高明寺レポート
利他の成就
利他の成就
「我われは念仏申すことが利他の成就だっていうことに確信がもてないんです。どこに問題があるのか。なんか念仏申して他のことをやらないと利他にならないと思うんですね。人をたすけるようなことをやらなきゃ利他にならないと、こういうふうに私どもは思うておる。その念仏申すということが、利他のお世話にならずに簡単にできておるように錯覚しておるわけですよ。けれども、この私において念仏が申される。この私において法が開かれる、これほど大きな利他はないです。利他が現実に成就しておるすがたです。そういうことに眼を開かせる。
私どもの上に利他が、他を救うっていうことがもう現実に成就しておるんです。これから他を救うんじゃなくて、他を救うっていうはたらきが、今、この身に成就しておる、そこから出発するわけです。どうしたら他が救えるかじゃなくて、成就したところから出発して、他を救う願心を聞く。その利他を成就しておる願心ですね。そういう願心を生きる。それを願生というんです。つまり私どもの一生涯が、願を聞き願を生きるという、願生という一生涯になっていく。」
(宗正元『化身土巻聴記』第八巻・雲集学舎発行1997年/102頁)
親鸞聖人 讃岐の出来事 大無量寿経読誦三千回をやめて「念仏のほかになにが必要か」
『歎異抄』第四章 「浄土の慈悲というは、念仏していそぎ仏になりて」
念仏ひとつということが言われます。
「念仏成仏これ真宗」
「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」これは、まずは自利の成就(摂取不捨の利益にあずかる)自利利他成就はどこでいえるか。それが問題になります。
念仏申すことが利他の成就であるというそのことに、まちがいはありません。ただ、自ら念仏申し、また他の人がお念仏申されるそのお手伝いができるときに、如来の利他行のお手伝いをさせていただくという、われらにおける自利・利他の成就、まさしくそれこそは大乗の菩薩道がめざした、その道が成就されるのだと思うのです。
そして、「自ら念仏申し、また他の人がお念仏申されるそのお手伝いをする」ということは、ただ「ご一緒に念仏申しましょう」と勧めるだけでは、必ずしも実現しません。「念仏申せ」という仰せを聞き、念仏申して生きていかれた人の一生涯を通して、そこに如来の大悲にふれ、如来の無碍なる光に照らされる。そこには、仰せの心が、念仏の心が聞き開かれなければなりません。私はいつもご法事の前に、列席のみなさまに「ご一緒に念仏申しましょう」とお声をかけます。如来の呼び声をお伝えする大事なお役目と思ってそうしているのですが、ただそう呼びかけただけで、如来の呼び声がお伝えできるわけではありません。そこにはどうしても、共に聞き開く、ということが必要です。「念仏申せ」と仰せられるその心はどのようなお心なのか。そのことを、共に、聞きたずね、聞きひらいていく。そのことを抜きにすれば、ただの空念仏になったり、虚しい呪文に終わったりしかねません。事実そうなっていることも多いのでしょう。
その心が聞き取られなければ、念仏はただわけのわからない呪文にすぎません。
どういう出来事を通しても、そこに「念仏申せ」「念仏申しましょう」という声を聞き、そして、その心を聞き開いていく。それこそが、念仏として見出された、大乗菩薩道の至極の道でありましょう。
共に、聞きひらくのは、われらの役目です。われらが聞きひらくのでなければ、いったい誰が如来の声を聞くのでしょう。われらの手伝いなくば、如来の声はわれらに届きません。どこまでも如来の声を聞き、どこまでも如来大悲の心を聞きひらいていく。それがわれらに与えられたお役目であり、われらに託された如来の御用でしょう。
そして現実には、お腹がすけば乳を与えてくれ、怪我をすれば傷口をなめて癒してくれた母の愛や、苦しいときには励まし、曲がった時には叱ってくれた父の愛を離れて、わたしたちが仏さまの心に気づくということは、ないのでしょう。
その、お腹が空いたときには食べ物を与え、怪我をすれば癒し、苦しいときには励まし、曲がったときには叱ってくれるそのはたらきが語られているのが、『教行信証』の「化身土の巻」だと思います。
「念仏ひとつ」の教えは、いわば「真仏土」の教えでしょう。
念仏一つを腹の底にたくわえ、、胸の奥におさめて、現実のさまざまな問題に向き合う勇気。それが「化身土」の教えなのではないでしょうか。