高明寺レポート
日本仏教の罪と罰
第一節 日本仏教の罪と罰
1. 『日本霊異記』などにみる罪と罰
〇『日本霊異記』
日本霊異記は、延暦六年(七八七・注奈良朝末期)に一応まとめられましたが、後になってもとのものに手を入れ、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)にも少し書き加えられいるようです(注1)。この『霊異記』には地獄に関する説話が全部で十篇あり、いずれも死者が数日後に生きかえって地獄の話をするという構成になっています。また地獄に至る途中には、深い大きな河のあることが語られています。
この『日本霊異記』に書かれている、いわば昔の臨死体験を見てみましょう。
この『日本霊異記』に書かれている、いわば昔の臨死体験を見てみましょう。
豊前の国の宮子郡(現在の福岡県京都郡)の副郡長に、膳の広国という人がいました。文武天皇の慶雲四年九月十五日に彼は突然死んだのですが、三日目の十七日の午後八時ごろ息を吹きかえしました。そこで彼は「死後の世界」、今でいえば臨死体験を語るわけです。彼の話によると、自分が死ぬと二人の使者が迎えに来た。連れられて「度南の国」に行き、昔の妻に会った。妻は、夫である広国を怨んだ罪で「頭から尻に鉄の釘が串刺しにさしてあり、額にも鉄釘がうちこまれ、手足は鉄の縄でしばられていた。」その国の王に、「おまえに罪はない。父を見たければ南へ行け」と言われて行ってみると、自分の父が、赤く熱した銅の柱を抱きかかえて立っていた。鉄釘三十七本を身体にうちこまれ、鉄の鞭で朝三百回、昼三百回、夜三百回、あわせて九百回づつ毎日ぶたれていた。なぜかというと、生前に生き物を殺し、人をだまして金をとりあげ、人妻を犯したりした。そのうえ父母に孝養もせず、先輩や上司を敬わず、召使でない者を怒鳴りつけたりした。それでこのような罰を受けているのだという。
最後に「おまえは、すぐ、わたしのために仏像を造り、写経をして、わたしの罪をつぐのうておくれ」と頼まれたのだという。
この話(『日本霊異記』上巻・第三十話「非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて、奇事を示す縁」)は、造仏や写経の功徳を説いたものですが、同時に、わが国における地獄に関する最初の所伝とされています。ここに地獄の名は見られず(度南の国と記される)また王の名も記されていないのですが、この王が「閻魔王であることは疑いえない」(注2)といわれています。
最後に「おまえは、すぐ、わたしのために仏像を造り、写経をして、わたしの罪をつぐのうておくれ」と頼まれたのだという。
この話(『日本霊異記』上巻・第三十話「非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて、奇事を示す縁」)は、造仏や写経の功徳を説いたものですが、同時に、わが国における地獄に関する最初の所伝とされています。ここに地獄の名は見られず(度南の国と記される)また王の名も記されていないのですが、この王が「閻魔王であることは疑いえない」(注2)といわれています。
〇『法華験記』
中国には、金剛般若経・法華経・華厳経など特定の経典ごとに編まれた説話集があります。このうちとくに法華経について、唐代から宋代にかけて、法華経信者の伝記集として何種類もの法華験記が作られました。
日本でも律令時代から法華経の信仰が広くおこなわれ、円仁は法華霊験伝を招来しています(入唐新求聖教目録)。平安中期以降になると、叡山南谷の薬恒の本朝法華験記(承平・天慶のころ)、慶滋保胤(よししげ・やすたね)の日本法華験記、叡山智源の法華験記、叡山鎮源の大日本(国)法華経験記などが作られました(注3)。
その中で完本の伝わるのが、叡山横川の鎮源が撰した『大日本(国)法華経験記』(長久年間〔一〇四〇-一〇四四〕に成立)です。この『法華験記』には、『日本霊異記』と同じように蘇生譚が多く、また地獄の責め苦や冥官の裁判などの話が数多くのせられています。
たとえば出羽の妙達という人は、天暦九年(九五五)に一たん死んだと伝えられる人ですが、『法華験記』(以下『法華験記』とは、鎮源撰『大日本(国)法華経験記』を指すことにします)の巻上〔八〕に、出羽の妙達さんが閻魔王宮にいたり、王から死者の現世での所業、死後の有様などをくわしく聞かされて心に驚きを感じ、やがて蘇生して善事を積むというお話が出ています(注4)。
人間は決して「死後の審判を免れることができない」、「だから生きている間に善事を積みなさい」という、まさに「お説教」というべき物語りでしょう。
井上光貞氏は、『法華験記』に語られる、法華経持経者の行業の中心となるのは読誦であって、その点が造仏や写経の功徳を説く『日本霊異記』とは違っており、また罪業感の深さにも異なりがあると言われています。
「しかし験記(『法華験記』)の六道輪廻に対する考え方は霊異記とは大きく相違している。即ち、霊異記の場合には(a)地獄の裁判や、(b)畜生の転生の話は、それによって因果応報の理を説くことが主眼であり、かつ悪事を犯した場合にも仏教の功徳によって容易に罪を緩徐できるとする現世主義・楽天主義が全巻をおおっていた。これに反して法華験記では、原罪的な罪業感が濃厚であって、法華経の読誦・書写等によって罪業を消滅し、輪廻の繋縛を絶とうとしてもなお絶ちがたい暗さが漂っている。」(注5)
