高明寺レポート
第三節 大乗経典にみる「罪」と「懺悔」
第三節 大乗経典にみる「罪」と「懺悔」
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〇『涅槃経』
「第八章の「梵行品」に進みますが、この章では、インドの有名な歴史的事実である、釈尊に深く帰依していたマガダ国のビンビサーラ王から王位を奪った阿闍世王子の物語が説かれています。」
(小川一乗『さとりとすくい涅槃経を読む』春秋社〔二〇〇三年〕一七三頁)
「ビンビサーラ王は王子の阿闍世によって王位を奪われ、殺されます。」
「ストーリーは、阿闍世が父王を殺したという罪の意識にさいなまれる苦悩のために、体中に熱が生じ、化膿し、それが瘡蓋となり、悪臭を放つ。六師が次々と現れて阿闍世の苦悩を取り除こうとする。」「最後に真摯な仏教徒で医者である耆婆が登場します。」
その耆婆の言葉です。
その耆婆の言葉です。
「王は罪を作られましたけれども、心に深く後悔して慚愧をいだいていられる。大王、仏たちは常にこのように説いていられます。<二つの浄らかな法があって、よく衆生を救う。一つには慚(ざん)であり、二つには愧(ぎ)である。慚(ざん)とは自分がふたたび罪を作らぬことであり、愧(ぎ)とは人を教えて罪を造らせないことである。また、慚(ざん)とはみずからかえりみて恥じることであり、愧(ぎ)とは人に向かって告白することである。また、慚(ざん)とは人に対して羞じることであり、愧(ぎ)とは天に対して羞じることである。これを慚愧という。慚愧のない者は人とは名づけず畜生という。慚愧があるからよく父母・師長を敬い、慚愧があるから、父母・兄弟・姉妹の関係もうるわしく結ばれるのである>と。」
(『聖典意訳・教行信証』〔信文類〕西本願寺 一七四~一七五頁)
(『聖典意訳・教行信証』〔信文類〕西本願寺 一七四~一七五頁)
また空中から聞こえてくる、殺された父王ビンビサーラの声も言います。
「そのとき、空中に声があって、大王、一つの逆罪を作ればまちがいなくそれに相当する罪を受ける。もし、二つの逆罪を造れば二倍の罪を受けるであろう。五逆罪をつぶさに造れば罪もまた五倍であろう。大王よ、そなたの悪業はかならず免れることはできぬであろう。願わくは大王、すみやかに仏のみもとに往け。仏のほかにだれも救い得るものはない。」
(『真宗聖典』西本願寺版『教行信証』〔信文類〕一七六頁)
「そのとき、空中に声があって、大王、一つの逆罪を作ればまちがいなくそれに相当する罪を受ける。もし、二つの逆罪を造れば二倍の罪を受けるであろう。五逆罪をつぶさに造れば罪もまた五倍であろう。大王よ、そなたの悪業はかならず免れることはできぬであろう。願わくは大王、すみやかに仏のみもとに往け。仏のほかにだれも救い得るものはない。」
(『真宗聖典』西本願寺版『教行信証』〔信文類〕一七六頁)
阿闍世は最後に釈尊の教えを聞いて、深い懺悔の涙を流しながら、自分の罪を悔いて救われていくわけですが、この『涅槃経』に語られる
「慚愧なき者は人せず、畜生となす」
という言葉は、たいへん重要です。
また父王ビンビサーラの声がいう
「一つの逆罪を作ればまちがいなくそれに相当する罪を受ける。二つの逆罪を造れば二倍の罪を受ける」
「悪業はかならず免れることはできぬ」
という言葉も忘れることができません。
『涅槃経』〔第八「梵行品」〕は確かに、五逆罪を犯した阿闍世の救いを説くのですが、その前提には、こうした応報思想と、慚愧の心がなければ決して救われないのだという、強い主張があることが分かります。
「慚愧なき者は人せず、畜生となす」
という言葉は、たいへん重要です。
また父王ビンビサーラの声がいう
「一つの逆罪を作ればまちがいなくそれに相当する罪を受ける。二つの逆罪を造れば二倍の罪を受ける」
「悪業はかならず免れることはできぬ」
という言葉も忘れることができません。
『涅槃経』〔第八「梵行品」〕は確かに、五逆罪を犯した阿闍世の救いを説くのですが、その前提には、こうした応報思想と、慚愧の心がなければ決して救われないのだという、強い主張があることが分かります。
〇『勝鬘経』
『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は、如来蔵思想を理論的に発展させた重要な経典とされています。その成立は四世紀中葉に推定されますが、サンスクリット原本は伝わっていません。
「世尊よ、今後私は、(中略)如来の説かれた教えやおきてをないがしろにする性質のものたちを見たならば、けっして無関心ではすごしません。世尊よ、部落でも村でも、町でも田舎でも、また王城の所在地でも、だれかれを問わず、私の命令の及ぶかぎり、こらしめるべきたぐいのものたちはこれを折伏し、救いとるべきたぐいのものたちに対しては、これを摂受します。これはなぜかといえば、世尊よ、この折伏と摂受とによって、世の中に真実の教え(正法)をとこしえにあらしめるためです。真実の教えがもし永続するならば、神々や人間たちの身に生まれるものは増大し、(死後)悪道に赴くものたちは減少するでしょう。世尊よ、これこそは世尊が法輪を転ぜられた(目的)にしたがう道であります。」(注 高崎直道訳「勝鬘経」/中央公論社・大乗仏典12『如来蔵系経典』所収〔一九七五年〕六九~七〇頁)
