真実にたちもどるもの」という意味も合わせもっています。そこで、真実に気づかずに迷いつづけている時のわたしたちの心をとくに取り出して表す言葉として、『起信論』は業識という名を用いています。
『起信論』では他にも、転識、現識、智識、相続識という、業識と合わせて五つの名を用いていますが、これらはみな阿梨耶識を指す言葉で、別のもののことを言っているのではありません。ただそのはたらきのさまざまな現れを、それぞれに名づけて区別しているだけですから、五識は一体です。さらに意識という名も用いられていますが、これも一体であることに変わりはありません。ただ前の五識についてはそれをひとまとめにして「意」と呼び、「意識」と区別しています。阿梨耶識を「意」と「意識」とに大きく区別しています。これは、「意」というのは現代の心理学のことばでいえば、潜在意識とか深層意識とかに当たる内容を表そうとしているのでしょう。心の表面に現れるのは「意識」です。しかしそのはたらきは、潜在している心、深層の「意」を基盤として生起しているのだ、ということを言わんとしているのでしょう。(注・平川彰さんは「『起信論』のこの流転門の説明は、細から麁へと一方的な展開を説くのみであり、そこには唯識説の「転変」の思想が見られない。」「唯識の阿頼耶識のように、「潜在心」という意味はない。」(前掲書 一四六~一四七頁)といわれていますが、私には、ここにははっきりとは語られていないが、「潜在心」や「転変」の思想をやがて導き出す萌芽があるように思えます。「意」と「意識」とに分けるのは、そういう構造が想定されているからではないでしょうか。
その「意」のはたらきを表す言葉として、名が五つあげられましたが、これらのはたらきと名とを代表しているのが、「業識」なのです。
染浄四法
「復次に、四種の法を熏習する義有るが故に、染法と浄法とが起こって断絶せざるなり。云何が四となす。一には浄法なり、名づけて真如となす。二には一切の染因なり、名づけて無明となす。三には妄心なり、名づけて業識となす。四には妄境界にして謂う所は六塵なり。」(テキスト二〇八頁)
「妄心という場合には識をいうのである。故にこれは業識・転識・現識から意識までを含むわけであるが、ここにはその根本を取って業識を挙げるのである。」(平川彰・二〇九頁)
業識
「第一には意を名づけて業識という。その理由は、無明の力によって、不覚の心が動じて生滅心となるからである。一心は不生不滅であり「法」である。「業」ではない。業は因果の関係をもつものであり、無明によって生滅心が起こる点が業のはじまりである。この点を業識と呼ぶのである。業識とは「不覚にして起こる」ことである。」(平川彰・一六七頁)
業識は真の自にあらず
善導大師が「自の業識」といわれているのは、『起信論』における妄識であり、その体はアーラヤ識でしょう。人が生まれるのは、自らのアーラヤ識(業識)を内なる因とし、父母の精血を外なる縁とする。この因と縁が結び合うからわたしたちのこの身があるのだ、というのです。わたしたちはこういう大師の了解を、胎生学的解釈としておそれる必要はないと思います。わたしたちの生存の事実は、仏法においてつつまれているのでしょう。
「縁起の胎生学的解釈を大乗の論(注・『成唯識論』のこと)で平気で語るが、別に否定せぬ。阿頼耶縁起で純粋な縁起を語るのである。十二縁起というものを、阿毘達磨の解釈によって胎生学的に語られても、それで別に仏教の本質が失われぬのは阿頼耶縁起という純粋なものがあるからである。胎生学的ということは、我々の生理というものの一つの意義であり、説明の便宜であると見えるが、生理という意義は生理学等に尽きぬ意義をもつ。ただ説明というだけでなく、生理という一つの意義がある。説明法として胎生学を使ったというが、胎生という意義は胎生学に尽きぬ意義がある。たとえ阿頼耶縁起に立っても、生理というものを捨てず、胎生ということも縁起から考えているということである。縁起を生理で説明したのではなく、生理ということも縁起で考えるのであろう。」(安田理深『唯識三十頌聴記』〔選集第二巻〕四二七~四二八頁/文栄堂)。
流転するものは業識、すなわちアーラヤ識です。
