高明寺レポート
曽我量深対話集
曽我量深対話集・抜粋 (新装版による)
初版発行 昭和四十八年4月二十五日
新装版発行 平成十二年十月二十日
編者 津曲 淳三 発行所 株式会社 彌生書房
〇『禅と真宗』 対話者・鈴木大拙
十波羅蜜
曽我「空から出て来る道はもう菩薩自身が行きづまったことである。そうなれば、自己を超えた諸仏のはげましというか、教というか、そういうものを感得するのでしょう。それがつまり方便というものでしょう。方便、願、力、智と四つを加える。つまり第七は方便、第八は願、第九は力、第十は智である。方便波羅蜜、願波羅蜜、力波羅蜜、智波羅蜜。これらの行はまったく今までの自力の行というものでなしに、いわゆるまったく不可思議の行でありましょう。他力といっては、おもしろくないようだけれども、とにかく自力ではないのでしょう。」(七頁)
(中略)
鈴木「つまり方便というところから出て来たわけですね。」
曽我「そうです。諸仏の方便です。それで七地は方便ですけれども、八地以上は、『華厳経』では、仏果の別徳であると申します。やはりこれは仏の位なのでしょう。仏の位から下ってきたのでしょう。」(八頁)
真智は無知なり
鈴木「今朝、金松(賢諒)君がここに来て、いろんてお話をしておりました。金松君が言うには、自分はギリシャの哲学を研究しているという。私は別に哲学を知らぬから、いったいギリシャ哲学の思想の根本はどこにしるのか、とこう聞いたのです。そうしたら、ソクラテスとプラトンの説にあるという。それでは何がソクラテス、プラトンの思想の根本になっているのかと聞いた。そうしたら、自分が無知であるという自覚が、そのもとになっているという。それでは何に対して無知なのであるか、と聞いた。そうしたら、実は、はっきりわからんが、とにかく光に照らされれば照らされるほど自分が無知になるのだ、無知が深まっていくのだという。それではその光は何だ、光はどこから出てきて、その光をどう感ずるのであるかとこう言ったら、光は「惜しみなき愛」から出て来るのだと思うという。それでは惜しみなき愛から出て来る光というものがあるわけだが、その光に照らされれば照らされるほど、自分の無知が深まっていくのだと、このように、ギリシャ哲学を学んだ金松君が言う。
それで、私は、すでに光といい、惜しみなき愛といえるなら、無知じゃないじゃないか、もうみんなわかっているじゃないかと言った。そうしたら、金松君は返事をしなかった。そこで私は、惜しみなき愛は結構だが、その愛の出所をひとつ調べてみてもらいたいと言った。私は金松君にはその時言わなかったが、その愛の出所は、この空だと言いたい。この空は単にそこに沈んだとか、そこから出てくるという、そういう空ではなくして、この空は無であるといってもかまいません。私の数学は確かでないが、私自身の数学で言うなら、これはゼロである。ゼロは無限の数字であると言いますね。ゼロが無限に等しい。無限が即ちゼロである。空の内容はこれであると私は思う。(……)これには無限の内容がある。この空の中にですね。この無限の中から出て来ることによって、初めて阿弥陀の愛というものがあると考えられる。(……)それなら、どうしてこういうことがいえるか。自分が見て来たのか、そうじゃない。自分が無知と感ずるところで、そこでこんどは愛というが、自分が無知と感ずるところには、もはやそこに、十分な智がある。この智はこういうものだと見せることが、仏教の肝心なところである。」(一一~一三頁)
曽我「『往生論註』の中にこういう言葉がある。「真智は無知なり。無知の故に能く知らざることなし。」(一三頁)
鈴木「そういう意味にこれをとらねばならない。これがただ無知だということだけでは、はなしにならない。これが真智であって、知らざることなき智であるということを、仏教は明瞭に知らす必要がある。こういう智によって、ゼロが無限であり、無限がゼロであるということがわかる。その中から無限の方便が出て来る。一通りの方便じゃない。方便は一通りも二通りも、無限に出てくる。この鉛筆も、このチーン(茶碗を鳴らす音)も方便であり、阿弥陀さまも方便である。そうなって初めて、真宗の阿弥陀さまというものの根源がわかってくる。もう一度いいかえせば、この無限ということは大悲だと、こういうのです。」(一三頁)
凡夫の自覚は仏の自覚
鈴木「自分凡夫であるという時に、仏がその中になかったら、凡夫という考えが出て来ない。」
曽我「ええ、仏でなかったならまあ」
鈴木「凡夫の自覚は仏の自覚である。」(一四頁)
仏に始中終なっていく純粋未来(安田理深)
曽我「(……)われわれ人間は、一生かかって仏になるのである。」
鈴木「結構です。」
曽我「だいたいそのように考えています。」
鈴木「もっといえば一生かかっても、二生かかっても、仏に始中終なって行くのだと思う。」
曽我「それは仏の方へ向いて行くのでしょう。仏の方から招喚されて、仏の方に向かわしめられる。だから、向かわしめられるから、われわれは、生きているあいだは仏ではない。」
鈴木「それと同時に、仏になりつつ、仏である。仏になりつつ行くことが仏である。」
曽我「それは『華厳経』などの仏でしょう。『華厳経』の方は五十二段の菩薩があり、信満成仏といって、十信が満足する時に成仏する。真宗の教えは、特に無上仏とか無上涅槃というのである。あるいは無為自然のさとりといって、法性常楽をさとる。法性常楽、無上涅槃というのでありまして、われわれは生きている間は無上涅槃とは言わない。こういう教えである。それは仏になっているのであって、ただ仏といわぬだけといえばそれまでで、別に拒絶するわけではないが、仏教には真俗二諦ということがある。真諦ではそうでありましょうけれども、俗諦ではそうはいかない。
鈴木「すなわち俗諦へもどって話をするわけですね。」
曽我「真宗からいいますと、要するに俗諦を非常に重んずるのです。」(二〇~二一頁)
信満成仏
曽我「禅は禅で成仏し、真宗は真宗で、今成仏しないけれども、成仏するという一つの信仰がある。」
鈴木「そういうふうに言うわけですね。」
曽我「それを、成仏する信仰は、成仏したのだとおっしゃれば、そうでないとは言いません。しかし、それを言わぬところに真宗がある。」(二四頁)
ここで曽我師がいわれている「成仏する信仰は、成仏したのだ」という発言は、天台本覚門に通じるものがある。信じた時に成仏する。信満成仏『華厳』の教えでもあるのだろうが、注意する必要がある。安易に受けとれば堕落する。深く受けとれば、真実に通じている。
禅と真宗
曽我「(……)とにかく仏教は、禅と真宗の二つに、だいたい摂まるのではないですか。だいたい仏教の大勢をみると、そういうことになっており、後はいらぬものでしょう。」
鈴木「ただいらぬということではなしに、あっても差支えないのじゃていですか。」
曽我「あってもよし、なくてもよし、だいたい二つにまとまるのでないですか。」
鈴木「大智と大悲だから。」
曽我「今日では、真宗も禅宗の言うことを、よく了解していくことが大切であり、また禅の人も、真宗の信者の歩いて行く道が、なるほどそうだと了解していくようになることが必要である。これができたら仏教は統一できる。別に統一しなくても、そのままで統一となる。」
鈴木「統一しなくてもそのままで統一するその通り。この点じゃ曽我さんと同意見である。」(二六~二七頁)