つまり、そこには人間の罪業にたいする容易ならざる感覚があり、そこに「深い宗教性」があると言われるのです。
従って『法華験記』にえがかれる法華信者たちの多くは一種の苦行者であって、戒律を堅持し、断食、ときには焼身供養さえおこないます。また命終の後にも、罪障をたち切るため、髑髏となって読誦をつづけるという話もあります。
日本でも律令時代から法華経の信仰が広くおこなわれ、円仁は法華霊験伝を招来しています(入唐新求聖教目録)。平安中期以降になると、叡山南谷の薬恒の本朝法華験記(承平・天慶のころ)、慶滋保胤(よししげ・やすたね)の日本法華験記、叡山智源の法華験記、叡山鎮源の大日本(国)法華経験記などが作られました(注3)。
その中で完本の伝わるのが、叡山横川の鎮源が撰した『大日本(国)法華経験記』(長久年間〔一〇四〇-一〇四四〕に成立)です。この『法華験記』には、『日本霊異記』と同じように蘇生譚が多く、また地獄の責め苦や冥官の裁判などの話が数多くのせられています。
たとえば出羽の妙達という人は、天暦九年(九五五)に一たん死んだと伝えられる人ですが、『法華験記』(以下『法華験記』とは、鎮源撰『大日本(国)法華経験記』を指すことにします)の巻上〔八〕に、出羽の妙達さんが閻魔王宮にいたり、王から死者の現世での所業、死後の有様などをくわしく聞かされて心に驚きを感じ、やがて蘇生して善事を積むというお話が出ています(注4)。
人間は決して「死後の審判を免れることができない」、「だから生きている間に善事を積みなさい」という、まさに「お説教」というべき物語りでしょう。
井上光貞氏は、『法華験記』に語られる、法華経持経者の行業の中心となるのは読誦であって、その点が造仏や写経の功徳を説く『日本霊異記』とは違っており、また罪業感の深さにも異なりがあると言われています。
「しかし験記(『法華験記』)の六道輪廻に対する考え方は霊異記とは大きく相違している。即ち、霊異記の場合には(a)地獄の裁判や、(b)畜生の転生の話は、それによって因果応報の理を説くことが主眼であり、かつ悪事を犯した場合にも仏教の功徳によって容易に罪を緩徐できるとする現世主義・楽天主義が全巻をおおっていた。これに反して法華験記では、原罪的な罪業感が濃厚であって、法華経の読誦・書写等によって罪業を消滅し、輪廻の繋縛を絶とうとしてもなお絶ちがたい暗さが漂っている。」(注5)
つまり、そこには人間の罪業にたいする容易ならざる感覚があり、そこに「深い宗教性」があると言われるのです。
従って『法華験記』にえがかれる法華信者たちの多くは一種の苦行者であって、戒律を堅持し、断食、ときには焼身供養さえおこないます。また命終の後にも、罪障をたち切るため、髑髏となって読誦をつづけるという話もあります。
井上氏にしたがって記せば、
『法華験記』には、霊異記のを焼きなおした説話(二。番号は続群書類従本による)。
閻魔王の裁きをうけ、過去の法華信仰の故に蘇生した優婆塞の話(三十二)とその類話(八・二十八・八十七)。
法華経受持の功徳によって冥途の三塗河の脱衣婆危難を免れた醍醐住僧、蓮秀法師の話(七十)などがえがかれます。
また、越中立山地獄の記述(百二十四)もあり、地獄が地上の特定の場処に想定される日本型地獄観を示す例として、興味ぶかいものです。そこは罪を作ったすべての人が死後に堕ちるところで、その地獄原のいたる所から熱湯が噴き出しています。またその帝釈嶽は、帝釈や冥官が集まって衆生の善悪を評定する所なのだといいます(注6)。
『法華験記』には、霊異記のを焼きなおした説話(二。番号は続群書類従本による)。
閻魔王の裁きをうけ、過去の法華信仰の故に蘇生した優婆塞の話(三十二)とその類話(八・二十八・八十七)。
法華経受持の功徳によって冥途の三塗河の脱衣婆危難を免れた醍醐住僧、蓮秀法師の話(七十)などがえがかれます。
また、越中立山地獄の記述(百二十四)もあり、地獄が地上の特定の場処に想定される日本型地獄観を示す例として、興味ぶかいものです。そこは罪を作ったすべての人が死後に堕ちるところで、その地獄原のいたる所から熱湯が噴き出しています。またその帝釈嶽は、帝釈や冥官が集まって衆生の善悪を評定する所なのだといいます(注6)。
〇『今昔物語集』
『今昔物語集』は、堀河天皇の嘉承年間(一一〇六-一一〇八)以後、それほど下らない時期の成立と考えられています。
『法華験記』とどうよう、ここにも立山地獄の記述があります。たとえば、立山地獄に堕ちた母のために、三人の男子が法華供養をおこなう話(巻十四)。また立山に修行する僧延好の前に影のような女性が現れて、地獄に堕ちた苦しみを語り、その苦しみを救ってくださる地蔵菩薩の霊験を説く記事(巻十七)などです(注7)。
この『今昔物語集』には、また小野篁(おのの・たかむら)という不想議な人物のエピソードが伝えられています。篁は毎夜京都の六道珍皇寺(ちんこうじ)の裏の井戸(死の井戸)から冥府に通い、明け方、嵯峨の薬師寺(清涼寺の隣)の井戸(生(しょう)の井戸)からこの世に戻ってきます。そこで何をしていたかというと、閻魔の庁で閻魔王の傍に座り、裁判の手伝いをしていたというのです(注8)。