しかし目覚めるものもまた業識、アーラヤ識でしょう。
「真実信の業識」と親鸞聖人がいわれるものは、すでに流転を離れて光明土に到る。かならず「報土の真身」として成就する真実の自己でしょう。仏の智慧である光明を母とし、仏の誓いであるみ名を父として、誓いと智慧に育まれて誕生する仏のおさな児、それが真実の自己だといわれるのでしょう。「誓い(み名)」と「智慧」との能所の因縁和合して、真実の自己(信心の業識)が生まれる。さらに、「真実の自己」を内因とし、「誓い」と「智慧」を外縁として、内外の因縁和合する時に、「報土の真身」が得られ証しされる、というのでしょう。
「「良知、無徳号」の下、光明名号、父母因縁、業識の喩、これ他力をあらわすきびしき御釈なれども、面々常に此の文を申しながら心に会得せぬゆえ、宗意に違うなり。本願無自性と覚悟すべし、とはここなり。通途(つうず)六識八識の談云々。然れば通途所談の第八の業識にあらず、真実信の業識といえり。何ぞ凡夫の業識ならんや。通途、光・名の父母の因縁にて、自己の信心の業識生ずと誤るなり。これを誤らせまじき為に、「真実信業識」と云々。「真実信業識」とは弥陀廻向の大信なり。これを我人往生の業識と定む。これ本願の前に自性なき事しるべし。」
蓮如上人がここでとくに注意しておられるのは、「信心の業識」は「自己の業識」ではない、ということでしょう。「仏法は無我にてそうろう」と言われた上人の面目が躍如としています。親鸞聖人がここで語らんとされているのは、迷いの自己ではなく、報土の真身です。それは「自己」にあらざるものを「自己」と誤る妄心ではない。
信心の業識といえば、主体をあらわすのでしょう。目覚ましめんという仏の誓いがあっても、目覚ましめられる主体がなければ、誓いは成就しない、受け取る者がいなければ与えることもできない。
しかもその主体は、自分の信心ではない。わたしたちはここのところがなかなかわからないのです。どうしても信心を自分の心としてしまう。「私が信じる」と考えてしまう。そうではないのだ、というのがここで言われているお心でしょう。自分の心で信じる主体ではなくて、仏から差し向けられた、如来の回施したまわれた信心をいただく主体です。主体がないのではない、受け取る者が存在しなくてもいいのではない。いただくのは自分がいただく。しかしその自分は、あらかじめ自分で「自分」と思っていた自分ではない。仏力によって生まれた自分、如来の大信心によって生ましめられた自分。本願力に乗じてたえず新しく生まれ出ていく自分でしょう。その自分は固定された自分ではない。自分を「自分」としてそこに固執していくような自分ではない。
それで蓮如上人は、「本願無自性と覚悟すべし」と仰せられているのでしょう。本願には「我」として執せられる自性がない。本願によって生まれた自分にもまた、「我」として執すべき自性はない。こういうお心ではないでしょうか。そのお心、親鸞聖人がわざわざ「真実信業識」と言われているそのお心を明らかにして、「通途(通常の意味でしょう)、光・名の父母の因縁にて、自己の信心の業識生ずと誤るなり。これを誤らせまじき為に、「真実信業識」と云々。「真実信業識」とは弥陀廻向の大信なり。これを我人往生の業識と定む。これ本願の前に自性なき事しるべし。」と、ていねいに注意してくださっているのだと思います。
「「往相廻向」の中に「大行」あり「大信」ありと、大行には必ず信ありと示したまうゆえに、行のうえに真実信の業識と転ず、しるべし。」 (同上)
*さらに小文字で付記されている部分がある。(編者の注であるらしい。)
「「真実信ノ業識」(他力)とあり、業識の信心(自力)とはのたまわず。例せば、大信心は仏性なりと、仏性は大信心とはのたまわず。」
信心の身
「報土の真身」とは、もはや自己を超えた自己、仏のいのちと一つであるいのちでしょう。それはもう単なる自己ではない。あらゆるいのちと一如のいのち。流転を離れ、輪廻を超えたまことの生命でしょう。しかも「報土」といわれるのは、ただ輪廻を超えてそこにとどまるのではない、そこからさらに大慈大悲心をもって、流転の現実に還る、一切の苦悩の衆生の身となって如来するいのちです。
