高明寺レポート
「みんな悪人」と「一億総懺悔」
「みんな悪人」と「一億総懺悔」
「すべて悪いのは国家であり、その国家からは被害者体験をテコとして自分を切り離すことは容易にできたから、「だましていた」責任の主体は、それを構成する人間を欠いた国家という得体の知れない抽象体でしかあり得ないことになる。被害者体験を叫ぶ声が国民のなかにあれほど強くそれが戦後の思想を形成した一本の柱であるにもかかわらず、戦争責任の追求が国民の側から十分になされなかった、戦争犯罪人を裁く機構を西ドイツのように国民の側でどのようなかたちでももったことがなかったという事実がすべてをよく説明しているだろう。」
(小田実「平和の倫理と論理」〔一九六六年〕/『平和をつくる原理』講談社〔一九六九年〕所収 二七頁)
「このような精神構造は、「一億総ザンゲ」を案出し、また、それを受け入れた精神構造とさしてあいへだたらないものであるにちがいない。「一億総ザンゲ」に対して「一億総被害者」---被害者体験が戦後思想の形成にもたらした最大の功績は、国家に対決する個人の確立ということだったのだが、そして、それは「一億総ザンゲ」というような精神構造と鋭く対立するものであるはずだったが、、被害者体験がそうした欠陥を内蔵していたがゆえに、それは十分にはたされなかった。「一億総ザンゲ」が国家権力によるザンゲの強制であるとするなら、「一億総被害者」は、国家権力と個人のなれ合いであろう。それは、やがて、被害者意識を媒介として、それを拡大した形で、国家の行為のすべてに免罪符をあたえるという道をひらく。」
(小田実「平和の倫理と論理」〔一九六六年〕/『平和をつくる原理』講談社〔一九六九年〕所収 二八頁)
ここにある論理と、「みんな悪人」という、現代真宗の言説からひきだされてくる論理とは、きわめてよく似ています。
それは結局、誰も責任をとらないという思想です。
「一億総ザンゲ」ということは、「みんなに責任がある。みんな悪かったんだ」ということですが、ではそこから、どう責任をとっていくのか、という思想は生まれませんでした。結局、みんな悪かったんだから、誰も責任をとる必要はない、ということに落ち着いてしまったのです。
「一億総被害者」ということも同じで、みんな被害者だったのだから、結局誰も責任をとる必要はない、ということです。
「みんな悪かった」にせよ、「みんな悪くなかった(被害者だった)」にせよ、責任は「みんな」の中に解消してしまいます。そういう思想的雰囲気の中では、だれかの責任を問うなどということはできません。
「みんな被害者」であれば当然、責任は「みんな」の外にあるのだから、「みんな」に責任はない。
「みんな悪かった」にしても、みんな悪かったのだから、「みんなの中の誰か」に責任があるわけではない、ということになります。もし「みんなの中の誰か」の責任を問おうとすれば、「自分にも責任があるのに、誰かの責任を問うのはおかしい」という批判がでてきます。そこから、「自分の責任を問いつつ、誰かの責任も問う」という方向に進むのではなく、結局「みんな悪かったのだから、誰も責めないでおこうよ」ということになってしまった。それが「一億総ザンゲ」の結末でしょう。
そこに決定的に欠けているのは、「自己において責任を負う」という姿勢であり、その場所に足を踏まえつつ、「加害」と「被害」の事実を明らかにしてその責任の所在を問う、という思想的態度でしょう。
現代真宗の(一部によって主張されている)言説は、「みんな悪かった」をさらに進めて、「みんな悪い」を言説の出発に置いてしまいます。
「みんな悪人」なのだということは、何らかの否定すべき行為を実際に「したか」「しなかったか」にかかわらず、存在の規定として「みんな悪い」を前提にします。
「みんな悪人」だから、だれもが加害者になる可能性がある。「さるべき業縁のもよおせば」殺人さえするかもしれない。そういう存在が私たちなのだ。
ということから、どんな悪も責めることはできない、という思想的雰囲気が生まれます。だから、どんな犯罪を犯した人たちに対しても、わたしたちはその責任を問うことはできない。なぜなら、それは自分が「悪人」であることを忘れた、宗教的無自覚を意味するからだ。ということになります。
この「宗教的無自覚」をあらわす別の表現として、「善人」「善人根性」「機の深信の不徹底」「真宗の信心がわかっていない」などの表現が用いられます。
(それを裏返しにして、結局同じになってしまう論理が、山口県光市母子殺害事件を担当した、安田好弘弁護士の用いる「みんなふつうの人」の論理です。これについては別にとりあげます。)
どんなに悪いことをしても「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば救われる、という教えは、容易に、「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、どんなに悪いことをしてもいい、という考えにすべりこんでしまいます。
浄土真宗は「どんなに悪いことをしても「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば救われる、という教えなんですよね」法事の席で、そういう質問をした方がおられました。
私はそのとき、ほんとうはその場合の「南無阿弥陀仏」は、「申し訳ありません」の意味なのだと答えました。
その方は「ああ、そうか」と納得してくれたようでした。
単純な言い方であらわせば、そういうことだと私は思います。
もうすこし仏教的な表現をすれば、「懺悔」です。