右のことばは、この経典の主人公、勝鬘夫人(シュリーマーラー)が、世尊のみ前で「菩提の座に達するまで固く守ります」と奏上する「十の誓い」の、九番目の誓いです。
ここでいわれている「折伏」について、訳注者の高崎直道氏は、「こらしめる」と同義で、次行の「摂受」の反対であるとされています。
単に「ゆるし、救いとる」だけでなく、同時に「こらしめる」こともなければ、世尊にしたがう道とはならないのだという、注目すべき表現です。
ここでいわれている「折伏」について、訳注者の高崎直道氏は、「こらしめる」と同義で、次行の「摂受」の反対であるとされています。
単に「ゆるし、救いとる」だけでなく、同時に「こらしめる」こともなければ、世尊にしたがう道とはならないのだという、注目すべき表現です。
〇『金光明経』
「『金光明経』は護国思想と関係が深いとされている。たしかに日本仏教において護国三部経として本経典が重要なものとなっている。さらに中国仏教でも、『金光明経』が護国経典として取り扱われていた。すなわち中国仏教で本経典が護国思想と関係ありとされたのは、梁武帝十八年(西紀五一九年)に慧皎の撰述した『高僧伝』の記述が初見のようである。」
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題二六頁)
しかし「インドにおいて『金光明経』が護国経典として取り扱われたという事実が明らかではない。(……)『金光明経』に含まれていた護国思想の強調はインド以外の地域、たとえば西インドから西域地方で開華したとも考えられる」
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題二七頁)
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題二七頁)
「インドにおける梵語文献における本経の引用は懺悔品と空性品であって、四天王品や堅牢地神品ではない。」
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題二七頁)
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題二七頁)
「何故に『金光明経』といわれるか。これは本経の「夢見金鼓懺悔品」第四に出る次の説話から命名されたものである。すなわち妙幢菩薩がある夜の夢中に大金鼓の光明晃曜として日輪の如く輝けるをみた。その金鼓を一人の婆羅門が打ち鳴らしたところ、微妙の韻文が流れ出した。そしてその内容は懺悔の法門であった。」
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題七頁)
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題七頁)
「『金光明経』の名称の根源ともいうべきこの第四品「夢見金鼓懺悔品」は『金光明経』の中核思想を形成するものであり、しかもそこに説かれる「懺悔」という思想は本経のみならず大乗仏教における重要な地位を占める思想である。」
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題七~八頁)
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題七~八頁)
「本経典の成立については、漢訳の資料から判断すると曇無讖四巻本が西紀四一二四二一年に訳されているので、五世紀には『金光明経』が存在していたことになる。しかし一四〇年ほどの経過があるが、四巻本から八巻本に増広され、さらに八世紀には十巻本と増広されてきた。」
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題七~八頁)
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題七~八頁)
「また思想的には『十地経』『般若経』や『法華経』の影響のほか、唯識思想を窺わせる偈文が散見されるが、本経の引用が『大乗集菩薩学論』や八千頌般若の注釈にみられることも注意しなければならぬ。」
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題一四頁)
(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題一四頁)
懺悔とは、「二度としない」という誓いです。