本来でありつつたえず新しく生まれる。本有でありつつ新熏。 唯識に「護法合生義」といわれる、アーラヤ識にたいする護法の解説は、こういうことを彰さんとしているのではないでしょうか。
曽我量深師の「法蔵菩薩はアーラヤ識なり」という感得は、親鸞聖人が「自の業識」において「真実信の業識」を見出された感得と一つでしょう。『起信論』が「如来蔵」と呼ぶ衆生心、すなわちアーラヤ識もまた、すくなくともこの意味における限りは一つでしょう。如来蔵と法蔵は異なるという説をどこかで読んだり聞いたりした記憶もありますが、厳密にはどういう意味でそういわれるのでしょう。有知識の方に教えていただきたいと思います。ただ、違いはどこかにあるとしても、その基底を流れるいのちに異なりはない、とわたしたちは言いえるのではないでしょうか。
「つまり法蔵菩薩の心の中にですね、如来があるんですね。法蔵というのは人間ですわね。人間の心の中に、人間を超越した如来というものがあるんです。そしてその如来の本願というものを自分の身につけたいと、こういうのが法蔵菩薩の超世の願というんです。」(曽我量深『親鸞の世界』鈴木大拙・金子大栄・西谷啓治 共著 東本願寺出版部 五四頁)
親鸞聖人のいわれる信心の業識は、良(まこと)に「如来蔵」から生まれ出た智慧なのでしょう。如来蔵において感得された「智慧の信心」であり、「信心の智慧」なのでしょう。
それは業識である限り、迷いと離れない。迷いを離れた識ではなく、迷える識として起動したわたしたちの心が、まさにその始原において、迷える自己に気づかしめられた、その自覚なのでしょう。信心の業識とは、したがって、「迷いの現実を生みだすもの」である私たちの心、すなわち衆生心が、如来の呼び声(『起信論』でいえば法力熏習・浄法熏習)によって目覚しめられ、「迷いの自己と現実を知るもの」となった心。そしてその心が、かぎりなく如来の教えを聞きひらかんと歩みだしていく、その心、身となっている心。その信心の身を言い当てて下さっているのではないでしょうか。
(了)
転識
「第二には意を名づけて転識という。先の動心には能見の相があるからである。心が動ずるとはすなわち分別をなすことであり、主観の作用がそこに現れることである。その作用をここでは転識と呼んでいるのである。この転識には二つの意味がある。第一は無明に動かされて転識となる意味で、この転識は阿梨耶識の中にある。第二は対象(能現相)に動かされて転識となる意味で、この転識は心の表面にある認識主観すなわち知識である。今いう識は、第一の場合の転識である。
現識
「第三に意は現識と呼ばれる。「現」とは現すという意味で、先の転識に対応して阿梨耶識の中に客観としての世界が現れることをいう。客観ではあるがこれも識の作用である。識でないものは、識によって知られることはできないのである。本論には現識を次のように説明している。現識とは一切の境界を現ずるものである。それはちょうど明るい鏡が色像を現ずる如くである。これと同様に現識が外界の「五塵」に対応すると、ものが鏡に映ずる如くに、努力を用いず自然に、時間的前後なしに、ただちに外界が現識に映り、あたかも目の前にある如くである。「五塵」とは色・声・香・味・触の五者のことである。」「眼識から意識までの六識は、つねに生じているのではない。例えば眼識が休止する時は、見る作用はない。しかし現識は中断することがなく、つねに外界を映し出している。そのために眼などの六識がいつ活動しても、それより先に現識の現している外界像がある。そのために眼などの六識は、現識の現しているものが、外界そのものであると誤って理解するのである。」
智識
「以上の業・転・現の三識は阿梨耶識の中での作用であるが、この現識の現しだしているものを、心外の実在であると考え、そこに個物を妄分別するのが、第四の智識である。これは三細・六麁でいえば智相と呼ばれたものである。智相は「愛と不愛とを分別する」と説明されたが、智識は「染浄の法を分別す」と説明される。ようするに外界に「もの」が実在すると判断し、それに対して、好悪を感じ、あるいは善・悪の判断をなすことをいう。これは「事識の中の細分別」といわれ、個物を認識する中の微細な分別である。」
