高明寺レポート
三木清の親鸞〔抜粋資料〕
三木清の親鸞 〔抜粋資料〕
「親鸞の思想の特色は、仏教を人間的にしたところにあるというように、しばしば考えられている。この見方は正しいであろう。
しかしその意味は十分に明確に規定されることを要するのである。」
(三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六六頁)
「宗教は単なる体験の問題ではなく、真理の問題である。
真理は単に人間的なもの、主観的なもの、心理的なものでなく、あくまでも客観的なもの、超越的なもの、論理的なものでなければならぬ。
もし宗教が単に体験に属するならば、それは単なる感情、いな単なる感傷に属することになるであろう。
かくして宗教は真に宗教的なものを失って、単に美的なもの、文芸的なものと同じになる。
親鸞の教がともすればかくの如き方向に誤解され易いことに対してわれわれは厳に警戒しなければならない。」
(三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六六~四六七頁)
「もとより親鸞の思想の特色が体験的である、人間的であること、現実的であることに存することは争われない。
そこに我々は彼の宗教における極めて深い「内面性」を見出すのである。しかし内面性とは何であるか。
内面性とは空虚な主観性ではなく、却って最も客観的な肉体的ともいい得る充実である。」
(三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六七頁)
「親鸞の文章には到る処懺悔がある。同時にそこには到る処讃歎がある。」
(三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六七頁)
「自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。」
(三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六七~四六八頁)
「懺悔はかくの如き我れを去るところに成立する。我れは我れを去って、絶対的なものに任せきる。
そこに発せられる言葉はもはや我れが発するのではない。」
(三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六八頁)
罪に対して却って自己を甘やかす心
「自己は語る者ではなくて寧ろ聞く者である。聞き得るためには己れを空しくしなければならぬ。かくして語られる言葉はまことを得る。
およそ懺悔はまことの心の流露であるべき筈である。しかるにまことの心になるということは如何に困難であるか。
自己を懺悔する言葉のうちに如何に容易に他に対して却って自己を誇示する心が忍び込み、
また如何に容易に罪に対して却って自己を甘やかす心が潜み入ることであるか。」
(三木清「親鸞」〔死後発見された遺稿〕/『哲学と人生』講談社文庫〔昭和四六年〕所収 四六八頁)