『涅槃経』にも、「慚(ざん)とは自分がふたたび罪を作らぬことであり、愧(ぎ)とは人を教えて罪を造らせないことである。」とあります。
失訳『玉耶女経』(正蔵第二巻八六四頁)に、「仏言善哉玉耶、聴汝懺悔莫復更作」とあるごとく(注 壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題一七頁)、「また更に(その罪を)作るなかれ」というのが、懺悔をもってゆるしとする仏意でしょう。
仏教における「赦し」は、懺悔において、「その罪を二度とおかさない」という誓いにおいてであることを確認しておきましょう。
この『金光明経』は、懺悔による滅罪の思想を中核としているのですが、「第二十・王法正論品」では、世尊にたいして、地神が治国の要諦をたずねます。
「国法の厳正・造悪遮止の重要性を強調し、自利利他に偏党なく、正法尊重の正しい王道を示す。この王道により一切の人民をして十善を行わしむれば、国土昌平豊楽にして、諸天善神は守護に参集する。しかし非法の悪政を行う時は天地の災禍は起こり国家の喪乱をみると警告する。」 (壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕解題三八頁)
「その時、此の大地神女(だいじじんにょ)、名づけて堅牢という。大衆の中において、座より起(た)ちて、仏足を頂礼し、合掌恭敬して、仏に白(もう)して言(いわ)く、『世尊、諸国の中において人王たる者、もし正法なくば、国を治め衆生を安養し、および自身長く勝位に居ることあたわじ。ただ願わくば世尊、慈悲に哀愍して、まさに我がために王法正論、治国の要を説き、諸の人王をして法を聞くことを得、已に如説に修行して正しく世を化し、能く勝位をして永く安寧を保たしめ、国内の居人をしてことごとく利益を蒙らしめたまうべし。』」(壬生台舜『金光明経』大蔵出版・仏典講座13〔一九八七年〕二六七頁)
この請いに応じて、世尊が治国の要諦を説くのですが、その中にはこのような言葉が出てきます。
「諸の非法悪業を滅除して、生ぜざらしめ、有情を教えて善を修せしめ、天上に生ずることを得しむ。」
「もし諸の悪業を造らば、現世の中において、諸天をして護持せざらしめ、その諸の悪報を示す。」
「国人悪業を造るも、王捨てて禁制せざれば、これ正理に順ずるに非ず、治擯(ちひん)して当に法の如くすべし。もし悪を見て遮せずんば、非法便(すなわ)ち滋長して、ついに王の国内をして、姦詐(かんさ)日に増して多からしむ。」
「王、国中の人を造悪を見て、遮止せざれば、三十三天の衆、ことごとく忿怒の心を生ず。此れに因よりて国政を損し、諂偽(てんぎ)世間に行われ、他の怨敵に侵され、その国土を破壊(はえ)す。」
「もし人善行を修すれば、当に天上に生ずることを得べし、もし悪業を造れば、死して必ず三塗に堕す。」
「もし自国の中において、非法を行ずる者を見ば、法の如く当に治罰すべし、応に捨棄を生ずべからず。この故に諸の天衆、皆この王を護持す。諸の悪法を滅して、よく善根を修するをもってのゆえに。」
「王はこの世の中において、必ず現報を招く、善悪の業において、行捨を衆生に勧むるに由る。善悪の報を示さんがための故に、人王となることを得、諸天共に護持して、一切ことごとく随喜す。」(二六九~二七三頁)
国の中の誰かが非法をおこない、悪業を造るならば、決してそれを見逃してはいけない。王がそのような姿勢であれば、必ず国は乱れ、破壊されていく。だから正しい「裁き」を行いなさいと、はっきりと説いています。
「もし諸の悪業を造らば、現世の中において、諸天をして護持せざらしめ、その諸の悪報を示す。」
「国人悪業を造るも、王捨てて禁制せざれば、これ正理に順ずるに非ず、治擯(ちひん)して当に法の如くすべし。もし悪を見て遮せずんば、非法便(すなわ)ち滋長して、ついに王の国内をして、姦詐(かんさ)日に増して多からしむ。」
「王、国中の人を造悪を見て、遮止せざれば、三十三天の衆、ことごとく忿怒の心を生ず。此れに因よりて国政を損し、諂偽(てんぎ)世間に行われ、他の怨敵に侵され、その国土を破壊(はえ)す。」
「もし人善行を修すれば、当に天上に生ずることを得べし、もし悪業を造れば、死して必ず三塗に堕す。」
「もし自国の中において、非法を行ずる者を見ば、法の如く当に治罰すべし、応に捨棄を生ずべからず。この故に諸の天衆、皆この王を護持す。諸の悪法を滅して、よく善根を修するをもってのゆえに。」
「王はこの世の中において、必ず現報を招く、善悪の業において、行捨を衆生に勧むるに由る。善悪の報を示さんがための故に、人王となることを得、諸天共に護持して、一切ことごとく随喜す。」(二六九~二七三頁)
国の中の誰かが非法をおこない、悪業を造るならば、決してそれを見逃してはいけない。王がそのような姿勢であれば、必ず国は乱れ、破壊されていく。だから正しい「裁き」を行いなさいと、はっきりと説いています。
これは重要な思想であり、今日あらためて注目すべき、ほとんど見失われている仏教の姿勢だと思います。