相続識
「これは六麁では相続相といわれ、智識に基づいて苦楽の覚を生じ、念を起こして断ぜずと説明された。ここでは「相続」の意味がさらに詳しく説かれている。まず「念が相応して断じない」から相続識と呼ばれる。念とは妄念であり、絶えず妄分別を起こして、識が持続していく点をいう。識が持続することによって、無限の過去からの善悪の業を維持しているのである。業とは、行為が後に残す見えない力をいう。それが心理的な形で残り、相続識に保存されている。例えば、人を殺したり、ものを盗んだりすれば、それが心の傷となり、心の無意識の領域に保存されている。しかもその業を成熟せしめて、苦楽の報いを得せしめるものも相続識であるという。(中略)次に過去の経験を記憶し、それを思い起こすのも相続識の作用であるという。さらに未来にかくかくのことをなそうと、突然、思いつくこともこの識の作用であるという。この中、善悪の業を保持することと、業の果報を受けしめることとは、阿梨耶識に属し事識の細分別であるという。事識は分別事識とも呼ばれ、いわゆる外界の事物を分別する識である。」
「相続識は日常の経験と、その結果を保持する作用をなすのであるが、しかし自我に対する執着は含まれない。この我執も相続識の作用であるが、この場合には、相続識をとくに意識と呼ぶのである。したがって我執を除いた法執をなすのが、智識と相続識とである。」 (平川彰 『大乗起信論』大蔵出版 仏典講座22/一六七~一七〇頁)
法力熏習まこと(真実)による垢落とし
「凡夫の本性である如来蔵は、それ自身の本具の力によって覚の作用を起こすものである。」(一二三頁)
「人間には本性として「向上したい」という願いがある。これは内なる本覚の作用であり、これを真如の内熏という。」(平川 )(三木注・たんなる「向上心」を本覚の作用とすることはできないだろう。)
「さらに外からは仏菩薩などが善知識となって、衆生を教え導き、外部より覚の作用を誘発する。これが真如の外熏の力である。この内熏力と外熏力とを法力熏習という。」
「この「法力熏習」は、本覚の力がまだ充分でない内凡三賢位などの地前の段階の本覚の活動をいう。」
如実修行まこと(真実)によるこころ磨き
「それよりさらに進んで、初地以上の本覚を「如実修行」という。これは真理にかなった修行をなすことであり、十地の満位までをいう。」
方便満足
「十地の満心において、あらゆる方便はすべて満たされる。これを「方便満足」という。この満心の金剛喩定にいて最後の煩悩を断ずるから、この時、妄念の根源(心源)を達観して、阿梨耶識という和合識の相を破し、不生不滅が生滅と和合している在り方がなくなた、不生不滅の相を現す。これによって根本無明が断ぜられるのである。それ故、根本無明から転じて、業識・転識・現識などと迷いの生活を展開する「相続心」の相が滅する。」 (一二三頁)
「無明が滅すれば、業識などの相続が滅して、智性がひとり輝くということになる。」(一二六頁)
サーンキャ説との異同
「しかしここに疑問が起こる。先に覚と不覚とは阿梨耶識の二義として示された。阿梨耶識に覚と不覚との二義があると説かれたのであるから、本覚は阿梨耶識の属性である。その本覚がどうして母なる阿梨耶識(和合識)を否定することができるのかという疑問である。そこで「此の義は云何」と問うたのである。」(一二三頁)
こういう疑問は、サーンキャ説の「プルシャがプラクリティを否定する」という説が前提になって出てきているのではないか。
真如の内熏
本覚の本性は清浄であり、鏡にたとえられます。またその衆生にたいするはたらきも鏡にたとえられて、因熏習鏡と縁熏習鏡の二種でいわれています。
ここで因熏習といわれるのは、本覚すなわち真如が、目覚めの因となって衆生の内部からはたらきかけることを意味しています。
