「往生要集」にみる罪と罰

   2.  『往生要集』にみる罪と罰

 

 周知のように、『往生要集』〔九八五年〕(*(岩本裕『極楽と地獄』三一書房〔一九六五年〕一五二頁)は平安時代の僧、源信僧都(九四二~一〇一七)によって著された天台浄土教の書物です。そこには「地獄」や「極楽」のありさまが克明に描かれ、その上で、地獄に堕ちず極楽に生まれるための道は、念仏の他にないことが説かれています。

 その「地獄」の描写はまことに迫真的で凄まじいものがありますが、そこにはどういう「罪」を犯すと、どういう「罰」を受けるのかということも、また詳細に説明されているのです。
 現代のわれわれが持つ「刑法」は、法律によって「犯罪要件と、それに対応する刑罰」を規定したもの(「罪刑法定主義」とそれに基づく「法定刑」)ですが、それと同じ構成をもって(つまり「犯罪要件と、それに対応する刑罰」をもって)語られているわけです。
 今、『往生要集』にしたがって、その「罪」と「罰」をとりあげてみましょう。
 ただしそこで「罰」を与える者は、人間でも神でもありません。たとえ「閻魔の審判」が語られるとしても、「罰」を与えるのは、仏教では原則として「自業自得」の摂理です。つまり、自分で作って自分で報いを受ける「因果応報」の道理なのですが、そこにはおのずから「この罪に対しては、こういう罰がふさわしいはずだ」という、人間の考え方が反映しているのでしょう。

 「罪(犯罪要件)」と「罰(応報の果)」との対照がしやすいように、現代的表現をまじえながら、単純化してみます。
 
 
堕地獄の罪
 地獄には八大地獄がありますが、罪の重さによって、行くべき地獄にちがいがあります。罪が重ければ重いほど、行くべき地獄は深くなり、また受ける苦しみも大きくなります。

一、〔犯罪要件〕 殺生 「いたずらに生きものを殺すこと」
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 等活地獄
  〔刑罰の内容〕 獄卒の刀によって肉を割かれ、鉄杖や鉄棒でからだを粉々に砕かれる。風が吹くとからだが元にもどり、同じ刑罰をくりかえし受けつづける。

二、〔犯罪要件〕 殺生と偸盗の重犯  
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 黒縄地獄
  〔刑罰の内容〕熱鉄の縄でからだに筋をつけられ、その筋目に沿って熱鉄の斧や鋸で割かれる。また、熱鉄の網の中に追い込まれて焼かれる。また、鉄の山に張り渡した縄の上を走らされてから、下で待ち受ける大釜の中に落とされて煮られる。

三、〔犯罪要件〕 殺生と偸盗と邪婬の重犯  
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 衆合地獄
  〔刑罰の内容〕
 ●牛頭(ごず)・馬頭(めず)などのもろもろの獄卒によって、鉄の山の間に追い込まれると、鉄の山が合わさって罪人を押し潰す。あるいは鉄の山が空から落ちてきて、罪人を圧し潰す。あるいは石の上に置かれて大岩で潰され、鉄の臼の中に入れられて鉄の杵で搗かれる。
 ●熱鉄の獅子・虎・狼などのもろもろの獣に貪り食われる。
 ●嘴が燃える鉄でできた鷲が罪人の腸を取り出し、木の頭に掛けてこれをついばむ。
*この「衆合地獄」では、とくに邪婬の罪に対して、「刀葉林(とうようりん)」とよばれる刑場が用意されています。そこには剃刀のように鋭い葉をつけた樹木があり、罪人は樹木の上に美しい女性を見つけて欲情をおこし、その頂をめざして登ってゆきます。その間に罪人の身体は刀の葉でズタズタにされてしまうのですが、頂にたどりついても女性の姿はなく、かえって樹木の下の地上に、その女性が立っている。そして言うには「どうしてここへ来て、わたしを抱いてくれないのですか?」それを聞いていよいよ欲情をおこした罪人が下へ降りようとすると、刀の葉がみな上を向いて、またもや罪人の身体を切り刻みます。罪人が地上に着くと女性はまた樹の上にいる。罪人はまた樹に登る。このようにして無量百千億歳のあいだ、自分の心に誑(だぶら)かされて、苦しみを受けつづけるのだとされています。(注1)刀葉林について 岩波文庫版『往生要集』(上)石田瑞麿訳注〔一九九二年〕二〇~二一頁参照

