高明寺レポート
他利利他の深義
他利・利他の深義
曇鸞大師のおことばに、「他利・利他の深義」というおことばがあります。
親鸞聖人は『教行信証』証の巻の最後を、この言葉でしめくくっておられます。
「ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎし奉持すべし、特(こと)に頂戴すべしと。」
(『真宗聖典』東本願寺・298頁)
それについて、いろいろな先生が、いろいろな視点からお教えを下さっています。
例えば、『大谷派なる精神』(雲集学舎発行/1988年)の中で、和田稠・宗正元・藤元正樹・宮城豈頁の四師の座談のなかでもこの言葉がとりあげられ、四者四様といったご了解が示されています。
これらの諸先輩のご了解を通して思慮するならば、
他利・利他の深義とは、平等の成就をあらわしているのでしょう。
利他する者が、ただ他をたすけている(利他している)のではなくて、同時に他からたすけられている(他利されている)。そのような、たすけるものとたすけられるものが平等。たすける者がたすけられる者であり、たすけられる者が、またたすける者となる、そのような関係として、自他が見出される。そこに菩薩が上で凡夫が下とか、聖者はすばらしいが庶民はつまらんとか、あるいは仏と衆生は絶対に異なるといった、差別が超えられる。あらゆる差別のなかでも、いわば究極の差別が、たすける者とたすけられる者の差別なのでしょう。その差別をも超える。
即ち、如来の平等性智をあらわすのが、他利・利他の深義ということではないでしょうか。
そこに生まれるのは、一方だけが頭をさげて感謝するというのではない、おたがいが拝みあうという、平等の関係です。
(2004年3月7日 三木悟)
『教行信証』証の巻・総結のことば
「しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に籍(よ)りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持(ぶじ)すべし。特(こと)に頂戴すべしと。」
(『真宗聖典』東本願寺・298頁)
「大涅槃を証する」これが自利成就。自利の成就が本願力(他力)の回向によることを明らかにしておられる。
つづいて、
「還相の利益は、利他の正意を顕すなり。」とわざわざ言われるのは、自利の成就(入第四門)において、利他への展開(出第五門)が本当の意味で始まるのだということでしょう。自利利他成就の大乗菩薩道の願いが、ここにおいて初めて、限りのない歩みとしてまた用きとして、成り立つのです。
凡夫の身に、菩薩の魂をたまわる。
菩薩を名告るのではなく、どこまでも凡夫の身に立ち帰りながら、そこに菩薩の道を成就していく。それが大乗菩薩道の至極としての、浄土の真宗です。
「頂戴すべし」といわれているのは、往相回向だけを頂戴するのではない。大悲往還の二種の回向を「頂戴すべし」です。
他利(往相回向)利他(還相回向)です。
他力に乗じて自利を得る。それが往相です。
浄土に生まれて、如来の利他行に転入する。それが還相です。
如来のお役目を、我が分に応じて頂戴する。阿弥陀如来御用達の凡夫となる。
それが、凡夫の身にたまわる大乗菩薩道の魂でしょう。
他利は、一応は自力による自利ではなく、他力による自利という意味ですが、しかし他力に乗ずるものはもはや自ではない。縁起空の主体です。だからそこでは「自」という言葉も捨てられて、ただ「他に利せられる」ことがあるだけなのでしょう。
しかも、そこには、利他する者が、ただ他をたすけている(利他している)のではなくて、同時に他からたすけられている(他利されている)。そのような、たすけるものとたすけられるものが平等。たすける者がたすけられる者であり、たすけられる者が、またたすける者となる、そのような関係として、自他が見出される。そこに菩薩が上で凡夫が下とか、聖者はすばらしいが庶民はつまらんとか、あるいは仏と衆生は絶対に異なるといった、差別が超えられる。あらゆる差別のなかでも、いわば究極の差別が、たすける者とたすけられる者の差別なのでしょう。その差別をも超える。
そこに生まれるのは、一方だけが頭をさげて感謝するというのではない、おたがいが拝みあうという、平等の関係です。
即ち、如来の平等性智をもあらわしているのが、他利・利他の深義ということではないでしょうか。
まことに「深義」の言、故あるかなと思わずにおれません。