「平雅之と悪人正機説」〔抜粋資料〕

 

 
 
 
 
平雅行と「悪人正機説」 (井上見淳氏による要約) 
 
                  〔抜粋資料〕
 
 「さて、近年の研究で、この分野から『歎異抄』に座って親鸞の研究をしたのは平雅行氏である。
 氏は、重松明久の「悪人正因」「悪人正機」という整理を駆使して、自らの主張を以下の五点に整理して述べている。
 
 
 
 1)悪人正機説と善人正因説は、悪人を二次的価値体とみる点で同一の世界観に属する。
 
 
 2)階層的悪人正機説と階層的善人正因説は、顕密仏教的浄土教の二表現形態である。
それは顕密仏教的智者には真の仏法を、愚かな大衆には方便をあてがうことによって、民衆の来世救済を口にしつつ、
達人による大衆の現世的宗教支配をもたらした。
 
 
 3)親鸞の思想は、末法的悪人正機説と信心正因説との重層的構造をなしている。
 
 
 4)末法的悪人正機説は、一切の善人を神話化された在世・正像の時代に押し込めることによって、階層的悪人正機説の大衆蔑視観を克服した。
 
 
 5)悪人正因説とは信心正因説の逆説的表現で、平等的悪人たることに無自覚な不信仰者に方便化土往生という宗教的懲罰を下す党派的思想である。
 
 
 氏の論考は、非常に幅広い視野から綿密に行われたものであり、興味深い視点を多々提供した論考として名高いが、「第三章」の基本的な理解においては、信機型理解に座ったものと言ってよいと思う。」
  (井上見淳「『歎異抄』「第三章」の研究史-悪人正機鉄との関わりから-」/   矢田了章編「『歎異抄』に問う-その思想と展開-」〔二〇〇七年〕永田文昌堂 二八二頁)
 
 
 
平雅行が区別する「悪人正機説」と「悪人正因説」
 
 
 「本稿では氏(重松明久氏)の規定に即し、
 
〇悪人を弥陀の正機(一次的救済対象)とする思想を  「悪人正機説」
 
〇『歎異抄』のように悪人を正因(一次的価値体)とする思想を
                         とりあえず「悪人正因説」
 
 と呼んでおきたい。」
     (平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房〔一九九二年〕二二一頁)
  
 
 くりかえし、重松明久説を述べれば
 「重松氏は、(……)浄土教の対機(救済対象)を悪人凡夫とする浄土教に普遍的な思想を悪人正機説、往生の正因を論点の中心とする『歎異抄』第三条のような思想を悪人正因説と規定し直した。」(平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房〔一九九二年〕二二一頁)
 
 
 この「正機・正因--区別説」は、重松氏と平氏との間にも違いがある。
〇重松説の要は、「正機」を(救済対象)と考え、「正因」を(往生の正因)と考える。
〇平説は、「正機」を(救済対象)と考える点では重松説と同じだが、「正因」を(一次的価値体)とする点で、違いがある。
 
 
 
平雅行が指適する「善悪観」の諸相
 
 
〇階層的機根観---「ここ(源頼義の説話)での善人悪人概念が、現下の人間を善根・悪業などの有無によって腑分けしたものであることがわかる。
 このように共時的世界における特定空間の人間を、善根・悪業・三学などの有無によって善人悪人と対比的に弁別する常識的人間観を、ここでは階層的機根観と呼びたい。」
 
 
〇空間的機根観---「印度・赤県是殊之地、果報純熟之人生(二)於其中(一)、日本是辺地也、不善種族生(二)于此(一)」のように、
真の仏法流布国をインド・中国に仮構して「果報純熟」の善人の地とし、日本を粟散辺州とみなして「不善種族」の悪人の地とする人間観を、空間的機根観と呼ぶ。」
 
 
〇正像末的機根観---「世すでに末法なり、人みな悪人なり」のように、正法・像法・末法という時間概念を基軸にして善人(正法像法)・悪人(末法)概念を把握するものを、正像末的機根観と呼びたい。」
 
     (平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房〔一九九二年〕二二三頁)
 
 
 
 
平雅行が批判する「悪人正機」説
 
 
 「悪人正因説は、専修念仏の体制回帰の中で悪人正機説として再解釈され無化されていった。」
     (平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房〔一九九二年〕二七六頁)
 
 
 「顕密仏教にとって、悪人正機説は決して危険な思想であったのではない。むしろ貞慶にみられるように、それは顕密仏教の活性化をもたらし、顕密仏教の「民衆的基盤」の拡充に寄与したのである。」
     (平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房〔一九九二年〕二七六頁)
 
 
 「このことは、専修念仏の思想的極北とも言うべき親鸞の思想を、悪人正機説で概括しようとする通説の破綻を、最も直截に示すもの」
     (平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房〔一九九二年〕二七六頁)
 
 
 「源智はここで「弥陀の本願は、自力可能な善人(一次的価値体)ではなく、不可能な悪人(二次的価値体)のために立てられた」と述べている。
 つまり悪人は解脱の術をもたない二次的価値体であるが故に、弥陀の一次的救済対象(正機)となっているのであり、善人は自力得悟が可能な一時的価値体であるが故に、二次的救済対象(傍機)となったのである。」
     (平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房〔一九九二年〕二七〇頁)