四、〔犯罪要件〕 殺生と偸盗と邪婬と飲酒の重犯 
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 叫喚地獄
  〔刑罰の内容〕                     
 ●頭が黄いろで手足が長く、眼から火を出している獄卒によって、頭を打たれながら熱鉄の地面を走らされる。あるいは焼鍋(フライパン)で炙られ、あるいはかなえ(ゆで鍋)に投げ込まれて煮られ、あるいは猛炎の鉄の室内に追い込まれる。あるいはまた鉗(かなばし)で口を開かされ、沸えたぎる銅を体内に灌(そそ)がれる。<瑜伽論・大論>

五、〔犯罪要件〕 殺生と偸盗と邪婬と飲酒と妄語の重犯 
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 大叫喚地獄
  〔刑罰の内容〕      作成中です                         

六、〔犯罪要件〕 殺生と偸盗と邪婬と飲酒と妄語と邪見の重犯 
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 焦熱地獄
  〔刑罰の内容〕      作成中です                         

七、〔犯罪要件〕 殺生と偸盗と邪婬と飲酒と妄語と邪見とならびに「浄戒の尼を汚すこと」の重犯   
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 大焦熱地獄
  〔刑罰の内容〕      作成中です                         

八、〔犯罪要件〕 五逆罪をつくること
         因果を否定すること
         大乗を誹謗すること
         四重を犯すこと
         坊主のくせに信者の布施を食いものにすること
  *これはほとんど大乗の五逆に相当する。(注  )
  〔刑罰(堕ちるべき地獄)〕 阿鼻(無間)地獄
  〔刑罰の内容〕      作成中です                         
 
〇語られる思想
 獄卒のことばとして語られる仏教の刑罰思想は、以下のような内容であり、それは厳格な応報思想をあらわしています。
 ●獄卒、罪人を呵責していわく、「心はこれ第一の怨(あた)なり。この怨、最も悪となす。この怨、能く人を縛り、送りて閻羅(えんら/注・閻魔王のこと)の処に到らしむ。汝、独(ひとり)地獄に焼かれ、悪業のために食わる。妻子・兄弟等の親眷(親類のこと)も救うことあたわず」と。〔黒縄地獄の獄卒のことば〕(岩波文庫(上)一七~一八頁)
 ●獄卒、罪人を呵責して、偈を説いて曰く、「異人の作れる悪もて 異人、苦の報を受くるにあらず 自業自得の果なり 衆生皆かくの如し」と。<正法念経>〔衆合地獄の獄卒のことば〕(岩波文庫(上)二一~二二頁)
          
 ●罪人、偈を説き、閻羅人(えんらにん)を傷み恨んで言く、「汝、なんぞ悲心なき またなんぞ寂静ならざる 我はこれ悲心の器 我においてなんぞ悲(あわれみ)なきや。」と。時に閻羅人、罪人に答えて曰く、「己(おのれ)、愛羂(あいけん)に誑(たばか)られて 悪・不善の業を作り 今悪業の報を受く 何が故ぞ我を瞋(いか)り恨むる」と。また云く、「汝、本(もと)悪業を作りて、欲痴の為に誑(たばか)らる かの時なんぞ悔いざる 今悔ゆとも何の及ぶ所ぞ」と。<正法念経>〔叫喚地獄の獄卒のことば〕(岩波文庫(上)二五~二六頁)
 
(注 )五逆とは、
(A)「父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出し、和合僧をやぶること。」〇「無間地獄に堕つべき因なる故また五無間業ともいう」
 小乗の五逆と、大乗の五逆がある。
 小乗の五逆は(A)に同じ。
 大乗の五逆は
 1.寺塔を壊し、経蔵を焼き、三宝の財物を盗むこと。
 2.仏教を謗り、聖教を粗末にすること。
 3.僧侶を罵り、責め使うこと。
 4.小乗の五逆と同じ。
 5.因果の道理を信ぜず、悪口、邪淫などの十不善業をなすこと。
            (『真宗辞典』法蔵館〔昭和十年〕)
 *「四重」とは、「殺・盗・婬・妄語」の四重罪をいう。                       (『岩波・仏教辞典』〔一九八九年〕「極悪」)
この他に、「地獄の別所に行く罪」「飢鬼道に堕ちる罪」「畜生道に堕ちる罪」なども語られていますが、煩わしくなるので省略しましょう。個々の内容が重要なのではなく、仏教の中に、すでに現在の「法定刑」と同じ考え方(罪に応じて罰が決まる、あるいは決めるという考え方)があることを、確認できればいいわけです。