『法華験記』とどうよう、ここにも立山地獄の記述があります。たとえば、立山地獄に堕ちた母のために、三人の男子が法華供養をおこなう話(巻十四)。また立山に修行する僧延好の前に影のような女性が現れて、地獄に堕ちた苦しみを語り、その苦しみを救ってくださる地蔵菩薩の霊験を説く記事(巻十七)などです(注7)。
この『今昔物語集』には、また小野篁(おのの・たかむら)という不想議な人物のエピソードが伝えられています。篁は毎夜京都の六道珍皇寺(ちんこうじ)の裏の井戸(死の井戸)から冥府に通い、明け方、嵯峨の薬師寺(清涼寺の隣)の井戸(生(しょう)の井戸)からこの世に戻ってきます。そこで何をしていたかというと、閻魔の庁で閻魔王の傍に座り、裁判の手伝いをしていたというのです(注8)。
〇『江談杪(ごうだんしょう)』
『続本朝往生伝』を著した大江匡房が生前に語ったことを筆録したとされる『江談杪(ごうだんしょう)』にも、藤原高藤(たかふじ)が少年のとき突然倒れ、やがて息を吹きかえしたときに、自分は死んで閻魔の庁へ行ったけれど、そこに小野篁がいて、篁は閻魔王に次ぐ第二の冥官だったという話をしたことが、伝えられています(注9)。
〇『扶桑略記(ふそうりゃっき)』
『扶桑略記』(皇円撰)は、今昔物語と同じころ、堀河天皇の時代に書かれたと考えられる編年体の史書ですが、そこに『道賢上人冥土記(どうけんしょうにん・めいどき)』が引かれています。これには、天慶四年(九四一)八月二日、道賢が死門に入って金峰山(きんぷせん)浄土へ行き、日本太政威徳天となっている菅原道真と会い、地獄に堕ちている醍醐天皇を見て、同十三日に蘇生したという話が伝えられています。醍醐帝は道真を無実の罪で左遷したために、地獄に堕ちたのだとされます(注10)。
これは物語の企模ははるかに小さいけれど、内容としては、ダンテの『神曲』を想わせます。ダンテの『神曲』にも、政敵を陥れたために地獄の責め苦を受けている政治家や宰相の姿が、描かれています。
これは物語の企模ははるかに小さいけれど、内容としては、ダンテの『神曲』を想わせます。ダンテの『神曲』にも、政敵を陥れたために地獄の責め苦を受けている政治家や宰相の姿が、描かれています。
注
(注1)全訳注・中田悦夫『日本霊異記』(上)はしがき/講談社学術文庫〔一九七八〕五頁)
(注2)岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁
(注3)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二〇九頁
(注4)井上光貞・解題『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕七二二頁
(注5)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一一頁)
(注6)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一〇頁)
(注7)堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六八頁)
(注8)志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁
(注9)志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁
(注10)志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕八頁)
注
(注1)「日本霊異記は、延暦六年(七八七・注奈良朝末期)に一応まとめられた。しかし、後になってもとのものに手を入れ、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)にも少し書き加えられいるらしい。」(全訳注・中田悦夫『日本霊異記』(上)はしがき/講談社学術文庫〔一九七八〕五頁)
(注2)「もとより、ここに地獄の名は見られず,度南の国と記される。(……)また王の名も記されていないが、閻魔王であることは疑いえない。」
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁)
(注3)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二〇九頁
(注4)井上光貞・解題『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕七二二頁
(注5)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一一頁)
(注6)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一〇頁)
(注7)「また『今昔物語』(巻十四)には、同じく立山地獄に堕ちたる母のために、三人の男子が法華供養をなせる話があり、また立山に修行する僧延好の前に影の如くなる女人の現れて、堕獄の苦を語り、地蔵の霊験を説く記事(巻十七)がある。」
(堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六八頁)
(注8)志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁
