「唯除」ーー深く教えられる(安田理深師)

 

 
 
 
 
「唯除」 深く教えられる   安田理深師   1
 
 
 
教えは教えられる人にある
 
 
 「『大無量寿経『の本願ならびに本願成就の経文に、
 
  「唯、五逆と誹謗正法を除く」
 
とあり、「唯……除く」という抑止(おくし)門がおかれている。本願の機としての自覚が、悪人として明らかにされる源泉がここにあるとされる。
 もちろん、はじめは「唯除」という言葉に対して深い自覚はなかったかもしれない。
 むしろ言戒(いまし)めというほどの軽い意味であったかもしれない。
 経典を書いた人はどういう意味で「唯除」の文を書いたかわからないが、その経文を読んだ人は、それがもつ深い意味にふれてきた。
 教えは教えられる人にあるということがある。(……)「唯除」の文についても、その文から浅く教えられたか、深く教えられたかが問題なのである。」
      (安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房・141頁)
 
 
 
「本願から除かれた者が本願の機である」
 
 
「 「唯除」の経文に足を止めざるを得なかった最初の人は曇鸞であり、その次の人は善導である。この二人が「唯除」の経文に深い解釈を加えている。
 (……)この二人の発見した意義を通して、「本願から除かれた者が本願の機である」という弁証法的意義が明らかになったのである。」
       (安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房・147頁)
 
 
 
 
 
 
「唯除」 深く教えられる  安田理深師  2
 
 
利他の信海に帰すれば、これを矜哀(こうあい)して治す、これを憐憫(れんびん)して療(りょう)したまう。
 
 
「難化(なんけ)の三機・難治(なんじ)の三病は、大悲の弘誓を憑(たの)み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀(こうあい)して治す、これを憐憫(れんびん)して療(りょう)したまう。」                              
 
 「親鸞は、この二人(曇鸞・善導)の解釈に先立って自分の言葉をつけている。
 
 
   「ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化(なんけ)の三機・難治(なんじ)の三病は、大悲の弘誓を憑(たの)み、
利他の信海に帰すれば、これを矜哀(こうあい)して治す、これを憐憫(れんびん)して療(りょう)したまう。
   たとえば醍醐の妙薬の一切の病を療するがごとし。濁世の庶類・穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念(ぐねん)すべし。
   本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと。知るべし。
 
 
   それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。
   今『大経』には<唯除五逆誹謗正法>と言い、あるいは<唯除無間悪業誹謗正法及諸聖人>(如来会)と言(のたま)えり。
   『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。
   『涅槃経』には、難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや 。」」(『教行信証』信巻・271頁~272頁)
            (安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房・147頁)
 
 
 
 
 
「唯除」 深く教えられる  安田理深師  3
 
 
 
曇鸞は「観経〔下下品〕」に照らす
 
 
 「曇鸞は『論註』において、『大無量寿経』の唯除の経文を、『観無量寿経』の下下品の経文に照らしあわせて明らかにしている。(……)
 
 
 『観経』の九品は「上上品」であっても「下下品」であってもみな凡夫であることに変わりはない。
 しかし下下品において凡夫の自覚が明瞭になる。(……)
 曇鸞は、その「下下品」を唯除の文と対応させたのである。 
 『大無量寿経』の「唯除」の文には「五逆と謗法が除かれている」といっているが、『観経』では「五逆は助かる」といってる。このように『観無量寿経』と『大無量寿経』との間に矛盾がある。
 
 
 
「衆生」とはどのような存在か
 
 
 曇鸞がこういう問題をだしたのは、『浄土論』の偈文(歌)が「普共諸衆生往生安楽国(あまねくもろもろの衆生と共に安楽国に往生せん)
という句で結ばれるが、その「あまねくもろもろの衆生と共に」という「衆生」とはどのような存在かということが問題になったからである。」
       (安田理深講義集3『仏教の人間像』彌生書房・148頁)