「衆生をして仏道を求めしめ、始覚の智を完成させることをいう。この点は、本覚が煩悩の中にありながらも、それに染せられず、無量の性功徳を具えていることを示すものであり、この点を如実不空という。如実とは真如のことであり、真如に無量の性功徳を具えることを指すのである。真如は万法現出の因であるが、しかし真如は法界一相であり、一心無念であるから、真如のみでは万法は現れない。これに無明の妄法熏習が働くことによって、依他起の世界、縁起の万法は唯心の世界に現れる。この点を「一切世間の境界、悉く中に於いて現ず」と表現している。しかしこの依他起の諸法は、無明の熏習を待って生じたものであるから、真如から直接生じたものでない点で「出でず」と説かれ、しかし無明は唯心の外にあるものではないから、万法も外部から来たものでないので「入らず」と説く。これらの諸法は縁起において成立している範囲内では実在であるので「失せず」と示される。しかも縁生の諸法は真如の変現したものであるから、その点では真如と異ならないので「壊せず」と説かれる。本覚真如の中に顕現する諸法は、本覚を離れて存在するのではないので、真如と別に体性があるのではない。体性がないから本来平等であり、諸法は諸法として成立しつつも、本性は一つであり、常住の一心に外ならない。一切の法はそのまま真如と同じく真実である。」
「このように本覚は一切諸法を顕現するが、しかし本覚は顕現した諸法によって汚されることはない。あたかも清浄な鏡が穢れたものを映し出しても、鏡が汚されないのと同様である。なぜ染法に汚されないのかといえば、本覚の智体は不動であり、性は常に清浄だからである。そして清浄なる性質を具え、衆生の内より常に衆生に熏習して、菩提心を起こさしめる。」(平川 一三一~一三二頁)
外縁による熏習
一方、縁熏習のほうは、「本覚としての仏陀が、衆生のために縁となって始覚の智を起こさしめる。そのために外から衆生に働きかける点を熏習といったのである。本覚がこのような外縁の力となる点を縁熏習鏡と呼んだのである。」(一三二頁)
「第二の因熏習鏡は真如の内熏を示し、第四の縁熏習鏡は真如の外熏を示したものである。」
三木 注・どこまでも信心によって仏性がめざめるのであって、その逆ではないということを言わんとしているのでしょう。他力の宗旨においては、自ら仏性を覚るのではなく、目覚しめられることが大事です。その目覚めさせてくださる仏のお心が大信心でしょう。目覚めさせる心は、また目覚めさせられる心がなければ成りたちません。その目覚めさせられる方を信心というのでしょう。
「境界と認識の対象のことであるから、智識・相続識・意識(分別事識)に、それぞれ妄境界があるわけであるが、ここにはその根本を取って境界相を出すのである。ただし境界相は外界が心に現れたものであるから「五塵」である。その外に法境(法塵)があるから、それをも含めて六塵となす。しかしこの場合には、心外の六塵をいうのではなく、心に現し出され、認識の対象となっている六塵をいうのである。」
「一心は一面では不生不滅(無時間的)であるが、現実に凡夫の心は生滅心(時間的)となっている。この心の生滅すなわち時間の世界はどうして起こるかというに、如来蔵によるが故に生滅心があるのである。すなわち心の本性は真如であるが、しかし現実にはその真如は煩悩に覆われている。この煩悩に覆われている真心を「如来蔵」と名づける。如来蔵は真如と別のものではないが、しかし法身・仏智の光が現れていない。これが凡夫における自性清浄心の現実の相である。真如といえば「非人格的」な在り方であり、宇宙に遍満する実在である。しかし如来蔵といえば「人格的」である。真如の人格化であり、しかもそれは煩悩と相対関係で見られているのである。故に如来蔵は輪廻している衆生の根本である。如来蔵がなければ輪廻している衆生は存在しない。故に『勝鬘経』には「如来蔵有るが故に生死有りと説く」と述べ、『起信論』にも「如来蔵に依るが故に生滅心有り」と説くのである。しかしこのことは如来蔵が輪廻の原因であるという意味ではない。衆生が迷っている原因は無明にある。」(平川彰『大乗起信論』九六頁・仏典講座22/大蔵出版)
慧遠説
「慧遠は、この識は輪廻に流転して没することがないので「無没識(無失没識)」と解釈している。」
『起信論』説と唯識説
「『起信論』では阿梨耶識の意味は「真妄和合識」であるが、玄奘の唯識説では「妄識」である。両者は同一の用語を用いながら、教理の立て方が異なる。」(同上九六頁)
生滅因縁