(注9)志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁
(注10)「『扶桑略記』所引の『道賢上人冥土記(どうけんしょうにん・めいどき)』によると、天慶四年(九四一)八月二日、道賢は死門に入って金峰山(きんぷせん)浄土へ行き、日本太政威徳天となっている菅原道真と会い、地獄に堕ちている醍醐天皇を見て、同十三日に蘇生したという。醍醐帝は道真を無実の罪で左遷したために地獄に堕ちたのである。」 (志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕八頁)
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁)
(注3)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二〇九頁
(注4)井上光貞・解題『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕七二二頁
(注5)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一一頁)
(注6)井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一〇頁)
(注7)「また『今昔物語』(巻十四)には、同じく立山地獄に堕ちたる母のために、三人の男子が法華供養をなせる話があり、また立山に修行する僧延好の前に影の如くなる女人の現れて、堕獄の苦を語り、地蔵の霊験を説く記事(巻十七)がある。」
(堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六八頁)
(注8)志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁
(注9)志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁
(注10)「『扶桑略記』所引の『道賢上人冥土記(どうけんしょうにん・めいどき)』によると、天慶四年(九四一)八月二日、道賢は死門に入って金峰山(きんぷせん)浄土へ行き、日本太政威徳天となっている菅原道真と会い、地獄に堕ちている醍醐天皇を見て、同十三日に蘇生したという。醍醐帝は道真を無実の罪で左遷したために地獄に堕ちたのである。」 (志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕八頁)
参考資料
*参考「『霊異記』には地獄に関する説話がほかに八篇ある。前後十篇、いずれも死者が数日後に生きかえって地獄の話をするというプロットをもっている。(……)地獄に至る途中に河のあることが(……)見られる。」
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四九~一五〇頁)
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四九~一五〇頁)
*参考 「以上は『日本霊異記』上巻の第三十話「非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて、奇事を示す縁」の梗概であるが、わが国における地獄に関する最初の所伝として興味深いものがある。」
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁)
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁)
*参考 「この物語と同じ構想の説話が同じく『霊異記』の下巻第九に見られる。それは「閻羅王、奇表を示し、人に勧めて善を修せしむる縁」と題するが、ここにいう閻羅王とは前述の閻魔王のことである。インドの神話でヤマはラージャ(王)といわれ、ヤマ=ラージャを幹事で閻魔羅闍などと写したものの省略形である。」
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁)
(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁)
*参考「この物語は称徳天皇のときに藤原広足(ひろたり)という者が閻魔王のお召しで地獄に赴き、死んだ妻に会うという、前述の物語とまったく同じプロットであるが(……)地獄へ行く途中に深い河があり、水の色は真っ黒で、流れないで、不気味にしずまりかえっていた。」」 (岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四七頁)
*参考「途中に大きな河があって橋がかかっていた。」『日本霊異記』上巻・第三十話「非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて、奇事を示す縁」 (岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一四三頁)