 *参考  源信『往生要集』岩波文庫・石田瑞麿訳注〔一九九二年〕
 
死後法廷の弁護人地蔵菩薩
 これまで罪を問う立場からばかり見てきましたが、逆に、罪を弁護する立場もあることを見ておきましょう。仏教が考えた「死後法廷」の弁護人、それが地蔵菩薩です。
 「(今昔物語の)今昔地蔵説話には、地蔵菩薩が衆生済度のため小僧の姿で夢や現つにあらわれるという思想が広くみられる。(……)第十七話以後の十六説話はみな一種の蘇生譚であって、冥土の閻魔庁で裁きをうけ地獄におつべき身を日ごろ尊信する地蔵菩薩が手に錫杖・経巻をもってたちあらわれ、精々の功徳を冥官に説いてくれたので罪を免ぜられ蘇生した、というのが普通の型である。」「ここでは地蔵菩薩が地獄に救済者としてたちあらわれ、弁護人として訴えてくれるという点が(注霊異記や法華験記とは)全く違っており、その点に地蔵信仰の特色がある。」
    (井上光貞『日本古代の国家と仏教』岩波書店〔一九七一年〕二二二頁)
 

日本の地獄思想           〔抜粋資料〕
 ここで、日本に流布した「地獄思想」の概要をまとめておきましょう。
 だいたい、次のような内容をもっています。
 地獄思想が日本に移入されたのは、飛鳥・奈良時代のようです。古事記・日本書紀の時代には、黄泉の国の物語はあっても、地獄や死後審判の思想はありませんでした。日本人は、死んでもなお罰を受ける、あるいは死後にこそ過酷な罰を受けるという、深刻な罪の意識をまだ知りませんでした。

「この地獄思想が日本に移入されたのは、飛鳥・奈良時代らしいが、いわゆる地獄観が固定するのは平安時代である。これは源信(恵心僧都)の『往生要集』によるところが多い。(……)「地獄」は浄土教の発達に関連して説かれ、平安の中期ごろから、地獄で救いの手をばす仏尊として地蔵信仰がさかんになり、その発達につれて、地獄・極楽の観念が展開し、当時の社会の道徳にも影響を与えたのである。」
  (別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七〇頁)

 「浄土思想の流布とともに、地獄の存在が人々の心に強く根をおろしていった。極楽世界に生まれるか、地獄に堕ちるかは、重大な問題となった。」
 (志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕七頁)
 「我々は、幼いころから「極楽・地獄」という言葉を耳にしてきた。「悪いことをしたら地獄へ行く」「あの人はきっと極楽に行く」という表現にも親しんできた。「地獄には閻魔がいる」ということも聞いてきた。地獄に閻魔がいるのに対して、極楽には阿弥陀仏がいる。」
 (志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕七頁)
 
 「地獄は梵語ナラカの訳で、奈落ともいう。現世において悪事をなし,貪欲であったものが、死後に堕ち苦悩をうけるという世界で、地下にあるとされている。六道(地獄・飢鬼・畜生・阿修羅・人・天)の一つで、閻魔が主宰し、牛頭(ごず)・馬頭(めず)などの獄卒が罪人を責め苛むという。」
  (別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七〇頁)

 八大地獄 
 「地獄には八大地獄(等活(とうかつ)・黒縄(こくじょう)・衆合(しゅごう)・叫喚(きょうかん)・大叫喚(だいきょうかん)・焦熱(しょうねつ)・大焦熱だいしょうねつ)・無間(むけん)<阿鼻・あび>)があり、それはさまざまな別所をもっており、死者の生前に犯した罪の度合いで、どこに堕ちるかが決定される。八大地獄の様相は、源信の『往生要集』に詳しい。」
 (志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一一頁)

 「仏教の地獄思想は、ヒンドゥー教の死後審判思想の影響をうけたもので、中国に移入されると、泰山府君(たいざんふくん)の支配する冥界の思想と結びついて、閻魔を王とする地獄が成立し、「死者の住む楽土」は、死後審判の場となり、苦悩の世界となった。」 (別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七〇頁)

