「悪人正機」とは懺悔のこと

 

 
 
 
「悪人正機」とは懺悔
 
 
 「悪人正機」とは懺悔であって、言い訳でも、居直りでもありません。
 それは罪の弁護でも、擁護でもないのです。
 
 
 「自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。」
 (三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六七~四六八頁)
 
 
 「懺悔はかくの如き我れを去るところに成立する。我れは我れを去って、絶対的なものに任せきる。そこに発せられる言葉はもはや我れが発するのではない。」
 (三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六八頁)
 
 
 
罪に対して自己を甘やかす心
 
 
 「悪人正機」といい「罪人の自覚」といい、そこには容易に、「罪に対して却って自己を甘やかす心」(*注1)が潜み込みます。
 そして現実には、そうした言葉で語られる「加害者擁護論」のほとんど(「罪なきものは石をもて」「アングリマーラの逸話」など。)
  *「かばいだての論理」参照 
 
が、「罪に対して却って自己を甘やかし、また他者を甘やかす心」を語っているように、私には思えます。
 そこでは「悪人」という自覚による懺悔が生まれるのではなく、かえって「悪人」に甘えた居直りがあり、
 罪に対して自他を甘やかす「悪人擁護論」が語られます。
 悪人として懺悔するのではなく、悪人として擁護する、時には悪人として自己(自他)を誇るという奇妙な論理が現れます。
 
 
 
(注1)「自己は語る者ではなくて寧ろ聞く者である。聞き得るためには己れを空しくしなければならぬ。かくして語られる言葉はまことを得る。およそ懺悔はまことの心の流露であるべき筈である。しかるにまことの心になるということは如何に困難であるか。自己を懺悔する言葉のうちに如何に容易に他に対して却って自己を誇示する心が忍び込み、また如何に容易に罪に対して却って自己を甘やかす心が潜み入ることであるか。」
 (三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六八頁)