*参考 「中国には、金剛般若経・法華経・華厳経など特定の経典ごとに編まれた説話集がある。これはインド以来、この種の経典信仰が広くおこなわれ、その実修としての読誦・書写などに関して一定の伝統が形成されていたからであろう。このうち法華経については、インド・西域以来、同様の信仰、実修が展開されたが、それを背景として唐代には恵詳の弘賛法華伝、僧詳の法華伝記が編まれ、(中略)宋代には義寂の法華験記が作られている。日本でも(中略)法華経の信仰は律令時代から広くおこなわれたが、法華経信者の伝記集としては、円仁が法華霊験伝を招来しており(入唐新求聖教目録)、平安中期以降になると、(一)承平・天慶のころの叡山南谷の薬恒の本朝法華験記、(二)慶滋保胤(よししげ・やすたね)の日本法華験記、(三)叡山智源の法華験記、(四)長久(一〇四〇-一〇四四)年間叡山横川の鎮源の撰した大日本(国)法華経験記などが作られた。」(井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二〇九頁)
*参考 「著者の鎮源は、源信が寛弘四(一〇〇七)年に創めた横川霊山因釈迦講の歴名にみえる鎮源と同一人とおもわれるが、その他は不明の人である。」
(井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一〇頁)
「従って本書の法華信者たちの多くは一種の苦行者であって、戒律を堅持し、断食、ときには焼身をおこなう行者もえがかれ、命終の後にも罪障をたち切るために髑髏となって読誦をつづけるという凄絶な話さえしばしばみえている。(十三・二十二・三十九・四十一・五十六・六十三・六十四)。」
(井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一一頁)
(井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一〇頁)
「従って本書の法華信者たちの多くは一種の苦行者であって、戒律を堅持し、断食、ときには焼身をおこなう行者もえがかれ、命終の後にも罪障をたち切るために髑髏となって読誦をつづけるという凄絶な話さえしばしばみえている。(十三・二十二・三十九・四十一・五十六・六十三・六十四)。」
(井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一一頁)
「輪廻思想 法華験記にも、日本霊異記に特徴的だった六道輪廻の思想が強くあらわれている。たとえば、 地獄の閻魔王の裁判の話はここでも諸所に散見し、霊異記のを焼きなおした説話(二。番号は続群書類従本による)の他に、閻魔王の裁きをうけ過去の法華信仰の故に蘇生した優婆塞の話(三十二)やその類話(八・二十八・八十七)、法華経受持の功徳によって冥途の三塗河の脱衣婆危難を免れた醍醐住僧、蓮秀法師の話(七十)などがそれであって、越中立山地獄の記述(百二十四)には、随所に熱湯の噴出する地獄原がなまなましくえがえれ、ここは罪を作ったすべての人々が死後に堕ちるところで、帝釈嶽には帝釈や冥官が集まって衆生の善悪を評定しているという。」
(井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一〇~二一一頁)
「即ち、日々に法華経を読誦することによって過去未来際の罪業を消滅し、それによって輪廻の繋縛を脱するという話が非常に多く、中には死して髑髏になってもなお深夜に読誦の声が絶えないという凄絶な話も一、二にとどまらない。」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二四~七二五頁)
(井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二一〇~二一一頁)
「即ち、日々に法華経を読誦することによって過去未来際の罪業を消滅し、それによって輪廻の繋縛を脱するという話が非常に多く、中には死して髑髏になってもなお深夜に読誦の声が絶えないという凄絶な話も一、二にとどまらない。」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二四~七二五頁)
*参考「類似の例としては巻上〔八〕の出羽の妙達の説話があげられる。それによれば妙達は閻魔王宮にいたり、王から死者の現世での所業、死後の有様などを聞かされ、やがて蘇生して善事を積むのであるが、これは天治二年(一一二五)書写の僧妙達蘇生註記と構成をひとしくする。妙達は天暦九年(九五五)一たん死んだと伝える人であるが」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二二頁)
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二二頁)
「法華験記では輪廻転生の思想があからさまに随所に語られている。」
「かかる輪廻転生の根源としての人間の過去におかした業の深さが、強烈な印象を持って迫ってくる。それは、死後の往生についての不安が基調とてっている往生極楽記と、少なくとも表面上は、対蹠的といってよいほど異なる点であり、著者が見ていないはずの日本霊異記の世界にかえって連続してくる。日本霊異記と同じように蘇生譚が著しく多いこともこれと関連する事実である。」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二二頁)