閻魔の審判
 「人間は、死ぬと閻魔の庁に行き、生前の悪行により、罪の軽重が決定される。地獄の業火は、死者が生前に犯した罪によって、燃えるのである。」
 (志村有弘『願わくは、我…安楽国に往生せん』/別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕一〇頁)
四十九日の審判
 「インドの旧い部派仏教に、四有(しう)の説というのがある。
 本有(ほんう)生より死にいたる
 死有(しう)まさに死なんとする刹那
 中有(ちゅうう)死んでまだ生まれない間
 生有(しょうう)まさに生まれようとする刹那
 以上の四つが四有で、人間は死後ただちにつぎの生涯に生まれるのか、それとも暫定的に中間の状態にとどまるのか、という問題を考慮している。暫定的な状態を中有、または中陰といい、その有無を論じているのである。中陰のあいだはまだ死後の行き先が確定していないのであるから、その間は特別の儀礼をいとまなければならない。こういうところから七七、四十九日の供養がはじまった。」
  (別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七二頁)
 「忌明(きあ)け(四十九日)までの忌日(いみび)は、死去した日を入れて、七日ごとに七回あり、それぞれ供養会をいとなむ。」
  (別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七二頁)
 忌日(いみび)は、死去した日を入れて、七日ごとに七回あり、それぞれ、初七日(秦広王・しんこうおう)・二七日(ふたなのか/初江王・しょこうおう)・三七(宋帝王・そうていおう)・四七日(五官王・ごかんおう)・五七日(閻魔王・えんまおう)・六七日(変成王・へんじょうおう)・七七日(泰山王・たいせんおう)の審判をうけるとされている。  (参考・別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七二頁)
 
三途の川
 「『地蔵十王経』によれば、第一の王庁(秦広王・しんこうおう)と第二王庁(初江王・しょこうおう)の間に三途川(さんずのかわ)がある。」
  (別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七二頁)

 「冥土に行く途中にある川で、亡者が初七日に渡るといわれている。葬頭(そうず)河、三瀬(みつせ)川、わたり川ともいう。この川には緩急の三つの瀬があり、生前の業により渡るのに三途(さんと)があるとされている。三瀬(みつせ)川の名はこれによる。
 「渡る所に三有り。一に山水瀬、二は江深瀬、三には有橋渡(ゆうきょうと)あり」
 善人のみが橋を渡ることができる。それ以外の亡者は水に入って川を渡らなければならない。これには山水瀬(浅い瀬)渡りと江深瀬(濁流)渡りがあり、罪の浅いものは前者を、悪人は後者を渡る。
 滔々たる紫色の流れの対岸には衣領樹(えりょうじゅ)があり、その下には懸衣翁(けんねおう)と懸衣嫗(けんねう/奪衣婆・だつえば)がいる。亡者の衣服を奪って衣領樹にかけ、枝のしなり具合によって生前犯した罪の軽重を問うのである。この結果は初江王(しょこうおう)のところにおくられる。初江王はこれによって最初の審判を下す。」
  (別冊歴史読本「死後の世界がわかる本」新人物往来社〔一九九四年〕二七八頁)
   
 
立山地獄・白山・恐山

 「山中に地獄ありとした古い記録は、立山地獄の名高い説話がある。『法華験記』(巻下)には、早く平安朝中期に於いて、三井寺の僧この山に遊び、立山地獄において若き女に逢い、その生国の父母への伝言を依頼された物語があり」
 (堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六八頁)
 「日本でも、他の諸民族に顕著であったように、山は聖地であり、そこに死霊が赴くと信じられていたのである。(……)日本人が諸宗教を摂取する以前の、いわゆる固有信仰の中で、山岳信仰の占めた位置は重かった。」
 (和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕はしがき 二頁)
 「中でも、より固有山岳信仰に習合しつつ、山岳宗教として独自南無阿弥陀仏実践修行方式を育てていった、天台系・真言系の修験道があった。それはもっとも日本的な山岳信仰を含んだ宗教として、平安朝以来、とりわけ中世以後、各地方の霊山信仰を吸収しつつ、大いに世に拡まり、山伏としての修験者の山間修行がきわだっていき、その験者として、念仏聖としての活躍は目立っていった。」
 (和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕はしがき 二~三頁)
 修験道は、「明治維新政府が、神道を国教として政治理念の支えにすべく、神仏分離を行った」「結果、廃止ということになったけれども、それでも民間信仰に宿る、修験道に培われけ来た山岳信仰の伝統は、現代まで民族の中になお活きている。」
 (和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕はしがき 三頁)

 「田名部はすなわち恐山のいいであり、今訛って宇曽利山という。半腹に円通寺あり、山頂は八葉蓮華の形をなすと説かれる。中央火口原湖の上流を賽河原と称し、下流を三途川といい、周囲に血ノ池、劒ノ山、畜生道、八大地獄あり、また極楽浜と名づくる一画も存する。毎年六月二十四日は地蔵の縁日なりとて、死者の苦難を救わんため、男女多く集まって血盆経を誦するということである。」
 (堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六七頁)
 「恐山は古く宇曽利山とよばれていた。全体の地形が火山の外輪山と火口原からなり立つ。その火口原に流れこんだ滞水が作った満々たる火口湖の宇曽利湖と、岩の間から湧出する熱湯硫黄によって硫化し、草木の緑を奪い取られた灰色の石川原とが、異様な風景を点描している。」
 (桜井徳太郎「恐山の地蔵講とイタコ」/桜井徳太郎編『山岳宗教史叢書6<山岳宗教と民間信仰の研究>』名著出版〔昭和五一年/一九七六年〕所収 四〇一頁)
 「深山を跋扈する修験者たちの目にとまったこの風景はたちまちのうちに霊場化され、その開創者を円仁慈覚大師とする説がまことしやかに流されてるに及んで、みちのくの人の胸臆に、恐山信仰のイメージが強く刻まれるにいたった」
 (桜井徳太郎「恐山の地蔵講とイタコ」/桜井徳太郎編『山岳宗教史叢書6<山岳宗教と民間信仰の研究>』名著出版〔昭和五一年/一九七六年〕所収 四〇二頁)
 「歴史的事実として、恐山霊場が誰によって開かれたのか、また恐山信仰の基礎がいつ創められたかは、信頼するに足る証拠資料の発見されない限り、明確にすることはできない。」
 (桜井徳太郎「恐山の地蔵講とイタコ」/桜井徳太郎編『山岳宗教史叢書6<山岳宗教と民間信仰の研究>』名著出版〔昭和五一年/一九七六年〕所収 四〇二頁)
 
 「そういう意識の深まる過程のなかで、あるいは修験行者の活動、または延命救済の地蔵菩薩の霊験譚などをからみ合わせて、恐山信仰の根幹は形成されてきたものと思われる。」
 (桜井徳太郎「恐山の地蔵講とイタコ」/桜井徳太郎編『山岳宗教史叢書6<山岳宗教と民間信仰の研究>』名著出版〔昭和五一年/一九七六年〕所収 四〇二頁)
 「今日恐山の元締となって、地蔵講を主催する禅宗の円通寺が、恐山本坊として全山を統轄しかつ地蔵講会を主宰するにいたった時期は、どんなに早く見積もっても一六世紀をさかのぼることができないであろう。」
 (桜井徳太郎「恐山の地蔵講とイタコ」/桜井徳太郎編『山岳宗教史叢書6<山岳宗教と民間信仰の研究>』名著出版〔昭和五一年/一九七六年〕所収 四〇二頁)
 「恐山の山岳信仰と仏教的地蔵信仰とが結びつくためには、恐山の周辺部落に広く分布する地蔵講の成立がこれに大きな力をかしていた」「つまり、周辺諸部落の地蔵信仰がたかまるにつれ、その勢いが集積した結果、やがて恐山に地蔵菩薩を祀る堂祠が建造さたのである。」
 (桜井徳太郎「恐山の地蔵講とイタコ」/桜井徳太郎編『山岳宗教史叢書6<山岳宗教と民間信仰の研究>』名著出版〔昭和五一年/一九七六年〕所収 四〇二頁)
 「いったん恐山が地蔵菩薩の霊場に指定されると、(……)江戸中期ごろには、その名が江戸の市中や上方にまで知られるにいたったという。」
 (桜井徳太郎「恐山の地蔵講とイタコ」/桜井徳太郎編『山岳宗教史叢書6<山岳宗教と民間信仰の研究>』名著出版〔昭和五一年/一九七六年〕所収 四〇二頁)
 「立山と並び称される加賀白山は(……)しかして、事実白山中には賽河原、畜生谷、阿弥陀ケ原などの地名を存して、かってこれが地方的な死者の世界と考えた人々のあったことを明示している。」
  (堀一郎「山岳信仰の原初形態」/和歌森太郎編『山岳宗教史叢書1<山岳宗教の成立と展開>』名著出版〔昭和五〇年/一九七五年〕所収 六九頁)
 
 
 (五来重・桜井徳太郎・大島建彦・宮田登=編『講座・日本の民俗宗教』3<神観念と民俗>弘文堂〔昭和五四年/一九七九年〕    )