「生滅心がどのような因縁で起こり、どのような構造で活動するかを、次に明らかにする。生滅の縁起的構造の問題は、衆生の問題、凡夫としての自己の心の問題である。
生滅の因縁とは、一言にいえば心によりて意と意識とが働くことである。ここにいう心とは「如来蔵」に依りて生滅心有り」というた場合の如来蔵をいうのである。」(一六五頁)
「阿梨耶識における無明の活動を示すと、不生不滅の真心が、その真心すなわち一心であることを悟らないので、一心に主客の分裂が起こる。一心たることを悟らないのが無明の働きである。一心が主客に分裂して、主観的な能見と、客観的な能現とが成立する。能現とは、心が客観の態として現れるという意味である。この不覚にして起こると、能見と、能現とまでで阿梨耶識が成立するのである。」「このように阿梨耶識において、能現すなわち境界相が現れているために、次にそれを外界であると妄想する識作用が現れる、すなわち「能く境界を取る」ところの智識が起こり、次に智識の心作用を相続していく識が「念を起こして相続する」相続識である。以上の五段階を主体的に表現すると「意」と呼ばれる。意には、認識の意味の他に、思惟することや意志する意味が含まれている。」
「「此の意に復五種の名有り」というように、意は異なった側面から五つの名で呼ばれるという意味である。意が五識に分化するという意味ではない。すなわち『起信論』は、意すなわち五識の作用は合して一つであると見ているのであって、この点は法相宗が阿頼耶識などの八識が体が別であると見るのと立場が異なる。」(平川 一六六~一六七頁)
「阿梨耶識」の三識
「阿梨耶識は業識・転識・現識の三識から成立している」(平川 三二九頁)
「意」は五識
「意は業識・転識・現識・智識・相続識の五識よりなるが、ここではその根本をとって業識を指す。」(二二二頁)
「妄心業識などの三細と智識・相続識などの意と意識をいう。」(二一四頁)
*いずれも平川彰さんの解説による。〔業識などの三細と智識・相続識などの〕意と意識をいう。」と読めばそれなりに分かる。
起動の識
「業識は無明によって一心が動いたところの最も微細な識である。そこにはまだ転識・現識という主客の分極化は起こっていない。そういう分化の奥の純粋経験の識である。しかしなおかつ業識と呼ばれ、過去の業によって色づけられた認識である。」(平川 二六四頁)
三細・六麁
業識は、五意の第一、三細・六麁の第一。業識によって、他の転識・現識・智識・その他の妄心を代表する。
業識の生滅相
「復、何れの義を以てか差別ありと説くを得るや。業識の生滅相に依りて示すを以てなり。此れを云何が示すや。一切の法は、本より来(このかた)、唯心のみにして実には念無きも、しかも妄心有り。」(体大・相大 テキスト二五〇頁)
無明熏習迷いの染み付
「無明には根本無明と枝末無明とがあるために、熏習が二種になる。根本無明が真如に熏習するのが根本熏習であり、これによって業識が成立する。これによって細中の細の心生滅の起こる原因を示すのである。」(二一七頁)
枝末無明の熏習
「所起見愛熏習は、枝末無明である見愛などの煩悩によって意識が成立することを示す熏習である。先に意識は見愛煩悩によって増長すと説かれたが、増長をここでは「熏習」と表現したのである。『義記』にはこれを、「枝末の不覚、心体に熏習して分別事識を成ず」と説明している。分別事識とは意識のことである。」(二一七頁)
業識の熏習
妄心熏習に二種がある。第一は業識根本熏習。第二は、増長分別事識熏習。
「第一は、業識が無明に熏習して、転識と現識が成立することをいうが、これは阿梨耶識が成立することを意味する。そして阿梨耶識がある限り、その人の生存が続くのである。阿羅漢や辟支仏は我執を断じ、一切の煩悩を断じているので、輪廻に生死流転することはない。生死流転を分段生死というが、阿羅漢・辟支仏、さらに地上の菩薩は輪廻の三界から脱しているから、分段生死の苦を受けることはないが、まだ阿梨耶識があるために、三界の外において不思議変易生死の苦を受けるという。これは微細な苦であるが、しかし生滅が存在する。」(平川 二一五~二一六頁)
生死の苦を生ぜしめる熏習