「かかる輪廻転生の根源としての人間の過去におかした業の深さが、強烈な印象を持って迫ってくる。それは、死後の往生についての不安が基調とてっている往生極楽記と、少なくとも表面上は、対蹠的といってよいほど異なる点であり、著者が見ていないはずの日本霊異記の世界にかえって連続してくる。日本霊異記と同じように蘇生譚が著しく多いこともこれと関連する事実である。」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二二頁)
「その持経者の行業の中心となるのは、(……)就中、読誦である。即ち、日々に法華経を読誦することによって過去未来際の罪業を消滅し、それによって輪廻の繋縛を脱するという話が非常に多く、中には死して髑髏になってもなお深夜に読誦の声が絶えないという凄絶な話も一、二にとどまらない。」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二四~七二五頁)
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七二四~七二五頁)
*参考 「法華験記が日本霊異記と同じく、地獄の責苦や冥官の裁判、人が畜生に転生する話などを数多くのせていることは」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七五三頁)
*参考「今昔物語は、日本古典文学大系本の解題によれば、堀河天皇の嘉承年間(一一〇六-一一〇八)以後それほど下らない時期の成立と考定されているが」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七一八頁)
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七一八頁)
*参考「また『今昔物語』(巻十四)には、同じく立山地獄に堕ちたる母のために、三人の男子が法華供養をなせる話があり、また立山に修行する僧延好の前に影の如くなる女人の現れて、堕獄の苦を語り、地蔵の霊験を説く記事(巻十七)がある。」
(堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六八頁)
(堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六八頁)
*参考「平安時代、小野篁(おのの・たかむら)は、地獄へ通い、閻魔の庁で裁判を手伝っていたという。篁は京都の六道珍皇寺(ちんこうじ)の裏の井戸(死の井戸)から冥府に通い、明け方、嵯峨の薬師寺(清涼寺の隣)の井戸(生(しょう)の井戸)からこの世に戻ってきた。藤原良相(よしみ)は、死後ただちに閻魔王宮に連れて行かれたが、閻魔のそばにいた篁に救われたと伝えられ(『今昔物語集』)、藤原高藤(たかふじ)も少年のとき突然倒れて閻魔の庁へ行ったけれど、蘇生した後に、篁が閻魔庁で第二の冥官を務めていたと語ったという(『江談杪(ごうだんしょう)』)。
『江談杪(ごうだんしょう)』
(志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁)
『江談杪(ごうだんしょう)』
(志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁)
*参考 『江談杪(ごうだんしょう)』『続本朝往生伝』を著した大江匡房が宮廷や文学に関して論じたことを、匡房の死の翌天永三年(一一一二)に没した藤原実兼が筆録したとされる江記の写本の一種)
「江談杪ほか諸種の写本・逸文の現存する江記は、同じ大江匡房の宮廷や文学に関して論じたことを、匡房の死の翌天永三年(一一一二)に没した藤原実兼が筆録したものといわれるが」
(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七三一頁)
*参考「扶桑略記」(皇円・撰)
「扶桑略記は今昔物語と同じころ、堀河天皇の時代に書かれたと考えられる編年体の史書であるが」(『往生伝・法華験記』日本思想大系7・岩波書店〔一九七一年〕井上光貞解題・七一八頁)
*『今昔物語集』は、堀河天皇の嘉承年間(一一〇六-一一〇八)以後、それほど下らない時期の成立と考えられています。
*『今昔物語集』は、堀河天皇の嘉承年間(一一〇六-一一〇八)以後、それほど下らない時期の成立と考えられています。
皇円
「法然は十三歳で比叡山入ると、北谷(東塔か西塔か不明)の源光に仕え、二年後には東塔西谷の功徳院に住する皇円の室に移ったという。皇円は藤原摂関家の出で、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』の撰者として著名な高僧である。」(武田鏡村『(入門)よくわかる親鸞』日本実業出版社〔二〇〇四年〕三二頁)
「法然は十三歳で比叡山入ると、北谷(東塔か西塔か不明)の源光に仕え、二年後には東塔西谷の功徳院に住する皇円の室に移ったという。皇円は藤原摂関家の出で、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』の撰者として著名な高僧である。」(武田鏡村『(入門)よくわかる親鸞』日本実業出版社〔二〇〇四年〕三二頁)