高明寺レポート
華厳経と浄土経
華厳経と浄土経
本願力
「ヴィルシャナ仏は、時おり必要に応じて、眉間の白毫から、歯の間から、手のひらから、足の裏から大光明を放って、全世界を光明の渦に包んでしまう。そして多くのボサツたちが、入れかわり立ちかわり、仏にかわって華厳経の説法を始めるのである。」
「普賢ボサツは、仏のみまえで蓮華蔵の獅子座に坐し、仏の神通力によって三昧に入った。それをヴィルシャナ仏身の三昧と名づける。すると十方世界のすべての仏が現れて、普賢ボサツをほめたたえる。
『なんとまあ、すばらしいことであろう。あなたはこの三昧に入ることができた。これは、ひとえにヴィルシャナ仏の本願力にもとづくためである。……』
そのとき十方の諸仏は、普賢ボサツにさまざまな智慧をあたえ、それぞれ右の手をさしのべてボサツの頭をなでたもうた。その智慧というは、無量無辺の真理の世界に入る智慧、過去現在未来の諸仏のみもとにいたる智慧、無量の衆生の世界に入る智慧、一切の衆生のことばの海をもって真理を述べつたえる智慧である。」(盧舎那品)
玉城康四郎『永遠の世界観華厳経』筑摩書房・現代人の仏教4/20頁~22頁)
十方諸仏
「普賢ボサツは、ここでヴィルシャナ仏の世界について説き出すのであるが、右の文にあるように、普賢ボサツ自身が、ヴィルシャナ仏の座であるところの蓮華蔵の獅子座に坐る。すなわちみずから、ヴィルシャナ仏の代弁者であることを表示する。そしてヴィルシャナ仏の三昧に入るのである。しかも三昧に入るのは、ボサツ自身の力によるのではない。それは、ひとえにヴィルシャナ仏の神通力、本願力にもとづくのである。そしてまた、普賢ボサツはひとりで三昧に入るのではない。右の文には現れていないが、すでにその前に、無数のボサツたちがヴィルシャナ仏をとりまいて坐禅している。しかも、東も西も南も北も、四方八方十方のボサツたちが、結跏趺坐している。このような光景のなかで、普賢ボサツは、仏力によって三昧に入るのである。」
(玉城康四郎『永遠の世界観華厳経』筑摩書房・現代人の仏教4/20頁~22頁)
荘厳
「最高の目覚め(すなわちヴィルシャナ仏)に限りなく帰順していくことと、最高の目覚めを限りなく社会的に実現していくこととは、事実上わかつべきではない。それは混然として一つのことであろう。しかしとくにここでは、後者の、ヴィルシャナ仏の世界を限りなく社会的に実現していくことが、華厳三昧といわれるのである。それは、われわれが仏の世界を華でかざっていくことである。かざるということは、仏典では荘厳ともいう。すなわち仏国土荘厳である。仏国土がかざられ、きよめられていくのである。それが華厳三昧におけるわれわれの任務であり、人生観の指標である。」
(玉城康四郎『永遠の世界観華厳経』筑摩書房・現代人の仏教4/20頁~22頁)
普賢菩薩
「これらのボサツたちは、むかし共に修行したヴィルシャナ仏と友だちであり、すべてのすぐれた徳を完成している。かれらはボサツの修行を完成しており、智慧の眼は明るくすきとおっていて、過去・現在・未来を洞察している。その心は、寂かに統一されているが、ひとたび真理を語り出せば、広大な海のように尽きることがない。すべての人々の心の動きを知っており、それに応じて、その悩みを除いてやり、また、どんな事柄でもそのなかに入って、よくこれを経験し、捨てるべきものは捨て、取るべきものは取る。すべての仏の世界にあそび、浄土を建設しようという願いをおこし、無数の仏を礼拝し、供養し、自分の体は仏の功徳でみちみちている。」(世間浄眼品)
(玉城康四郎『永遠の世界観華厳経』筑摩書房・現代人の仏教4/20頁~22頁)
浄土の菩薩
「二十三願からは還相回向の展開、具体的なその歩みが一つ一つ誓われていくわけでございます。二十二願を離れてこの二十三願があるわけではございません。でそこに、とくに二十二願の願文の、
その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一 切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、
と、ここにはじめて菩薩という言葉が出てきたわけでございます。で、この二十三願から、この菩薩という名がずっと「国中菩薩」という名において、その願文がたてられてきております。菩薩というのは、その「菩薩の行を修し」とありますが、行を修する、つまり歩むものでございますね。安田先生の講義録の一つに『本願の生活者』という題の講義録がございますが、ここでいわれます菩薩というのは、そういう本願の生活者という意味をもつわけでございます。で、菩薩の徳はその修行の徳でございますね。行を修していく。そしてその修していく行というものが二十二願文の、
菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真 の道を立てしめんをば除かん。
と、こうあるわけですが、その「十方の諸仏如来を供養し」というこの言葉が、この二十三願文として開かれてきているわけでございますね。そして次の二十四願とともに、この二願が「供養諸仏」にかかわる願文でございます。それから二十五願から二十九願までが「開化衆生」。「恒沙無量の衆生を開化して」とございますが、その開化衆生ということの展開においてたてられております願が、この二十五願から二十九願の願文でございますね。
で、まず二十三願を見ていただきますと、
たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食の 頃に遍く無数無量那由他の諸仏の国に到ること能わずんば、正覚を取らじ。
と、こういう言葉で誓われているわけでございます。そこにまず「仏の神力を承けて」という、「承仏神力」という言葉がおかれてございます。 」
(宮城豈頁『大無量寿経講義・三十一』大地の会 3~5頁)