曽我量深師のいのちーー法

 

 
 
 
 
曽我量深師の「いのち」法
 
 
 
変わらぬもの
「唯今も藤原さんが、法ということについてお話しされましたが、この「法」というのは誰にあっても何処にあっても、又、何時であっても、又順境にあっても逆境にあっても、その本性は一貫して変わりない。それを法という。それは善人にあっても、悪人にあっても、変わりがない。仏にあっても凡夫にあっても変わりがない。証った人であっても迷える人であっても何らの変わりがない。聖者にあっても増さず、凡夫にあっても減ぜず、不増不減である。これを法という。如何なる時によっても、処によっても変わらぬ。人によって変わらず、環境によってその価値は変わらぬ。仏にあっても我らごとき愚かな者にあっても変わらぬ。どんな者の中にあっても変わらぬ。これを法というのでしょう。
 しかしまた仏をして仏たらしめ、衆生をして衆生たらしめ、迷いをして迷いたらしめ、証りをして証りたらしめ、それは迷いを超え証りを超えて、又一切の人を超え、時を超え、処を超え、環境を超え、あらゆるものを超えて、しかもあらゆる時、あらゆる異なれる場所、あらゆる異なった人、こういうものに応じて顕現しゆくものである。万物が位を異にし、相を異にしておるけれども、しかし、法そのものには変わりがない。その変わらぬもの、仏にあっても弥勒菩薩にあっても変わらぬ、我々衆生にあっても変わらぬ、平等である。これを法というのである。」
   『曽我量深選集』彌生書房・第十二巻所収「自信教人信」七頁)
 
固定した常住ではない
「だからつまりこの差別即平等、平等即差別、そのまま、このままである。それが法というものである。だから法は常住であり、普遍的である。しかし常住といっても固定した常住ではない。やはり無常に即せるところの平等であり、また差別に即せるところの平等である。ただ単なる平等でも、単なる常住でもない。それが法というものである。法という字はサンズイに去るという字を書く。去ってゆく水の如し、淡々として何の執着もない。流れてやまぬ。それが法の意義であります。」
   『曽我量深選集』彌生書房・第十二巻所収「自信教人信」八頁)
 
 
一寸の虫にも五分の魂
「法というのは所謂、一寸の虫にも五分の魂がちゃんとある。誰にも負けないものがある。もっとも威張るのが法ではありませんけれども、絶対に自暴自棄ということはない。威張る人間はすぐに自暴自棄するものです。威張りもしないし、また、へこたれもしない。こういうものが法である。」
   『曽我量深選集』彌生書房・第十二巻所収「自信教人信」八頁)