「第二の増長分別事識熏習は輪廻の苦を生ぜしめる熏習である。妄心が枝末無明に熏習して、分別事識の力を強めるのである。すなわち凡夫は、業・転・現の三細のみでなく、六麁を展開し、我執・法執に基づく分別事識が働くが、その結果、起業相や業繋苦相があり、生死の苦を受けることになる。」(二一七頁)
妄境界熏習
二種に分けられる。第一は増長念熏習。第二は増長取熏習
「境界が主観の煩悩をかきたてることであり、逆に主観の煩悩が強まれば、それに応じて対象の力も強められる関係にあること示すものである。」
第一の「念」は智識・相続識のの認識作用をいい、法を執する妄念(分別)をいう。第二の「取」は、我執や見愛の煩悩を指すという。あるいは欲取・見取・戒取・我語取・の四取であるともいう。「ともかく認識の対象が、日常的な認識主観の欲望を強める作用を熏習と呼んでいるのである。」(二一六頁)
染法熏習
「妄心熏習(染法熏習といったほうがよい。三木注)には心体(真如)に熏習して、染浄となるのと、現に現れている妄心や心の対象などに熏習し、あるいは煩悩が互いに助け合うことなどとの二種がある。この二種の熏習によって、心の染法が起こって断じないのである。」
無明は真如に依存する。
「無明は能熏の法であるが、しかし独存することはできず、真如に依存して存在し得る。」
「無明が真如を熏習する結果」〔無明熏習〕、
「妄心が起こる。すなわち業識から意と意識までの妄心が成立する。しかしてこの妄心はかえって無明に熏習し、無明の力を強める。」「その結果、真如の法一なりと達しないことから、不覚の念が起こって転識となり、現識が成立して妄境界が現ずる。すなわち結果は転識(不覚念起)と現識(妄境界)とである。」〔妄心熏習〕のうち〔業識根本熏習〕。
「この妄境界が現出しているから、これが縁(認識の対象)となって妄心が働き、力を強める。この点を妄境界という染法(妄心)の縁があるために、この妄境界が妄心に熏習して、妄心をして、念(智相と相続相の作用)と著(執取相と計名字相の作用)とを起こさしめ、種々の業(起業相)をなさしめ、その結果一切の身体的精神的な苦(業繋苦相)を受けさけめることになる。これは好ましい色や快い香りなどがあるから、主観がそれに執著し、業を積み、苦報を受けることを指すのであり、妄境界に、縁として作用する力があると見るのである。先の念とは法執、著とは我執を指すと見てよい。」〔妄境界熏習〕。
(二一五~二一六頁)
アーラヤ識の本有説と新熏説
「ことに『成唯識論』では、熏習の起源の問題が出ている。本有・新熏が出ているが、新熏説は『摂大乗論』を教証とする。種子の起源は熏習にありとする。因であることによって果であるといわずに、果であることによって因であるという。阿頼耶識が諸法の因になるのは独断的に決まっているのでなく、諸法によって与えられた結果である。諸法の熏習で阿頼耶識が転変された。無内容な阿頼耶識が、一切諸法の因になるように転変された。超越的に経験があるのではない。私というものは一切の経験を離れてあるのでなく、私は私になったのである。なったことがあること、私になった他に私は無い。Werden (成ること)の他にSein (在ること)はない。これが『摂大乗論』の主張である。」
『唯識三十頌聴記』 安田理深選集第二巻 134頁
『成唯識論』巻第二・(一、本識三相) (太田久紀編註 31頁~36頁)
「護月本有義」
「難陀新熏義」
「護法合生義」
もし護法説を受け入れるならば、第八識であるアーラヤ識は、それ自体を重層的なものとして考えなければならないでしょう。第八識自体がさらに重層的構造をもっている。 そこから、第八識の内にさらに第九識をたてる見解が出てくるのは自然です。
しかし護法が第八識アーラヤ識を八識と九識とに区別せずに一つにおさめているのは、本有も新熏もともに自己としておさえるからでしょう。自我ではない、自己です。主体といってもよい、個的生命の自体、それ自身です。自己が、本有なる自己と、新熏する自己という重層性をもっているのです。
本来でありつつたえず新しく生まれる。本有でありつつ新熏。
アーラヤ識は、業識として絶えず三障、二障を新熏します。三障とは、煩悩と業と報の三つ(『倶舎論』によるという。今井亮昭先生講義)。また二障とは、煩悩と所知障の二つをいいます(『成唯識論』によるという。今井先生講義)。(注・『相傳義書』第五巻三二頁)。「漏」という言葉をつかえば「有漏」。たえず垢にまといつかれる、これが「有漏」の新熏。
三障、二障の汚れをはなれた「無漏」の種子は、本来そのようにあるもの、即ち本有。アーラヤ識に生じる「真実信心」は無漏の種子で、無漏であることは即ち本有。本有が新熏する。業識たるアーラヤ識に、無漏の真実信心が新熏して、「真実信の業識」が生じる。たえず新熏するアーラヤ識に本有が新熏する。新熏してみれば、それは自己と別のものではない、本有こそが真実の自己であるとうなづかれる。本有の光に照らされてはじめて、本有が自己である、本来の自己であると目覚める。
アーラヤ識は、三障・二障の有漏を新熏して、それを「我」とするマナ識が生じる。それを「我」とし、「我」として執着するのがマナ識。アーラヤ識が「自我意識」であるマナ識に転じる。これが有漏転変です。
それに対して、アーラヤ識に生じた無漏の本有、本有の光に照らされてまことの自己に気づく。自己の本来、父母未生以前本来の面目に目覚める。目覚めてみれば、自己とは本有でありつつ、新熏である。本来の自己だけが自己ではない。迷うのも自己であると気づく。迷っているあいだは、迷いを迷いとして知らない。本来に目覚めれば、迷いが迷いとして見える。迷いを迷いとして確かに知る。その迷っているものは、では自己ではないのか。迷っているのは、自己が「自我」と執して迷っている。自己は「自我」ではない。それなのにアーラヤ識が自らを「自我」と固執する。「自我」というものは有るものでも無いものでもない。それは固執することによって生じるものです。固執という煩悩が生じる。固執によって有る。「無我」の教えは、この固執を破るものです。「自我」が無いのではない。「自我」は固執されることによって既に生じている。固執されて「自我」は有る。この固執を破る。それが仏教の「無我」説であって、ただの理屈で「自我」というようなものは無いと言っているのではありません。「自我」が無ければ「無我」説の教えも要らぬ。固執されて「自我」が有るから「無我」が説かれるのでしょう。「無我」が説かれるのは、固執を破らんとして説かれる。はじめから「無我」なわけではありません。
はじめから無我なのは本有です。本有こそが自己であると目覚める。「無我」が自己と気づく。目覚める主体が無ければ、「無我」説が説かれる意味もないでしょう。「無我」と気づく自己が無ければ、「無我」も無意味です。自己とは、本来無我である。これは本有であるということです。本有であるから無我が成り立つ。無我が成り立つのは、ただ本有に於いてのみです。現象においては、無我は成り立ちません。現象は、本有に照らされなければ必ず有漏です。自我に迷いながら迷う我を知らず、「無我」を口にしながら自我に迷うのがわたしたちでしょう。これが現象の事実、我々の現実です。現象とは、自我に迷い、対象に迷う我々がつくりだす妄想に他ならないからです。
「無我」といくら説教をしてみても、本有にふれていなければ「自我」の固執は破れません。本有にふれてはじめて迷う我を知る。迷う我を知れば、それもまた自己である。本有が迷う我を自己として見出す。自己が本有に帰って、しかも迷う我に還る。浄土に生まれてしかも迷いの穢土に生きる。
護法の合生義といわれるのは、この消息を語るものではないでしょうか。 それは本有なる自己と、新熏なる自己という重層性をもっています。
第九識の問題
『摂大乗論』では、第八アーラヤ識の奥に、さらに第九識をたてるという。
本有なる自己と、新熏なる自己との重層性に気づけば、これは当然生まれてくる観察でしょう。
法蔵菩薩
「つまり法蔵菩薩の心の中にですね、如来があるんですね。法蔵というのは人間ですわね。人間の心の中に、人間を超越した如来というものがあるんです。そしてその如来の本願というものを自分の身につけたいと、こういうのが法蔵菩薩の超世の願というんです。」
(曽我量深『親鸞の世界』鈴木大拙・金子大栄・西谷啓治 共著 東本願寺出版部 五四頁)